世界的な建築家、丹下健三(1913〜2005年)が設計した「旧香川県立体育館」(高松市)の解体工事が10月15日から再開される。香川県が弁護士ドットコムニュースの取材に明らかにした。
「船の体育館」の愛称で親しまれてきた同館をめぐっては、保存を求める住民が、解体工事にかかわる公金支出の差し止めなどを求めて住民訴訟を起こしている。
原告側は、建物が解体されれば耐震性能などを検証できなくなるとして、裁判所に「証拠保全」を申し立てた。これを受けて、高松地裁が現地調査のために工事の一時中断を県側に提案。県も応じ、9月15日から10月14日まで工事が中断されていた。
現地調査はすでに終了したが、耐震性能を検証する鑑定結果が出るのはこれからだ。
原告側は「鑑定が終わるまでは解体を待つべきだ」と求めているものの、県は予定通り工事を再開し、まずはアスベストの除去に取りかかるという。
歴史的建築をめぐっては、保存を求める住民が訴訟を起こしても、判決を待たずに建物が解体されてしまうケースがある。
今回、異例の工事中断につながった「証拠保全」とは、どのような手続きなのか。そして、再び解体を止めることはできるのだろうか。
●「船の体育館」完成から60年、なぜ解体?
「船の体育館」は1964年、東京五輪が開かれた年に完成した。柱のない大空間を実現するため、ワイヤーで屋根をつる特殊な構造を採用。大きく反り上がった屋根と船のような外観が特徴で、戦後日本を代表するモダニズム建築の一つとして知られてきた。
しかし、完成から半世紀近くが経過した2012年、屋根の一部に落下の危険性があることが判明し、メインアリーナの利用を中止した。県は耐震改修を検討したが、工事の入札は3回にわたって不調に終わり、2014年9月に閉館した。
その後も建物は残されたものの、県は2023年2月、耐震性の問題や、民間を含めた活用の見通しが立たないことなどを理由に、解体する方針を表明した。
丹下が設計した東京都渋谷区の国立代々木競技場とは「兄弟作」とも呼ばれる。しかし、国立代々木競技場が2021年に国の重要文化財に指定された一方、「船の体育館」は解体が決まり、明暗を分ける形となった。
●民間から「買い取って再生」案、それでも県は解体へ
こうした中、建築家や専門家らでつくる「旧香川県立体育館再生委員会」が、民間による再生に乗り出した。
2025年7月には、建物と土地を民間が買い取り、公費に頼らず再生・活用する案を県に提出。ホテル事業者や建築構造の専門家などが参画し、資金調達にもめどが立っていたという。
住民訴訟の原告代理人の西山喬祐弁護士は、従来の建築保存運動との違いについて、こう説明する。
「一般に建物の保存運動はこれまで、保存に係る財政的負担を行政に求めていることなどから、行政や市民の理解を十分に得られないことも多かった印象です。
今回の提案は、民間資金において買い取り、耐震改修をおこない、事業化するというもので、これまでの建物の保存運動が抱えていた問題も解決する、非常に画期的なものでした」
しかし、県は解体に向けた手続きを進め、同年8月には解体工事を公告した。
こうした中、再生委員会の長田慶太委員長らは同年9月、解体工事にかかわる公金支出の差し止めなどを求める住民監査請求をおこなった。
県監査委員は11月5日、請求を棄却。長田委員長は同月26日、高松地裁に住民訴訟を起こし、約8億4700万円にのぼる解体工事に関する公金支出の差し止めなどを求めている。
●住民訴訟を起こしても「解体」は止まらない
ただし、住民訴訟を起こしただけでは、判決が出るまで解体工事を止めることはできない。
「一般に、差止請求の訴訟を起こしただけでは、判決が出るまで差し止めの効果は生じません。
民事上の請求であれば、仮処分という方法で判決より前に差し止めを実現することも可能ですが、今回のような住民訴訟では仮処分の制度がないため、判決より前に差し止めを実現することは困難だと考えられていました」(西山弁護士)
そこで原告側が着目したのが「証拠保全」という手続きだった。
証拠保全とは、証拠が失われたり、後から調べることが困難になったりするおそれがある場合に、裁判所があらかじめ証拠調べをおこなう制度だ。
