「異常事態ですね」――。関係者らはそう口をそろえる。全国的にクマの食害や人身被害が相次ぐ中、その地は、過去に例を見ない事態に直面していた。否、今もなお、直面し続けている。(ライター・小笠原淳)
●警察官の目の前でクマがシカを食べ続けた
北海道・砂川市。札幌から車で1時間あまり、空知地方の山地と石狩川に囲まれた人口約1万5000人の緑豊かな街だ。北海道は今年7月、同市全域にヒグマ注意報を発出した。
当初1カ月の予定だった期間は、翌月、さらに翌々月、そして10月上旬と3度にわたって延長され、道内最長となる4カ月間に及んでいる。
直近の延長時点で市が把握していた目撃情報(足跡などの目撃含む)は約150件。本稿をまとめている10月下旬には200件を超えた。
とりわけ10月20日から22日の3日間での通報は、のべ22件。そのうち1件は市庁舎の真裏で市職員が目撃したものだった。
「これまでとは明らかに違う」。そう語るのは、ヒグマ問題に10年前から取り組んできた同市の担当部長だ。
「これまでの目撃情報といえば、山の際とか、平地であっても人通りの少ない道央道のあたり。人がいる所への出没といえば、墓地の供物を荒らしに来る程度でした。今年みたいに市街地で次々と、しかも日中の明るい時間帯に出てくることなんて、ほぼなかった。
直近の日曜日に行った現場では、私や警察官たちが注視する中で体長1メートルぐらいの若グマが悠々とシカを食べ続けていました。市街地でそんな光景、ありえないですよ」
●「人間の手で個体数を適正な数に調整することしかない」
目撃現場に駆けつけるのは、市職員や警察官だけではない。彼らとともに臨場するのは、市の委嘱を受けた鳥獣被害対策実施隊員たちだ。長く同隊員を引き受け続けているメンバーの1人に「銃を持たないハンター」がいる。
本サイトで報じてきたとおり、北海道では、自治体の依頼でヒグマを駆除したハンターが法令違反に問われ、銃を取り上げられた事件がある。
この男性は、地元公安委員会の処分に異を唱え、北海道を相手に裁判を起こした。一審の札幌地裁(廣瀬孝裁判長=当時)は請求を認めて銃所持許可取り消し処分の撤回を道に命じたが、二審の札幌高裁(小河原寧裁判長、実質的な審理は佐久間健吉裁判長)が逆転判決を言い渡し、ハンター側の主張が退けられる結果に。
これを不服とした男性が上告に踏み切ったのは、今からちょうど1年さかのぼる昨年10月下旬のことだった。
この原告こそ、今まさに「異常事態」の砂川市で連日出動を続ける鳥獣対策隊員、北海道猟友会砂川支部長の池上治男さん(76)だ。
ヒグマの目撃情報が届くたびに出動する熟練ハンターの感覚でも、やはり今年は「異常」だという。原因を問うと、ほぼ即答で「数が増え過ぎた」の一言が返ってきた。
「専門家の中には『山に餌が不足しているので人里に出てくる』という人もいますが、私はそうは思いません。春グマ駆除の中止などで、絶対数が増え過ぎたんです。だから本質的な対策は、人間の手で個体数を適正な数に調整することしかない。しかも早急に手を打たないと、今後もどんどん人里に下りてきますよ。私はいつも『札幌中心部の大通公園に出てもおかしくない』と言っています」
「調整」とはつまり、増えすぎたクマを積極的に駆除することだ。
「私はヒグマが嫌いではありません。どちらかというと好きと言っていい。しかし、人とヒグマが里で共存するのは不可能なんです。里に出てきてから駆除する対症療法ではなく、どこかの時点で山の個体数を減らす決断が必要です」
●スマホから市職員の切迫した声が響いた
自治体職員や警察官が池上さんのレクチャーに耳を傾ける(10月21日午後/砂川市オアシス)
そう語る池上さんだが、彼自身はいま銃を所持していない。現場に向かうのも、丸腰のままだ。10月下旬のある日、筆者が、息をつく間もなく現場から現場へ車を走らせる池上さんに密着すると、異常事態の実相が見えてきた。
この日、郊外の工場から「クマらしき動物が出た」との目撃情報が届いた。過去にもヒグマが出没したことがあるといい、敷地内には監視カメラが設置されている。
