東京・歌舞伎町の「トー横」と呼ばれる一角で、けんかについて同意した男性に暴行を加えて死亡させたとして、1月7日、26歳の男性が傷害致死と決闘罪の疑いで逮捕されました。
警視庁によると、男性は昨年9月23日午前4時ごろ、歌舞伎町の路上で、当時30歳の被害者と互いに暴行に合意した上で決闘し、被害者を投げ飛ばすなどの暴行により、硬膜下血腫などの傷害を負わせ、同年10月12日に多臓器不全で死亡させた疑いがあるとのことです。
「決闘罪」という耳慣れない罪名が適用されたことが話題となっていますが、どのような犯罪なのでしょうか。また傷害致死罪との関係はどうなっているのでしょうか。簡単に解説します。
●決闘罪とは?
「決闘罪」とは、「決闘罪ニ関スル件(けっとうざいにかんするけん)」という法律に規定された犯罪です。明治22年(1889年)に制定された古い法律で、全部で6条しかありません。
実際に決闘を行った場合には、「2年以上5年以下の拘禁刑」と定められています(2条)。相手を怪我させなくても適用されます。
これは同じく相手に負傷結果が生じていない場合の規定である刑法の暴行罪(2年以下の拘禁刑もしくは30万円以下の罰金など、刑法208条)よりもかなり重い法定刑です。
●決闘と普通の「けんか」の違いは?
「決闘」と普通の「けんか」の違いは微妙ですが、決闘とは「当事者間の合意により相互に身体又は生命を害すべき暴行をもって争闘する行為」と考えられています。
この定義からすると、お互いに殺傷を伴う暴行を行うことを合意した上で闘う場合が「決闘」となります。たとえば、一方はイヤイヤけんかに巻き込まれたが応戦している、という場合は決闘にはあたらず、単なる「けんか」(相互暴行)といえます。
必ずしも事前に日時・場所・条件などの形式面を取り決めたり、「果たし状」や「立会人」などがなくても決闘と評価されうるのですが、典型的には日時や場所などを事前に約束した上で闘う場合が決闘と考えて良いでしょう。
今回の事件では、被疑者と被害者が「互いに暴行に合意した上で」決闘したとされています。報道(朝日新聞、1月8日など)によれば、被疑者は相手と当日初めて会い、「ささいなことがきっかけ」と話しているそうですが、その場で決闘を行うことについて合意が成立したと判断されたものと思われます。
●決闘の結果、死亡した場合はどうなるのか?
今回の逮捕容疑は「傷害致死」と「決闘罪ニ関スル件違反」の両方となっています。
決闘の結果、人が死傷した場合、判例は決闘罪と傷害罪(傷害致死罪を含む)の両方が成立するという立場をとっています(最高裁昭和23年(1948年)3月16日判決など)。つまり、一つの行為(決闘により相手を死傷させる行為)が、決闘罪と傷害致死罪の両方に該当する、ということです。
なぜ両方の罪が成立するのでしょうか。これは、決闘罪と傷害罪では、保護しようとしている利益(法益)が異なるためと考えられています。
傷害罪は個人の身体を保護する犯罪ですが、決闘罪はこれに加えて、社会の平穏や秩序を保護する犯罪でもあります。事前に合意した計画的な暴力の応酬は、単に個人の身体を侵害するだけでなく、社会全体の秩序を乱す行為として、別個に処罰する必要があるということでしょう。
このように一つの行為が二つの罪に該当する場合を「観念的競合(かんねんてききょうごう)」といいます(刑法54条1項前段)。観念的競合の場合、最も重い刑により処断されることになります。
今回のケースでは、決闘罪(2年以上5年以下の拘禁刑)と傷害致死罪(刑法205条、3年以上の有期拘禁刑)が観念的競合の関係に立ち、より重い傷害致死罪の刑により処断されることになると考えられます。
警視庁によれば、被疑者が被害者を「投げ飛ばすなどの暴行」により硬膜下血腫等の傷害を負わせ、その結果として多臓器不全で死亡させた疑いがもたれており、傷害致死罪が成立する可能性は高いといえます。
なお、決闘罪ニ関スル件3条は「決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法ノ各本条ニ照シテ処断ス」と定めていますが、判例によれば、この規定は傷害罪と決闘罪が吸収関係にないことを前提としたものであり、現在もその関係に変わりはないため、途中の理屈はどうあれ、結局傷害致死罪一罪で処断されることになります(大審院昭和6年(1931年)7月31日判決)。
●なぜ明治時代の法律が今も残っているのか?