今回、県が建物が倒壊する危険性などを理由に解体を進める一方、原告側は複数の専門家の意見書などを提出し、建物の耐震性能を争っている。
「ざっくりいうと、建物自体が『証拠』になっていました」という西山弁護士。
原告側は、建物が解体されれば正確な耐震性能を検証できなくなるとして、高松地裁に証拠保全を申し立てた。
●裁判中でも解体されてきた名建築
歴史的建築の保存を求める住民訴訟が起こされても、判決が出る前に解体されてしまうケースはある。
ただ、西山弁護士によると、建築をめぐる訴訟で、建物そのものを証拠として証拠保全の手続きを進め、その過程で実際に解体工事が止まったケースは、確認した限りでは見当たらなかったという。
「珍しいケースだと思います」(西山弁護士)
今回、証拠保全の手続きをきっかけに解体工事が一時中断されたことは、歴史的建築の保存をめぐる「時間との闘い」に新たな可能性を示したともいえそうだ。
2023年に撮影された「船の体育館」(mandegan / PIXTA)
●「証拠保全だけでは守れない」
しかし、証拠保全だけで「船の体育館」を守り続けられるわけではない。
再び工事を止めることはできるのだろうか。
西山弁護士は「証拠保全としては難しい」と説明する。
建物そのものを使った現地調査では、解体されれば証拠調べができなくなる。一方、今後予定されている耐震性能の「鑑定」は、基本的に構造計算が中心になるという。
「建物がなくなってしまっても、計算はできるということになってしまいます。そうすると、今回の住民訴訟や証拠保全の中で、解体を止め続けることは基本的にはできません」
証拠保全はあくまで証拠を残すための制度であり、建物そのものを保存するための制度ではないからだ。
そこで、今後のカギを握る可能性があるのが、住民訴訟とは別に進んでいる「仮処分」だ。
西山弁護士によると、近隣住民が景観利益や眺望利益などの侵害を理由に、解体工事の差し止めを求める仮処分を高松地裁に申し立てている。現在は裁判所の判断を待っているという。
●「鑑定が終わるまでは解体を待ってほしい」
一方、住民訴訟で原告側が目指しているのは、裁判所による鑑定をできるだけ早く進めることだ。
「県側が倒壊の危険性を理由に解体を進めている状況なので、建物の耐震性能を客観的に訴訟の中で示して、倒壊の危険性がないということをわかってもらう。それによって、判決よりも前に解体する必要性自体がなくなることを一つ目指しています」
現地調査が終われば、鑑定の手続きに入る。現在は鑑定の依頼先や対象について、裁判所や県側を含めて調整が進められているという。
「裁判所も、鑑定を早くやらなければいけないという認識を示してくれています。今できることとしては、鑑定を速やかに進めていくことと、鑑定が終わるまではせめて解体を待つべきではないかということを、訴訟の内外でしっかり伝えていくことだと思っています」
●香川県「15日から再開、アスベスト除去から」
一方、香川県は弁護士ドットコムニュースの取材に対し、予定通り10月15日から工事を再開すると明らかにした。
裁判所からの工事中断の提案に応じた理由については、「原告に必要な調査をおこなわせることについての任意の提案があったことを受け、裁判所の進行への協力のため、解体工事を一時中断することとした」と説明した。
再開後は、まずアスベストの除去工事に取りかかる予定だという。
一方、原告側が指摘する耐震診断の問題や、鑑定結果が出るまで解体を待つべきだとの主張について、県は「専門委員の指摘や原告の主張に対する県の見解は、訴訟手続において主張することとしており、回答を差し控える」とした。
また、再生委員会が提案した民間資金による買い取り・再生案については、「事業計画の内容などについて、内部で検討をおこなった」と回答した。
原告側は、民間に売却すれば不要となる可能性がある解体費用を公金から支出することに問題があると主張しているが、この点についても県は「訴訟手続きにおいて主張する」として、具体的な回答を控えた。
耐震性能をめぐる鑑定結果がまだ出ていない中、「船の体育館」の解体工事は10月15日、再び動き出す。