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「坂本弁護士一家殺害事件」を語り継ぐ…救出に奔走した同僚・小島周一弁護士の決意
小島周一弁護士(永峰拓也撮影)

「坂本弁護士一家殺害事件」を語り継ぐ…救出に奔走した同僚・小島周一弁護士の決意

全国の弁護士を震撼させたオウム真理教による「坂本弁護士一家殺害事件」。

拉致が疑われたことから、多くの弁護士が救出活動に加わったが、その中心的な役割を果たしたのが小島周一弁護士だ。坂本弁護士の事務所の先輩であり、親友でもあった。

救出という終わりの見えない戦いと前代未聞の事件の持つ意味を振り返る。(取材・文/若柳拓志、写真/永峰拓也)

(永峰拓也撮影)

●「弁護士業のリスクをどう減らすか」オウム事件と向き合って学ぶ教訓

1989年11月4日未明、オウム真理教(以下「教団」)の問題点を追及していた坂本堤弁護士(当時33歳)と妻・都子さん(当時31歳)、長男・龍彦ちゃん(当時1歳)が、横浜市内の自宅で、教祖・松本智津夫(麻原彰晃)の指示を受けた教団幹部ら6名に殺害された。

あの日から32年が経過。横浜法律事務所で坂本弁護士と同僚だった小島周一弁護士は、事件が弁護士の間でも風化しているとの危機感を抱く。

「自分も同じような目に遭うかもって思いたくないんですよ。あれは特異な事件で、自分は普通に弁護士業をやってるんだから、まさかそんなことはないだろう。そう思いたいんです。その方が、メンタル的には楽ですからね」

ただ、弁護士の業務は、人と人とのトラブルの間に身を置く仕事だ。どんなに誠実に仕事をしても、逆恨みと八つ当たりから自由にはならない。

「オウムとか暴力団相手の事件よりも、下手すれば離婚案件の方がよっぽど危ないかもしれないと思ったりもしますね。危険な目に遭う可能性を100%防ぐことはできないので、その可能性をどう減らすかが大事になります。リスクがあることを常にイメージしながらも、リスクを恐れるあまり仕事の質を落とさないようにするにはどう動けばいいのか。そういった面をこの事件からもっと学べるのではないかという気がするんです」

同僚が行方不明になった後、「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」(以下「救う会」)を立ち上げ、事務局次長として奔走した小島弁護士は、事件についてそう振り返る。

小島弁護士の弁護士としてのキャリアは、1984年の横浜法律事務所への入所と同時に始まる。当時の事務所には採用予定がなかったが、司法修習生のときに創立者の一人である故三野研太郎弁護士と出会った縁で入所することとなった。

「うちの事務所の弁護士1人と他の事務所の弁護士2人と一緒に、金沢で開催される日弁連の人権大会へ運転手として行ったことがあったんです。ところが、3人の先生たちは自分たちの宿だけ予約し、私の宿屋はとってなくて。たまたま人権大会に来ていた三野先生が、自分の宿に来るかと誘ってくれたのでついていったんです。そうしたら、三野先生が今時の修習生で宿も決めずに来るようなやつは面白いから、事務所に入れたらどうだっていう話をしてくれたらしいんです」

弁護士登録をした38年前に入所した横浜法律事務所で、小島弁護士は今も勤務している。現在の同事務所における一番の古株だ。

(永峰拓也撮影)

●志してきた労働事件に注力、忘れられない「幼稚園の存続活動」

大学生のときに所属していた労働法ゼミで読んだ判決に感動した小島弁護士は、働く人のサポートをしたいと思い、法曹を目指した。当初裁判官志望だったが、実務修習の一番最初の民事裁判修習を受けてみて、「もっと働く人の現場に近いところで仕事をしたい」と感じ、弁護士志望に進路変更。登録直後から労働事件に注力してきた。

元組合の役員や活動家など38名が指名解雇された事件では、事件発生から2年目のタイミングでも弁護団にすぐ加わり、尋問や書面作成をおこなった。原告が150人ほどいる組合間差別の事件では、提訴から9年目というタイミングでも臆することなく弁護団に飛び込んでいった。

