同性同士の法律婚が認められないのは憲法に反するとして、北海道の同性カップルが国を相手取り、損害賠償を求めていた訴訟で、札幌地裁は3月17日、「法の下の平等」を定めた憲法14条に反すると判断した。
この「違憲判決」は、人々に喜びや驚きをもって受け入れられた一方で、一部からは「異論」も噴出した。その一つが、同性婚訴訟で争点にもなった「憲法24条」の問題だ。
憲法24条1項には、「婚姻は両性の合意のみに基いて成立」とある。この「両性」が男性と女性を示すことから、「憲法は同性婚を禁止している」と考える人が少なくない。同性婚を実現するには「憲法24条の改正が必要だ」という声も根強い。
しかし、同性婚の導入検討に消極的な政府ですら、国会の答弁などで「憲法24条は同性婚を想定していない」とするにとどまっている。
今回の判決で、憲法24条について「違憲ではない」とした札幌地裁は、どう判断したのか。また、「誤解」はなぜ深まってしまうのか。法教育にくわしい飯田亮真弁護士に聞いた。
●なぜ憲法24条が争点となったのか?
今回の訴訟で、憲法24条に対する違反が争点となった。その理由を、飯田弁護士はこう説明する。
「原告側は、憲法24条1項が、異性カップルだけでなく、同性カップルが婚姻する自由をも保障しているのであり、今の法律で同性カップルの婚姻が認められていないことは、同性カップルが婚姻する自由を侵害しているから、憲法24条1項に違反していると主張しました。
これに対して、札幌地裁は『同条(憲法24条)は、異性婚について定めたものであり、同性婚について定めるものではない』と述べ、『婚姻をするについての自由も、異性婚について及ぶものと解するのが相当であるから、本件規定(婚姻に関する民法等の規定)が同性婚を認めていないことが、同項(憲法24条1項)及び同条2項に違反すると解することはできない』と判断しています。
そもそも、ある法律が、人権を侵害するもので、憲法違反であると言うためには、その人権が、『憲法で保障された人権』である必要があります。『憲法が保障している』というのは、民主主義のもとで決定される法律によっても、その人権を侵害することはできないということです。憲法が、『法律によっても侵害することができない人権である』と定めているのに、法律がその人権を侵害しているから、憲法違反だ、という論理なのです。
現在の法律では、同性カップルは法律上の婚姻ができない制度になっているわけですが、もし『同性婚をする自由』が憲法で保障された人権なのであれば、これを認めない現在の法律は憲法違反だ、という論理が導かれるわけです」
●判決が憲法24条を違憲ではないと判断した理由
しかし、札幌地裁は、憲法24条について「同性婚について定めるものではない」と判断している。その理由は?
「これは、つまり、憲法24条が『同性婚をする自由』を保障したものとまではいえない、ということです。そのため、同性婚ができないとしても、憲法24条には違反しない、としたのです。
憲法24条が『同性婚をする自由』を保障したものとまではいえない、とした理由について、札幌地裁は次のようなことを述べています。
今の婚姻制度が作られたのは、戦後すぐ、1947(昭和22)年の民法改正です。その当時は、同性愛は『精神疾患』であるとされていました。
戦前の民法でも、同性婚を禁止する規定はありませんでしたが、それは『婚姻は異性間でなされることが当然』であって、同性婚は、『学問を妻とする』とか、『書籍を配偶者とする』などの比喩を用いる場合と同じように、『規定するまでもなく認められない』と理解されていたためであり、昭和22年の民法改正当時も同様の理解がされていました。
日本国憲法が公布されたのもこのころ(昭和21年)であり、そのような理解であったことから、憲法24条は同性婚について何ら触れておらず、したがって、憲法24条は同性婚をする自由まで保障しているわけではない、というのです」
●同性婚を禁止する発想すらなかった憲法24条
以前から、一部の人たちの間では「憲法24条は同性婚を禁止している」という言説が根強く、札幌地裁の判決を受けて、「憲法24条は改正が必要」という声も上がった。しかし、飯田弁護士はこれを否定する。
「今回の札幌地裁判決からも、『同性婚を認めるには憲法24条を改正する必要がある』という結論は導かれません。
『憲法24条は同性婚を禁止している』という誤解が生まれるのは、憲法24条1項が『婚姻は、両性の合意のみにもとづいて成立し』と定めているところ、『両性』とは男性と女性を意味すると読め、したがって、憲法24条が異性間の婚姻しか認めず、同性婚を禁止する規定であるかのように読めるからだと思われます。
