愛する一人息子の命を奪った加害者は「責任能力」がないとして、起訴されることもなく、医療機関に入院した。
息子の最期について、すべてを知りたいーー。父がそう願っても、加害者と接触はできず、裁判もないため真相は見えてこない。
事件から数年が経過し、加害者は退院。社会復帰に向けた取り組みが始まった。遺族である父の胸中には今なにが浮かんでいるのか。(ジャーナリスト・本田信一郎)
●消える加害者、「不起訴」のその後
2014年2月、札幌市内の精神障害者自立支援施設「援護寮 元町館」に勤務する精神保健福祉士、社会福祉士の木村弘宣(当時35歳)は、入所男性K(当時38歳)の居室訪問の際、背後から頸部、頭部4カ所を包丁で刺されて死亡した。
現行犯逮捕されたKは、「『死ね、死ね、死ね』という声がずっと聞こえていたので、木村さんと一緒に死のうと思った」などと繰り返した。
Kは統合失調症、アルコール依存症で、事件までに3カ所の病院で入退院を22回繰り返しており、通院しながら社会復帰に向けての訓練中だった。
Kは精神鑑定の結果「心身喪失」とされ、検察官は「動機が理解不能であり鑑定結果は妥当」として不起訴処分とした。
これによりKは「医療観察法」の対象者となり、再び裁判所の精神鑑定を受けた後、医療審判によって国の指定医療機関(関東圏の病院)への入院処遇が決定した。
殺人事件の加害者は患者として、一般的な精神科よりも遥かに手厚い医療体制の下での治療を受けることになったのだ。 通常、入院期間は1年6カ月で、その後は医師の判断により6カ月単位で地裁の許可を得て延長される。退院後は受け入れ先の地域で3年間の通院が義務付けられつつ、社会復帰を図り、これら一連の経過を社会復帰調整官が医療機関等と連携しながら見守ることになっている。
責任無能力による不起訴と「医療観察法」での処遇過程は、加害者の一切の情報が遮断されるなど社会との接点の喪失において、事件とその加害者が消えてしまうかのようだ。
これは記憶の風化とはまったく違い、社会は事件そのものがなかったものとして、早々に忘れてしまう。そこに、遺族だけを残して。
●消える被害者、あるはずの権利が行使できず…
「居室訪問時間を知っていて凶器を準備していたのだから計画的で明らかな殺意による犯行」と考えていた弘宣の父親の木村邦弘(現在76歳)は、検察の不起訴決定に憤怒した。
「親が知りたいことをなぜ国は隠すのか。すべての片言隻語(へんげんせきご:「ちょっとした言葉」の意)を知りたいし、事実認定だけでなく、私にとっては公的な記録に弘宣が真面目に懸命に生きていたことが残ることが大事なのです。たとえ罰が下らずとも公判審理をすべきではないのか」
犯罪被害者や遺族が有する権利の柱である《知る権利・刑事裁判に参加する権利・被害から回復する権利》は、2004年の「犯罪被害者等基本法」の成立とそれに伴う「基本計画」により確立し、拡充されてきた(現在は第4次基本計画)。
しかし、木村は「基本法」の定める被害者なのに、「医療観察法」との狭間のエアポケットに吸い込まれてしまった。 犯罪被害者が何より求めるのは情報だが、刑事裁判が開かれなければ、「被害者参加制度・損害賠償命令制度」も記録の謄写も何も利用できない。
「医療審判」では、証人としての尋問や意見聴取はなく、もちろん参加もできず、許されるのは傍聴のみであり、入院時を含めて心情の伝達や面会もできない。
求めれば検察の口頭での「説明」と裁判所の「処分決定要旨」が得られるだけだ。たとえば検察の「不起訴記録」にしても、「被害者参加制度」の範疇にある事件や民事訴訟に不可欠であると認められる場合以外には、提供・閲覧・謄写できないことになっている。
民事訴訟も責任無能力であればほぼ不可能であり、親を相手にしようにも「精神保健福祉法」の自傷他害の監督義務は削除されたので(1999年改正)こちらも不可能だろう。 事実上、権利を収奪された木村は言う、「事件が消え、加害者が消えただけでなく、私たち被害者も消えてしまったかのようだ」と。
事件後ほどなく、高齢の母親と若年性認知症の妻を相次いで亡くし、自身も胃ガンの手術を受けて心身共に満身創痍となった木村に残されたのは、考えつく限りのあらゆる関係者や専門家をひたすら訪ね歩くことだけだった。
弘宣の生きた証を残し、Kの変化を知るという父親としての責務を負った木村は、消されるわけにも、消えてしまうわけにもいかなかった。
亡くなった木村弘宣さん
●支援さえ受けられない現実
そして、そんな孤立する木村にどこからも救いの手はなかった。
事件当初、警察からは「被害者支援室」の担当者、あるいは「指定被害者支援要員(全国36,000人余りの警察官)」が派遣されることはなく、「犯罪被害者等給付金」の説明すらなかった。
また、民間の「公安委員会指定犯罪被害者等早期援助団体」である「北海道被害者相談室(公益社団法人北海家庭生活カウンセリングセンターが運営)」からも接触はなく、後日、木村は「相談室」に足を運んだものの「私の話を聞くだけで、生活再建や利用できる施策などは何も教えてもらえなかった」と言う。