駆けつけた池上さんは関係者の詰める事務所でカメラ映像を視聴、コマ送り再生される動画を繰り返し確認し、「おそらくシカだろう」との見立てを述べた。野生動物はそれぞれ走り方や体形に特徴があり、不鮮明な映像でも注意深く見れば特定できるという。
念のため敷地内の別の場所に残されていたという糞も観察。改めて「シカ」と判断し、関係者らの謝辞を背に現場を後にした。スマートフォンが鳴ったのは、そのわずか数分後。国道の路肩に車を停めてスピーカー通話のボタンを押すと、小さなスマホから市職員の切迫した声が響いた。
「出ました。市役所の裏です。来ていただけますか」
アクセルを踏み、5分ほどで市庁舎裏手の河川敷へ。パトカー2台が停まる現場に市職員と警察官、あわせて7〜8人の姿があった。目撃されたヒグマは、前日に関係者らの前でシカを食べていた個体と同じクマと推測された。
先に引いた担当部長のコメントに登場していた若グマだ。シカの食べ残しを土に埋めて「土饅頭」を作ったというそのクマは、市職員らの「追い払い」によりいったん山のほうへ去っていき、その隙にシカの残渣が取り除かれた。餌を失った若グマは市内を移動し、市庁舎付近に出没することになったらしい。
●本気を出せば「金属の檻」も壊されてしまう
「おいおい、パトカーそんなとこ走ったら駄目だ」
現場付近を見回っていた池上さんが慌てて助言する。パトカーはその時、クマが姿を隠しやすい水路を挟んで市庁舎と反対側にある土手の上を徐行していた。もしも水路の近くにクマがいた場合、パトカーが街のほうへクマを追い立てることになりかねない位置取り。
裁判では警察・公安委と対立している池上さんだが、現場の警察官たちとは協力関係にあり、一方の警察官もベテランハンターの助言には真摯に耳を傾ける。この時はヒグマ発見に至らず、池上さんは対応時の注意事項などを伝えて現場を離れた。
続いて向かったのは、目撃情報をもとに金属製の「箱罠」を設置した現場。繰り返しになるが、砂川のハンターは現在、銃を撃つことができない。そこで活用されるのが、市で5つほど稼働している箱罠だ。内部に仕掛けた餌でヒグマを誘い、クマが内部のトラップ(踏み板など)に触れるとシャッターが下りてクマを閉じ込める仕組み。
今年はこの日までに13頭が捕獲されたといい、この数字はおそらく過去最高と思われる。10年間現場を見てきた担当部長が「2ケタ」を経験するのは初めてだ。
複数箇所の見回りの結果、いずれの箱罠にもヒグマの姿はなかった(この翌日、14頭目が捕獲されることになる)。2カ所目を訪ねた際、同行した筆者に「裏へ回って檻の天井よく見てごらん」と池上さん。訝りながら眼を向けると、箱罠の上部に金属の柵が欠けている部分があった。金属棒が曲げられている箇所もある。
「ヒグマが罠を壊して、上から餌だけ取っていったんだ。本当に賢いよ」
ヒグマが本気を出せば、丈夫な金属の檻も壊されてしまう──。捕獲後のクマを見回る活動の危険なことは言わずもがなだが、鳥獣対策隊員はほぼボランティアでその任務にあたっている。しかも池上さんらは砂川市だけに頼られているわけではない。隣接する歌志内市や上砂川町からも出動の打診があり、そちらへも可能な限り対応する。
今年は上砂川町でも数年ぶりに箱罠の利用が決まり、この前日に町内の1カ所へ罠が設置されたばかりだった。案内されて現場へ向かうと、罠の正面に北海道の『許可証』が掲示されており、そのすぐ下にやはり北海道知事による罠猟の『従事者証』。従事者の氏名は「池上治男」とある。
池上さんから銃を取り上げ、裁判でもその正当性を主張している北海道庁が、現場のヒグマ対応についてはその人の力を借りなくてはならないというわけだ。
ヒグマに一部を壊されたとみられる箱罠(砂川市内)
●窓から庭に目をやると「巨大な黒い塊」が見えた
上砂川町内ではこの2日前、民家の庭に複数のヒグマが侵入する事態が起きていた。現場は町内の高台にある一軒家。出迎えてくれた住人の女性(87)によると、その地には3代前から短くとも100年以上居を構えているが、「クマが来たのは初めて」という。
2日前の夕刻、居間の窓から庭に目をやると巨大な黒い塊が見えた。すぐにクマとわかり、室内から夫と一緒に大声を出して追い払おうとしたが、相手は驚く様子もなく、車を揺らしたり庭を荒らしたりし続けたという。
