夫に浮気されたという女性が「サレ妻」を名乗り、その詳しい経緯や思いなどをSNS上に書きつづる。巷でそんな現象が流行している。まるで昼ドラのような展開となり、サレ妻に同情・共感する人も少なくない。
また、芸能人の不倫報道があるときに嫌悪感を示す声も年々強まっているような印象がある。特に不倫した男性やその相手に対して手厳しく、かつて日本の刑法に存在していた「姦通罪」を復活させて「罰せよ」という説を唱える人がいるくらいだ。
一方で、戦前の「姦通罪」は、妻側の姦通、つまり妻が夫以外と肉体関係を持ったときのみ問題とされる不平等なものだった。京都大学の伊藤孝夫教授(日本法制史)によると、その背景には「男性主体の観点」があったという。
はたして、日本社会において「姦通罪」はどのような歴史をたどってきたのだろうか。SNS上で安易に「復活させよ」という声があがる中で、一度立ち止まって考えることは意味があるはずだ。伊藤教授に解説してもらった。
●江戸時代、浮気した妻とその相手は「死刑」だった
中国由来の律令において、「姦」は「婚姻外の性交渉」一般を指していう犯罪観念です。
既婚男女による婚姻外性交渉はもちろん、婚姻の「礼」を守らない未婚男女の性交渉も処罰対象とされ、養老・戸令には、未婚のまま性交渉をもった男女は、恩赦により刑を免除されても婚姻することを許さない、という規定すらありました(先姦条。ただしその実効性は疑問視されます)。
そして、合意なき「強姦」の場合を別として、合意の下での「姦」(和姦)の場合、男女とも「徒一年半」の刑が科される、となっていましたが、「有夫の女は徒二年」と刑が加重される点に、男性主体の秩序観が現れていました(雑律)。
この男性主体の観点は、「家父長制」的特徴をそなえた中世武家法で徹底します。鎌倉幕府の「御成敗式目」には、「他人の妻を密懐する罪科の事」として「強姦・和姦を論ぜず人の妻を懐抱するの輩、所領半分を召され(没収され)、出仕を罷(や)めらるべし」という刑罰規定が現れます。
「強姦・和姦を問わず」とするこの規定においては、強姦被害者たる妻の保護は関心外に置かれ、「他人の妻」を「姦」した者の処罰が、妻の貞操が侵されたことによる夫権の侵害、ないしは「間男」された者の名誉の侵害の防止を保護法益としておこなわれている、と評価することができるでしょう。
そして、この観念の延長線上に、戦国期分国法において、姦通の現場をおさえた夫は、姦通者と妻をその場で殺害してもよい、という法理が登場します。
これを継承し、江戸幕府の「公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)」では、「密通いたし候妻」および「密通之男」をともに死罪とし、密通した男女を夫が殺した場合、「紛(まぎ)れなきにおいては、構いなし」と明文化されるに至ります。
なおここで、既婚男性が未婚女性と婚姻外交渉をもつことは、およそ違法と観念されておらず、姦通処罰における男女の非対称性は明白です。
●しかし、法のタテマエと実態に乖離があった
ところで、江戸期の姦通処罰はこのように極刑とされているのですが、そのためにかえって、姦通に関する法執行においては法のタテマエと実態の乖離が顕著であったと考えられています。
たしかに西鶴や近松門左衛門による作品化で知られる「おさん茂兵衛」の事件のように、実際に死刑が執行された事例(この事件では、主人の妻と使用人との間における姦通というものが、封建道徳観に著しく抵触するという特徴がありました)の存在が知られる一方、江戸期には多数の姦通事例が、当事者間の「示談」により、金銭賠償と引き換えに夫が刑事告発を見送る、というかたちで決着していた、と考えられています。
ここで、江戸時代のある村で起きた事件について、村役人が書きとめた記録を紹介してみましょう(春原源太郎「離縁状請求の訴えと不離縁担保証文」『法学セミナー』1964年6月号)。