しかし、先ほど述べたとおり、日本国憲法が制定された当時は、『婚姻は異性間でなされることが当然』で同性婚は『規定するまでもなく認められないもの』と考えられており、昭和22年の民法改正においても『同性婚について議論された形跡もない』と札幌地裁判決も指摘しています。
つまり、同性婚などというものは、およそ現実的でなく、考えられないものと捉えられていたのであって、そこには『禁止する』という発想すらなかったわけです。したがって、憲法24条1項は、同性婚を禁止するために『両性の』という言葉を使ったわけではないのです。
ですから、同性カップルでも法律上の婚姻ができるような法改正をしたとしても、憲法に違反することはありません。よって憲法の改正も必要ありません」
●憲法が「禁止」していなければ国会は立法できる
しかし、「憲法24条1項は両性の合意『のみ』と定めているのだから、やはり同性婚は禁止されるのではないか」という反論もある。
「この反論は、『のみ』が『両性』にかかっているのだと読んでいます。しかし、これは誤りです。
先ほども述べた通り、憲法が制定された当時は、同性婚はまったく非現実的なもので、これを禁止するという発想すらありませんでした。そのような理解のもとで制定されているのに、この『のみ』が、同性婚を排除するための文言であるとは解釈できません。
さらに、そもそも憲法24条1項の『婚姻は、両性の合意のみにもとづいて成立し』という規定は、戦前の民法ではいわゆる家制度にもとづいて、親(戸主)の同意がなければ婚姻できない制度となっていたのに対し、新しい日本国憲法では、『個人の尊厳と両性の本質的平等』にもとづいた制度とすべく、親ではなく当事者の合意によって婚姻できるようにするためです。
最高裁も、憲法24条1項は、『婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものである』と述べています(最高裁平成27年12月16日大法廷『再婚禁止期間違憲訴訟判決』)。すなわち、憲法24条1項は、そもそも同性婚を禁止するための規定ではないのです。
次に考えられる反論は、『禁止されていないとしても、認められてもいないわけだから、やはり同性婚を可能にするには憲法改正が必要だ』というものです。
しかし、これも誤りです。
日本国憲法では、国民主権がうたわれ、民主主義の理念のもと、国民によって選挙された国会議員で構成される国会に、法律を定める権限を与えています(憲法41条)。ですから、国会は、国民の意見を反映して、社会のルールである法律を定めることができ、憲法に違反しない限りで、法律の内容を決定する裁量があります。
言い換えれば、憲法は、憲法が禁止していないことについては、国会での議論と決定によって法律を定める権限を国会に与えているわけです。
そうすると、国会が法律を作ることができるのは、必ずしも憲法が積極的に『認めた』ものには限られません。『禁止』されているものでなければ良いのです。
憲法24条1項は、少なくとも同性婚を禁止しているわけではないのですから、国会が法律を改正して同性カップルでも法律上の婚姻ができるようにすることは、何ら憲法に違反しないのです」
●ルールや制度を考える力を身につける
誤解が生じないよう、憲法24条が生まれた歴史的背景や、その意義に対する理解を深めるためには何が必要か?
「私は、ある学校で、いわゆる『同性パートナーシップ制度』をとりあげて、性の多様性と『結婚』のあり方について考える法教育授業をしたことがあります。
そもそも『性』とは何か、という話から始まって、性の多様性について説明したあと、生徒たちに『なぜパートナーシップ制度が必要なんだろう?』と尋ねました。
『身体の性が男と女の組み合わせでないと結婚できないから』という答えでした。続いて私は、『じゃあ結婚って何だろう?』と尋ねました。生徒たちからは、『好きな人と一緒にいること』とか『相手の人生に責任を持つこと』となど、いろいろな答えが返ってきました。 それらの答えすべてを黒板に書いて、最後に私はこう言いました。『いろんな意見をありがとう。ところで誰も、「結婚は男と女でなければできないもの」とは言いませんでしたね?』と。
そもそも結婚とは何なのか。法律上の『婚姻』という制度はどんな制度で、何のためにあるのか。そして『性』とは何か。
単に、『今の法律では同性婚は認められていない』とか『憲法には「両性の」と書いてある』とかといった、ルールや制度の外形を教えて終わるのではなく、そのようなルールや制度は何のためにあるのか、どんなルールや制度であることが望ましいか、といったことまで考える力を身につけてもらおうとするのが、法教育です。
今回の札幌地裁の判決をきっかけに、性の多様性や、婚姻制度のあり方について、深い理解と議論がされてほしいと思います。そのために、法教育に携わる者の一人として、何かできることがあればとも思っています」