幸い誰にもケガはなく、ヒグマは数分間ほどで山のほうへ立ち去ったが、翌日の午後には同じ庭に親子連れとみられる3頭が現われた。ここに及んで女性は町に通報。町の連絡で池上さんが臨場し、対応を助言することとなる。
「ラジオつけてるね。これはいいよ。人がいるってわかるから」
女性は庭にラジカセを据え、大音量でラジオ放送を流すクマ対策をしていた。今回とくに大きな被害はなかったが、畑で育てるトウモロコシの収穫期と重なっていたら「いっぱい食われたかもしれない」。
ほかに餌になる物がないことから3度目の訪問を受ける可能性は低いが、それにしてもなぜクマたちはこの100年あまりの慣行を破って人家へ顔を出すことになったのか。「山に餌がないんでしょうか」と筆者が問いを向けると、女性は言下に否定した。
「そんなことない。今年はクルミずいぶん落ちてるよ」
そう、山に食べ物がないわけではない。それでも人里へ下りてくる個体がいるということは、やはり池上さんが言うように「絶対数が増え過ぎた」ためだろうか。
もはやいうまでもなく、クマの被害は砂川だけで増えているわけではない。今夏は全国各地で目撃情報や被害報告が絶えず、連日テレビニュースや新聞紙面をにぎわせている。筆者が池上さんに密着した日も熟練ハンターのスマホには道内外のメディアからひっきりなしに電話が着信していた。
ヒグマを目撃したという女性宅の庭には足跡がくっきり残っていた(上砂川町)
●ヒグマは発砲の体制を整えるまで待ってくれない
今年9月、鳥獣保護法の一部が改正され、ヒグマなど有害鳥獣の駆除にあたって市街地での発砲が解禁された。それまで発砲の根拠としていた警察官職務執行法に拠らずとも、自治体の判断で「緊急銃猟」をおこなうことができるという。
10月下旬には札幌市が北海道で初めて緊急銃猟に踏み切り、地元猟友会のハンターが2頭のヒグマを駆除したことが伝わった。とはいえ、多くの自治体ではまだ運用に慎重で、全国に目を広げてもこの時点までに実施に踏み切っていた市町村は2ケタに届かない。撃たないハンターが活動する砂川市も例外ではなく、担当部長は「ここでは現実的ではない」と話す。
「まず地形。砂川の市街地は平地で、バックストップ(弾止め)になる斜面などがほとんどありません。地面をバックストップにした『撃ち下ろし』も難しい。それと、要件確認に時間がかかる。ヒグマはこちらが発砲の体制を整えるまで待ってはくれません。
人の思いとは関係なく自由にあちこち歩き回る。要件を確認し終えるころにはクマがどこかへいなくなってしまいますよ。市民のみなさんは、やはり『撃ってほしい』とおっしゃいますが、当面は箱罠での捕獲を続けるしかない状況です」
クマなどが「人の生活圏に侵入し」「緊急性があり」「銃猟以外の対応が困難な状況で」「住民の安全が確保されている」──。この4要件をすべて満たさない限り、緊急銃猟による発砲はできないことになっている。いざヒグマが出た現場でこれらを一つ一つ確認していると、その間にクマがどこかへ立ち去ってしまう可能性があるわけだ。
実際、道内初のケースとなった札幌の現場では、最初に銃猟を決断した日には関係者らがクマを見失っており、発砲に至ったのはその翌日だった。
●「撃てば処罰されるかも」という懸念を拭えない
砂川で緊急銃猟が困難な事情は、もう1つある。ほかでもない、池上さんら地元のハンターたちが発砲を自粛し続けているためだ。猟銃所持許可裁判で池上さんの主張が認められる結果を得られない限り、ハンターとしては「撃てば処罰されるかも」という懸念を拭えないという。
改正鳥獣法施行直前の8月下旬、会員約5700人を擁する北海道猟友会は道内全支部に通知を出し、各市町村から緊急銃猟の依頼があっても必ずしも応じる必要はないとの考えを示した。改正法では駆除の現場で事故が発生した際のハンターの責任の範囲が明確になっておらず、このままでは第二の池上さん事件を招くおそれがあるという。
猟友会の堀江篤会長は通知時の取材に「簡単に『出動せよ』とは言えない」と訴えていた。