いずれの対応も、救われない。 現在も、全国の民間支援組織や自治体の支援体制や施策内容は地域格差が著しく、被害者等の複合的なニーズに対応できているのはわずかしかない。
主な問題点は、日本ではいわゆる「心のケア」偏重で、「支援する人と支援される人」を分けてきたこと。被害直後の「危機介入(危機応答)」を行う体制がなく、被害者自らが相談しなければ何も始まらないこと。そして、多岐に渡る問題を把握して対処できるコーディネーターが決定的に不足していることが挙げられる。
《知る権利・刑事裁判に参加する権利》ばかりでなく、《被害から回復する権利》の入り口でも、北海道に住む木村は取り残された。
●ふたつの時間軸の振り子 遺族が過ごす「矛盾の日々」
事件の情報を求めることはもとより、消えることなく、それからを生きるために、木村は自ら動かざるを得なかった。
「精神障害者の自立支援を考える会」を立ち上げ、精神障害者の生きづらさを軽減して同様の事件を抑止することと、国に「医療観察法」での情報提供を求める活動を始め、札幌市に500万円を拠出して、助成対象を精神障害者支援を行う団体に限定した基金も創設した。 これらをマスコミは木村が厳罰化を唱えず、あたかも加害者を赦して絶望からの再生を果たしたかのような美談として報じたが、木村は次のように否定する。
「美談なんかじゃない。息子の意志を継ごうという思いはあるが、加害者個人を赦すことはない。怒りがないなんてことはない。それに、マスコミは私が犯罪被害者として苦悶している問題を理解していない」
この乖離は、被害者等が持つある種の「矛盾」を象徴する。
被害者等は《止まったままの時間》と《今を生きる時間》というふたつの時間軸を内在させ、振り子のように行き来している。
談笑しながら、ひとりになれば嗚咽する…そんな日常がある。
《止まったままの時間》は決して遠い過去にはならず、《今を生きる時間》は苦役と表現しても足りない。
木村もその狭間であがいているのであり、真の再生がなされる保障などない。
●「父のあがき」が国を動かした
あがき続ける木村の活動がひとつの形になったのは、事件から4年後だった。
法務大臣への要請書提出がきっかけとなり、2018年6月25日、医療観察制度の対象者についての通達が出された(法務省保総第162号)。
主な内容は、被害者等が求めた場合に、《対象者の氏名・処遇の段階・担当保護観察所の名称・地域処遇中の接触状況(ケア会議の回数)》を提供することができるというものだった。
要望した内容には程遠かったが、法務省が木村の指摘(要請書)によって、「犯罪被害者等基本法」と「医療観察法」の狭間で権利を失い、忘れられてしまう被害者の存在に気付き動いたことを、木村は「成果」と捉えた。
図らずもこれらの木村の活動は、自ら問題解決を図ろうとする被害者行動主義となっており、賛同者を増やしながら社会と向き合うことが自身の自主性の回復(心のケア)にもつながっていた。木村が「声」をあげた問題は、ひとつの社会問題として訴求力を得つつあった。
●分断を越境するために
事件からおよそ6年が過ぎたころ、木村は「通達」を使い、Kが退院して地域処遇に移行したことを知ることができたが、それでもやはり「なぜ弘宣だったのか」を知る術はない。
6年が長いのか、短いのか、Kの何かが変わったのか、それすらもわからなかった。ただ、木村は脱力感を滲ませながらも、知るための法制度改正に、より積極的に取り組もうとした。
同時に、木村と賛同者はどうしたら「声」を大きくし、このような事件の被害者の存在を明示できるかを模索し続けた。
そして、まず、被害者を取り残さない組織を作って総体の底上げを図り、そこからひとつひとつの問題を解決するという方向性が練られた。木村も様々な犯罪被害者の直面する問題に視野を広げ、自身の経験を活かせればと考えた。
また、支援・援助の現場でも、コーディネーターの役割を果たし、被害者に伴走するアウトリーチ援助の必要性も増していた。
こうして、「特定非営利活動法人 さっぽろ犯罪被害者等援助センター」を立ち上げることになった。
木村を先頭に設立準備委員会を組織し、事務局長を務める筆者を責任者として、現在クラウドファンディングで協力を募っている(https://readyfor.jp/projects/86336)。
犯罪被害者として、消えることに抗い、一人息子の面影を追い、あがきながらも生きようとする木村のひとつの答えがそこにあり、日本ではこれまで数例しかない、組織の立ち上げから被害者が参画する被害者援助活動は意義深いものになるに違いない。
目指すのは「孤立という分断を越境する足場」だ。
※ ※ ※
通達という「成果」が出た数日後、木村は珍しく酔って「弘宣のために、もう充分やったと思う」と、深い疲れを吐露したことがあった。
しかし、今もまだ…立ち止まれば、あの2月のように、厳寒の黒々とした夜がふくらんで、その背中からのっそりと覆いかぶさってくるだろう。