これは「小島良右衛門」とその妻「むら」との離縁をめぐる交渉で、むらの実家の言い分によると、良右衛門はむらを実家に帰らせたまま引き取りに来ず、かといって離縁の手続きも進めようとせず、したがって持参財産の返還にも、再婚するにあたって必要な離縁状(再婚許可証明の機能をもつ)の交付にも応じず不当である、といいます。
ところが良右衛門によると、これは、むらが自分の親類の卯八郎と密通していたことが露見したことによる処置だといいます。密通者として両名が処刑されるのは見るに忍びず、これに代わる穏便な方法をとったというわけで、事実とすれば間男された夫としてはたしかに賢明な態度であるかもしれません。
ところがどうして、妻側の言い分によると、事の真相は以下の通りだといいます。そもそも良右衛門は「むら」に執心し、懇願して嫁に迎えたものらしく、結婚にあたって「もしお前を離縁するようなことがあったならば、その時は金子千両を遣わす」という一札をわざわざ差し入れていました。ところが良右衛門はたちまち心変わりし、妻を疎んじ始めましたが、落ち度のない妻を追い出すというのでは、「千両遣わす」と約束をした手前、まずおさまりがつきません。そこで卯八郎としめし合わせ、むらを「手ごめ」に、つまり強姦させて密通の事実を作り上げ、それを理由に追い出しを図ったのだというのです(それが証拠に、妻を追い出したのち、良右衛門と卯八郎は従前通り親類づきあいを続けているではないか、と)。
村役人たちは、いずれにしても、事が公儀の裁判で表沙汰になり、密通処罰が現実におこなわれては大変だと、両当事者に内済を勧め、夫の側は離縁状交付と持参財産返還、妻の側は「千両の証文」を差しもどすことで一件落着した、と記されています。
さてこの事件について、まず誰もが納得できないのは、強姦被害者の妻がなぜ不義を働いたことになり、そのことが弱みとされるのだろうか、という点でしょう。しかし、すでに御成敗式目の規定の定め方に関して注意を向けておいたように、「男性」目線で事態を捉える当時の社会意識の下で、他の男と性交渉をもった妻などというのは、その性交渉が妻の意思に反しておこなわれたか否かを問わず、夫にとってすでに「きずもの」なのであり、このように自己の「所有物」をきずものにされた、被害者たる夫の救済のみに関心を有する法観念の下においては、暴行を受けた当の妻の救済などは二の次である、ということなのです。
●犯罪としての「姦通」の追及は夫の態度次第だった
そして実はこのような態度は、前近代どころか、近代化以後も強固に残存します。明治維新後の最初の統一的刑法典である「新律綱領」には、古代以来の「律」の伝統に則り「姦罪」処罰の規定が置かれていましたが(犯姦律)、それだけでなく「およそ妻妾、人と姦通するに、本夫、姦所においてみずから姦夫・姦婦をとらえて即時に殺す者は、論ずることなかれ(罪とならない)」という規定も置かれました(人命律・殺死姦夫条)。まさに中世以来の、自力救済容認規定です。
しかもこのような態度は、単に前近代日本の法観念の残存物、というにとどまりません。明治期日本と劣らず「家父長制」的社会構造を有する近代ヨーロッパの刑法典中には、夫による「姦夫・姦婦」殺害の罪を免除する規定が(偶然の一致というべきか、あるいは必然というべきか)しばしば存在していたのです。
こうして、罪刑法定主義の原則を明記した初めての近代型刑法典である1880(明治13)年公布の「刑法」(旧刑法)には、起草者ボワソナードによって、当時のフランス刑法324条をモデルとし、「本夫、其妻ノ姦通ヲ覚知シ、姦所ニ於テ直チニ姦夫又ハ姦婦ヲ殺傷シタル者ハ、其罪ヲ宥恕ス」(311条)という規定が置かれました。
一方、姦通そのものについては「有夫ノ婦、姦通シタル者ハ、六月以上二年以下ノ重禁錮ニ処ス。其相姦スル者、亦同シ」(353条・親告罪)と、夫婦間において妻側の姦通のみを問題とし、夫による未婚女性との婚姻外性交渉などは問題としない、という態度も明示されました。1907(明治40)年公布の「刑法」においては、旧刑法311条のような規定は削除されましたが、353条に相当する規定はほぼそのまま維持されます(制定当時の183条。親告罪)。