「事故が起きたときの責任体制が明確でない限り、むやみに『撃ってくれ』とは言えません。国民の生命、財産を守るのが、猟を趣味としている民間のハンターでいいんですか、ということです。もちろん協力したい気持ちはありますが、本来国民の安全について責任を負うべきは、国であり市町村であり警察でしょう。彼らがすべて責任を持つと明言してくれない中、何かあったときにボランティアで引き金を引いた者が罰せられることになったらたまりません。ハンターには『断る勇気』も必要だと思います」
環境省の緊急銃猟ガイドラインは、銃猟時の留意事項を解説する箇所で繰り返し「跳弾」のおそれや「バックストップ」確保の必要性を説いている。
いずれも池上さんの裁判で重要なポイントとなった要素で、とくに二審の札幌高裁は不自然といえるほどに跳弾の可能性を強調して、池上さんの発砲行為を否定的に評価していた。この判決がガイドラインに与えた影響が察せられるところだが、その後の状況を見る限りでは、逆のベクトルもありそうな趣きだ。
全国各地でクマの被害に歯止めがかからない中、上述のようなハンターたちの不信感を払拭させるためには、今後の司法判断が重要な役割を担うことになるのではないか──。
北海道猟友会の堀江篤会長は「駆除を担うハンターに充分な安全・安心を」と訴える(6月16日午後/札幌市中央区で開かれた定時総会)
●「早く手を打たないと間に合わなくなりますよ」
銃所持許可訴訟で池上さんの代理人をつとめる中村憲昭弁護士によると、池上さんの上告・上告受理申し立ては昨年10月下旬、上告理由書の提出は同12月下旬、裁判所から理由書受け取りの連絡があったのは年が明けた本年1月のことだった。
それから10カ月経ってもなお、最高裁の判断は示されておらず、ここまで時間が費やされたうえで「理由がない」として上告が退けられる展開は考えにくい。中村弁護士は裁判所の真っ当な判断に期待を寄せる。
「緊急銃猟のガイドラインには、池上さんの裁判を意識した部分があると思います。とくに、跳弾の可能性を過度に重視していますから。最高裁で改めて池上さんの主張が認められれば、今の緊急銃猟制度の見直しに繋げることもできるのでは」
池上さん自身、二審判決が最高裁で覆ることを望んでいるのは言うまでもない。ただすでに述べたように、長く現場を見てきたハンターにとって市街地での銃猟解禁はあくまで対症療法。人里へ下りてくるヒグマの数をゼロに近づけないことには、抜本的な解決には至らないという。
「ヒグマを撃った経験を持つハンターは多くないんです。いくら制度を整えても、そう簡単に緊急銃猟なんてできるもんじゃない。そもそも市街地で対応している時点で『後手』でしょう。それよりもヒグマの絶対数を調整して、山全体を普通の状態に戻さないと。
山で生きられずに里へ下りてきたヒグマは、人間が攻撃してこないとわかると安心して歩き回るようになり、多産になる。そうなると次のシーズンはもっとひどくなる。早く手を打たないと間に合わなくなりますよ」
この取材の翌週、札幌中心部でクマが目撃されたとの情報が伝わった。地元報道などによると、現場はJR札幌駅から直線でわずか4キロほどの河川敷。池上さんが言うように、公共機関や商業施設がひしめく都心の大通公園にヒグマが出没する未来も現実味を帯びてきたようだ。
熟練ハンターが銃を手放さざるを得なくなってから、すでに7年あまり。異常事態の街では今も丸腰の対応が続く。例年であれば雪が積もり始める11月下旬には目撃情報が絶えるはずだが、今期がその例に漏れない年になるかどうかは定かでない。
※池上さん側が上告に踏み切ったのは、今からちょうど1年さかのぼる2024年10月下旬のことだった https://www.bengo4.com/c_1017/n_18095/
※北海道猟友会は道内全支部に通知を出し、各市町村から緊急銃猟の依頼があっても必ずしも応じる必要はないとの考えを示した
http://www.hokkaido-hunter.org/houkaisei20250829.pdf
※環境省の緊急銃猟ガイドライン
https://www.env.go.jp/nature/choju/effort/effort15/doc/guideline.pdf