インターネット上に公開された漫画『脳外科医竹田くん』の作者が、登場人物のモデルとなった医師に対して、この漫画に関して、名誉毀損を理由とする損害賠償の債務が存在しないことの確認を求めて大阪地裁に提訴した。
作者側によると、この裁判に先立って、医師は2023年10月、漫画が名誉毀損にあたるとして、発信者情報の開示命令を申し立て、東京地裁が2024年6月、プロバイダに開示を命じた。プロバイダは同年7月、作者の住所や氏名など個人情報を医師に開示したという。
発信者情報の開示手続きは通常、発信者の個人情報を入手したのち、謝罪や示談を求めたり、交渉の末に損害賠償請求や刑事告訴したりするためにおこなわれる。
作者によると、医師はまだ民事・刑事での法的措置をとっていないという。今回、作者側は、そのような措置がとられる前に「先手を打って」、漫画が名誉毀損にあたらないことを確認する債務不存在訴訟を起こしたかたちだ。
3月11日の記者会見で、作者側の代理人をつとめる平野敬弁護士は、医師が法的措置をいつとるかわからない状態にあったことで「開示されて3年間、怯え続けなければいけない。先手を打って心身の安定をはかりたい」という考えからも、今回の提訴に至ったと説明した。
民法のルールでは、加害者を知ったときから3年間行使しなければ損害賠償を求める権利を失うとされている。
発信者情報が開示されたあとに債務不存在確認訴訟を起こす意味について、インターネットの問題にくわしい中澤佑一弁護士が解説する。このような動きは今後トレンドになりえるのだろうか。
●発信者開示請求の手続きには「正当な理由」が求められる
——発信者情報の開示が認められて発信者の個人情報を入手した場合、損害賠償請求などの法的措置を必ずとらなければいけないでしょうか
開示請求手続きの段階では、請求者側は発信者情報開示を受けて何をする予定か、情報開示を受ける目的が何かを主張します。そして、それが法律上の正当な理由にあたると認められなければいけません。一般的には民事上の損害賠償請求の予定などです。
しかし、いざ開示を受けてみて発信者が判明したときに、「この人には請求したくない」「法的措置をとりたくない」となることもあるものです。
ですので、開示請求段階の主張は、あくまで予定または仮定であって、開示請求ののちに必ず損害賠償請求や刑事告訴などの法的手続を実行しなければならない、ということはありません。開示を受けて相手を特定し、何もしないという対応でも何も問題はありません。
●「竹田くん」を相手とした「債務不存在確認訴訟」の意味は
——漫画の作者側が起こした裁判のポイントを教えてください
今回の訴訟は、通常は訴えられる立場にある作者側が、自ら積極的に裁判に打って出て、自身に法的な責任がないことを確認するというものです。法律上は「債務不存在確認訴訟」と言います。
——今回のような訴訟は珍しいでしょうか。また、開示請求で身元が判明した側が、債務不存在確認訴訟を起こすことには、どんなメリットが考えられますか
発信者情報開示に関連しての発信者側からの債務不存在確認訴訟は割合としては多くはありませんが、それなりに件数はあるようで、決して珍しいことではないようです。
作者が債務不存在確認訴訟を起こした大阪地裁
発信した記事や漫画が他人の名誉を毀損するか否かなど、法律上の責任について争いや見解の相違がある場合、最終的に訴訟で決着がつくまでは法律関係が確定しません。
そのため、発信者側は、相手から訴えられるまでは、法律上の地位が不確定のまま訴訟を待ち続けることになります。
この状態は、金銭的に支払いを命じられるわけでもなく、現実的な不利益は発生していませんが「実際のところ訴えられた場合にはどうなるのかがわからない」という不明確さゆえの不利益があるので、当事者としては結果を確定させたいというニーズがあります。
このような場合に、発信者側から、自分の法律上の地位を積極的に確定させるための手続きとして債務不存在確認訴訟があるのです。
債務不存在確認訴訟のメリットとしては主に2つ考えられます。
1つ目は、単純に訴えられるのを待つというストレスから解放されて、自ら積極的に行動できるという心理的な面でのメリットです。
2つ目は、自ら積極的に仕掛けることで、相手に準備が整う前に先制でき、訴訟の"土俵"をも設定することで有利に裁判を進めることが可能になる場合もあるというのがメリットと言えるでしょう。
●債務不存在確認訴訟のリスクやデメリット「寝た子を起こす」ことにも
——逆に債務不存在確認訴訟を起こすことのリスクやデメリットはありますか
相手から訴えてこないということの背景としては、まずは名誉毀損が成立するか微妙なラインなど法律上の難しさのために諦めている可能性が考えられます。また、法律的な問題とは別に、相手に金銭を請求する気はないといった事情が考えられます。
ですので、発信者側としては、放置していればそのまま時効になり責任がなくなる可能性もあります。
このような背景があるのに、当事者が債務不存在確認訴訟を提起すると、手打ちにしようとしていた相手も覚悟を決め、「よろしい、ならば戦争だ」となる可能性もあるわけです。
そして、裁判で敗訴して、損害賠償債務を負ってしまうという「寝た子を起こす」ような結果になるリスクは当然としてあります。
——今回のような手段は、どのようなケースで有効な対策となりえるでしょうか
個人的な考えですが、単純な金銭債務の問題であれば、名誉毀損による慰謝料額がそれほど高額にならないことも踏まえ、訴えられるまで待つことをせず、あえて債務不存在確認訴訟に打って出るメリットは少ないと思います。
しかし、今回の訴訟は、漫画『竹田くん』のモデルとなった医師を称するSNSのアカウントが、開示請求が認められたことを公表しつつ、作者への法的手続を匂わせることで、漫画作品全体の信用性や価値に疑問が生じかねないような状況に対するカウンターとして、いわば作者側の名誉回復を図るといったことも目的の一つにあるようです。
この意味では、債務不存在確認訴訟は非常に有効で、相手に対して、そこまで言うのであれば白黒つけようと迫る一手だと言えると思います。
——今後、訴えられた相手が法的措置をとることも考えられますか
債務不存在確認訴訟が起こされた場合の一般的な流れとしては、被告側で債権が成立していること、この訴訟であれば名誉毀損が成立していることを主張していきます。
通常は、被告側で実際に損害賠償請求訴訟を反訴として提起することになります。反訴の提起がされると、債務不存在確認訴訟は「確認の利益」がなくなった(反訴を棄却すれば債務がないことも確定できる)として、却下ないしは取り下げとして終了になるのが一般的です。
債務不存在確認訴訟としてではなく、反訴として請求されている通常の損害賠償請求訴訟として裁判が進んでいくことになります。