「最終準備書面は400ページぐらい私が書きました。じっくり弁護士業に慣れながら力をつけるのではなく、いきなりやってみろと言われる時代でした。初めて反対尋問を担当したのも、弁護士になってわずか5カ月後のことでした。38名の指名解雇事件でしたが、尋問相手は解雇理由を証言する会社の課長。プレッシャーも大きかったけど、鍛えられましたね」

忘れられない事件の一つとして、横浜市内にある幼稚園の廃園事件がある。

この事件は1984年3月、園の経営者が突如1年後の廃園を宣言したことに端を発する。経営者以外の園関係者は誰もが初耳という状況だったが、地域の信頼も得ている幼稚園の存続を願う保護者が団結。保護者が結成した「幼稚園を存続させる会」が自主運営を続け、弁護団とともに存続のため戦った。

教員の全員解雇(解雇無効の労働委員会命令)、突然の園舎解体工事(解体禁止仮処分で阻止)など、経営者側の抵抗は激しかったものの、新経営者のもとでの存続が1990年10月に決定。廃園宣言から約7年、画期的ともいえる幼稚園の自主運営を6年近く続ける保護者や教員を弁護士として支えながら戦った末のゴールだった。この園は今なお存続している。

しかし、共に戦いながら、そのゴールを見届けることができなかった仲間がいた。事件の途中から弁護団に加わった坂本弁護士だ。

●「本当に物怖じしないやつ」弟分兼友人だった坂本弁護士

小島弁護士にとって、坂本弁護士は所属事務所でできた初めての後輩だった。弁護士としては3年先輩だったが、年齢的には5カ月ほどしか違わなかったため、弟分であると同時に仲の良い友人でもあった。

「お互い歌うのが大好きだったので、カラオケにもよく行ってました。ただ、飲みに行っても話題の半分以上はお互いが関わる事件の話でしたね」

坂本弁護士に初めて会ったのは、1986年のこと。入所希望者として事務所訪問した際の自己紹介の場だった。その時の第一印象を「本当に物怖じしないやつだった」と小島弁護士は振り返る。

「彼は、障害のある人や子どもなど自分では自分の権利をなかなか守れない人のために弁護士を志してやってきた、そういう活動をこの事務所に入ってもやっていきたいと演説したんです。まだ修習生の段階で、聞きようによっては生意気なやつだと思われかねない。でも彼は独特の親しみやすさ、人なつこさでそういう話を直球で語るので、生意気という雰囲気はあまりないんです。大物が入るぞという感じでしたね」

入所後は、小島弁護士と坂本弁護士のコンビで、複数の事件を一緒に担当。組織再編の過程で工場を閉鎖する会社がそこで勤務していた全員をやめさせようとする労働事件では、労働組合から相談を受けて2人で弁護団を作り、現場の工場に通い詰めた。

前述の幼稚園廃園事件にも、1987年4月に弁護士になったばかりの坂本弁護士が加わった。園存続をめぐる攻防が激しくなっていた時期での参加だった。坂本弁護士は、この事件で園の経営者を相手に初めての反対尋問を経験している。

しかし、存続への希望がようやく見えてきた1989年11月4日、坂本弁護士一家殺害事件が起きた。発生当時は、教団による犯行および殺害の事実が明らかでなかったため、「何者かによる拉致事件」として位置づけられていた。

小島弁護士が事件を認知したのは、発生から3日後、11月7日のことだった。週明けの6日にも坂本弁護士は姿を見せなかったが、その時点はさほど気に留めなかった。

「風邪でもひいたんじゃないのみたいな話がなんとなく事務所であって。その結果、『坂本は風邪で休んだ』ということになっちゃってたんです」

ところが、坂本弁護士は次の日、午前中に予定が入っていた労働委員会にも出席しなかった。

「同席した事務所の先輩弁護士が、事務所に帰ってくるなり『おい、坂本来なかったぞ』と言うんです。そして、ぽつりと『あいつオウムやってたからな』と。その言葉を聞いた瞬間、不安な気持ちが自分の中で一気に広がりました」