決闘罪ニ関スル件は、明治22年(1889年)に制定された130年以上前の法律です。「決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ」といった文語体・カタカナ交じりの文章が、ほぼ制定当時のまま残っています。
現代では決闘が行われることは稀ですが、なぜ今も残っているのでしょうか。
実は、明治時代に制定された法律が現在も使われていることは、それほど珍しくありません。私たちが日常的に耳にする刑法(明治40年(1907年))や民法(明治29年(1896年))も、明治時代に制定された法律がベースです。
また、爆発物取締罰則(明治17年(1884年))や通貨及証券模造取締法(明治28年(1895年))などは、決闘罪と同様に文語体・カタカナ交じりのままであり、現在も残っています。
この法律が制定された背景ですが、参議院法制局の公式サイトに面白い記述があるので、以下引用します。
「この法律が制定される前の旧刑法(明治15年施行)には、決闘罪の規定は設けられていませんでした。しかし、明治21年に、当時新聞記者であった犬養毅氏に対し決闘が申し込まれ、犬養氏が拒絶するという事件が報道され話題となり、この事件に触発されたと思われる決闘申込事件が続出しました。また、決闘の是非についての論議が盛り上がり、中には「決闘は文明の華」であるとする無罪説もあったようです。そのようなことから、西欧型の決闘の風習が我が国に伝わるおそれのあることが考慮され、翌明治22年に特別法として「決闘罪ニ関スル件」が制定されたといわれています。」
決闘罪が今も残っている理由は、暴行罪や傷害罪が個人の身体を保護するものであるのに対し、決闘罪は個人の身体だけでなく、社会の平穏や秩序をも保護するものだからです。事前に合意した計画的な暴力の応酬は、「暴力によって物事を解決する」という風潮を社会に広め、偶発的な喧嘩よりも社会秩序を乱す危険性が高いということでしょう。
現代でも、今回のように「タイマン」などと称して、事前に合意した上で暴行を行うケースに適用されることがあります。SNSなどで呼び出して決闘を行うような行為は、まさに社会の秩序を乱す行為として、決闘罪により処罰されることになるのです。
●まとめ
今回の事件では、歌舞伎町で決闘を行い、相手を死亡させたとして、決闘罪と傷害致死罪で逮捕されました。
決闘罪は明治時代に制定された古い法律ですが、事前に合意した上で暴行を行う行為を、通常の喧嘩よりも重く処罰するものです。
決闘の結果、人を死傷させた場合には、決闘罪と傷害致死罪(または殺人罪)の両方が成立し、観念的競合として、より重い罪の刑で処断されることになります。
今回のケースでは、傷害致死罪の刑により処断されることになると考えられますが、決闘という計画的な暴行であったという事情は、刑を重くする方向で量刑(※刑の重さを決めること)において考慮されることになるでしょう。
(参考資料)
「大コンメンタール刑法 第3版第10巻」(大塚仁ら/青林書院、2021年3月)
「先端刑法総論---現代刑法の理論と実務」(松宮孝明/日本評論社、2019年9月)
監修:小倉匡洋(弁護士ドットコムニュース編集部記者・弁護士)
1月16日11:10 下記の表現につき、修正しました。 <修正前> 決闘罪が今も残っている理由は、この犯罪が単に個人の身体だけでなく、社会の平穏や秩序をも保護する犯罪だからです。 <修正後> 決闘罪が今も残っている理由は、暴行罪や傷害罪が個人の身体を保護するものであるのに対し、決闘罪は個人の身体だけでなく、社会の平穏や秩序をも保護するものだからです。