しかし、この間の姦通罪に関する法執行は、まさしく江戸期の状況について見たのと同様だったと考えられます。しかも法文上、夫による告訴が要件であることが明示されましたので、犯罪としての姦通の追及は夫の態度次第、ということになります。
詩人の北原白秋がいったん姦通罪で告訴され勾留されたが、和解が成立し告訴が取り下げられて釈放された、という事例はよく知られています(ただし、こうしたスキャンダルが有名人たちにしばしば打撃となったこと自体は否めません)。一方、さらに注意を向けておきたいのは、こうした刑事処分の可能性の存在は、不倫関係にある(と見られる)既婚女性と相手の男性に対し、恐喝や脅迫の素材として用いられることがあった、ということです。
●強姦被害者が「不義を犯した」とされた戦前の空気
ここで、すでに紹介した「良右衛門」と「むら」のケースを想起してみましょう。「男性」目線の社会意識の下で、強姦被害者である妻が不当にも「姦通者」の烙印を押されて不利な立場に置かれてしまった、あの状況のことです。こうした社会意識は、20世紀に入っても少しも変化していなかったように思われます。
奇抜な例に思われるかも知れませんが、近代日本文学を代表する名作、志賀直哉の『暗夜行路』という小説を取り上げてみたいと思います。
この小説の後半部は、幸福な結婚生活に入ったはずだった主人公が、妻が「不義を犯したため」(著者自身がそう表現しています)苦悩する、という主題をめぐって展開します。
しかし私がかつてこの小説を読んだとき、一般的に流布しているこの小説の「あらすじ」の表現と対比して、強い違和感を覚えました。なぜなら小説中の描写では、妻はレイプ被害者であったとしか受け取れなかったからです。
一方で、どうもこの小説を読む人々のうちに、妻が「不義を犯した」というこの前提を疑問視する人は少数のようです。およそレイプ被害者に対し、被害発生はあたかも当人に「落ち度」があったからであるかのように捉える視線は現在においても強固ですが、昭和戦前期において、ほとんど無意識の前提だったように思われます。
●「男性」目線の意識は「完全に是正」されたのか?
さて、刑法に規定された姦通罪規定については、明快な合理的思考を身上とする刑法学者、瀧川幸辰(たきかわ・ゆきとき)が、男女平等の観点からその偏頗性を問題視し、著書中で歯に衣着せぬ批評を浴びせました。
しかし、1933(昭和8)年の瀧川事件においては、文部省が彼を大学から追放する根拠の一つにこの箇所が挙げられてしまいます。第二次大戦後の最初の刑法改正(1947年)における姦通罪規定削除は、両性の平等を明記する新憲法下において当然の合理的決定であったといえるでしょう。
ここまで歴史的展開をたどってきたうえで、問いかけてみたいことは、姦通という問題を取り巻いていた「男性」目線の意識は、今日完全に是正されたといえるだろうか、ということです。
たしかに、かつては問題ともされなかった既婚男性の「不倫」が、メディアにさかんに取り上げられ、結果的に社会的制裁を受ける、という事態が増えたことは社会意識の変化を反映しているのかもしれません。
しかし私自身は、そのような場合であってさえ、「不倫相手」とされる女性に対し、より厳しい非難を浴びせる言説がSNS上などで飛び交うことに関心を持ちます。
先に江戸時代の一事例をあえて詳細に紹介してみたのは、それが現在の問題に直接つながる、と考えるからです。しかも問題はもはや「両性の関係」という枠組みでも完結しません。少年に対する深刻な性被害の問題をはじめ、およそ性的交渉における「弱者」への繊細な配慮が必要であるように思います。
そしてまた、「隠された」性的交渉の影には、恐喝・脅迫といった犯罪の要素が見え隠れすることも、歴史的観察から引き出される一つの事実として指摘しておきたいと思います。
【プロフィール】いとう・たかお/1962年兵庫県生まれ。京都大学大学院法学研究科・法学部教授(日本法制史専攻)。