午後になって、坂本弁護士の自宅アパートまで様子を見に行ったが鍵がかかっており、親族ではないとの理由で大家に頼んでも開けてもらえなかった。夜まで待って坂本弁護士の母さちよさんに来てもらい、ようやく部屋に入ることができた。

「物が落ちてたり本棚が倒れてたりと室内が荒れているかもと想像してましたが、意外にも整然としていました。後になって、現場で実行犯の一人が落としたオウム真理教のバッジが発見されたのですが、それにも気づきませんでした。最初に『異変はなさそうだ』と思って観察してしまったからですね」

ただ、そこに住んでいるはずの坂本弁護士一家は誰もいなかった。坂本弁護士の眼鏡も財布も残っている。子ども用のおんぶ紐も置いてある。家族で外出した様子ではなかった。

「拉致としか考えられませんでした。そのとき、私はもうオウム真理教によるものとしか思えませんでした」

すぐに警察へ通報。捜査が始まり、事件は社会に認知されることとなった。

(永峰拓也撮影)

●「もっと強く言っておけば…」今も悔やむあの時のアドバイス

坂本弁護士は、教団に入信し家出した子の母親から相談を受け、教団と関わることになった。

当初、坂本弁護士が「小島さん、面白い宗教団体があるんだぜ」と言っていたことを記憶している。解決を目指して動く中、教団による霊感商法への疑念も抱くようになっていく。親子の面会を成功させたことを契機に、坂本弁護士には他の信者の親からの相談も寄せられるようになった。

「当時はまだ宗教法人の認可を受ける前で、教団が都内で街宣車を走らせていたというような話も聞いていたので、相手が集団ということもあり、私は坂本に『弁護団を組んだ方がいいぞ』と言ったんです」

小島弁護士としては、もし自分に声をかけてきたら一緒にやるつもりだった。だが、そうはならなかった。坂本弁護士は、別の事務所に所属する若手弁護士2人に声をかけて弁護団を結成した。

「彼も弁護士3年目で、自分が中心となって事件をやってみたかったのかもしれません」

小島弁護士が弁護団を組むよう伝えたのには、主に2つの理由があった。1つには、業務そのものの負担を分担すること。より重要なもう1つの理由は、坂本弁護士に危害が加えられるおそれを減らすことだった。

「たとえば、暴力団が相手の場合でも、弁護士の名前が複数あれば、誰か1人だけが狙われるようなリスクを減らせるはずです」

集団と対峙する危険性を伝えきれなかったことを、小島弁護士は今も悔やむ。

「当時、私も坂本も、教団がそこまで危険な集団だという情報を持っていませんでした。ただそれでも、弁護団を組むだけでなく、交渉するのでも何でも弁護団3人でやるようにというところまで伝えればよかった」

教団を追及する過程で、坂本弁護士はラジオや週刊誌の取材を受けるなど、その名が表に出ていた。結果として、教団には弁護士としては坂本弁護士しか見えない格好になってしまった。

「危険性についてもっと強く言っておけば、という思いは今でもあります」

事件発生の数日前、横浜法律事務所で、坂本弁護士と教団の顧問弁護士が2人で交渉する機会があった。そこに予告なく教団幹部2人が同行してきた。

教団側は、子どもらは自分の意思で入信しており、充実した毎日を送っていると主張。これに対し坂本弁護士は、教団が多様な価値観や考え方に触れる機会を子どもから奪っていると訴え、まずは親に会わせるよう繰り返し求めたが、結局交渉は物別れに終わった。

「幹部の一人が帰りがけに『こちらには信教の自由がありますから』と言ったのに対し、坂本は『人を不幸にする自由は許されない』と返答したのを、うちの事務員がその場で見聞きしています。幹部は、坂本について、自分たちの話を全然聞こうとしない弁護士だと教祖に報告し、教祖は坂本を亡き者にする方向に流れていったのではないかと思います」

交渉の場にいた弁護士は教団の顧問弁護士として、教団の関係する紛争等で法律業務を担っていた。

「彼は私と修習同期なんです。事件が起きた直後に事務所の会議室で話し合ったこともあります」

この人物はのちに教団による他の事件で実刑判決を受けて弁護士資格を失っている。坂本弁護士一家殺害事件は、弁護士が被害者となっただけでなく、加害者側にも弁護士が深く関わっていた事件だった。

事件が弁護士に与えたインパクトとして、小島弁護士は弁護士の家族まで被害に遭った点を挙げる。

「弁護士が暴力団に襲われる事件は過去にもありましたし、自分が狙われることはまだイメージできましたが、家族まで巻き込まれたというのは結構な衝撃でした。私もあの事件の後、エセ右翼のような相手と交渉した際、電話で『先生のお子さんかわいいですね、公園で見ましたよ』と言われたことがあります」

事件直後、深夜帰宅した際に、小島弁護士が当時住んでいたアパート近くの駐車場に大柄な若い男性が立っていたことがあった。家の鍵を開けるときにはすっといなくなったその人物を、小島弁護士は「自分を警備してくれている刑事」だと思ったという。

「事件捜査をしていた別の刑事さんに『いつもありがとうございます』と伝えたら、『何のことですか』と言うんです。あれっと思いながら事情を説明すると、顔色変えて警察手帳を出しながら『どんな人でしたか』と聞いてくるんですよ」

このやり取りで怖くなった自分がいかに臆病なのかを自覚した。それと同時に、臆病な人間でも震える膝を前に出さなければならないことが世の中にあるのだとも思った。それは、拉致されたと考えられていた坂本弁護士一家を救出するための活動だ。

「当時、すでに私には妻も子どももいました。でも、怖いからやめますなんて言えないし、逃げてはいけないことなのだと思いました」

幸いにして小島弁護士や家族に危害が加えられるような事態は発生しなかったが、大柄な若い男性が誰だったのかは結局わからずじまいになった。

(永峰拓也撮影)

●「救う会」に事務局次長として参加、終わり見えず「精神的に厳しかった」

小島弁護士は事件後まもなく、全国の弁護士とともに「救う会」を作り、事務局次長として救出活動に当たった。会に参加した弁護士は約3200人。当時の弁護士数は14000人弱だったので、2割強もの弁護士が活動に加わったことになる。会員から初めてカンパを募ったときは約800万円も集まり、救出活動のためのパンフレットを作り、宣伝等の活動費に充てた。

市民への協力のお願いにも力を入れ、救出に向けての捜査体制強化の署名などにも協力してもらった。集まった署名の数は最終的に177万人分にも上った。

しかし、その熱を持続することには苦心した。

「最初の頃は『たっちゃん(長男・龍彦ちゃん)かわいそう』というだけで市民もすごい協力してくれたんだけど、段々みんな忘れていくわけじゃないですか」

小島弁護士は、弁護士による救出活動は市民にも関わる問題だったと強調する。

「弁護士がこの事件やばそうだからといってみんな断っちゃったら、結局暴力的な人間と裸で対峙しなきゃいけなくなるのは市民です。感情的に『かわいそう』と思ってもらうだけでは活動は不十分。市民にはそんな危険についても知ってもらいたいと考えていました」

救う会では「市民の暮らしと弁護士」というリーフレットを作成し、弁護士への業務妨害は市民の権利を脅かすことにも繋がるということを広く訴える取り組みもおこなった。

坂本弁護士一家救出に向けた救う会の役割について、小島弁護士は「犯人たちへ心理的なプレッシャーを与え続けることでもあった」という。

「一家3人を拉致したのだとしたら、真相を知っている人間は2桁以上いるかもしれない。その中の1人や2人はひどいことしてしまったと悔やんだり、組織を脱退したりしているかもしれない。そういう人間がテレビを見たときに、新聞を広げたときに、坂本の写真が出てくる、さちよさんの訴えかける姿が出てくる。犯人たちに事件を忘れさせない、いつも心理的なプレッシャーを与え続けなきゃいけない。強制捜査する権限を持つ警察と違って自分たちができるのはそれしかない。そう考え、救う会での活動をプランニングしていました」

市民に関心を持ち続けてもらうことだけではなく、救う会の活動の持続も容易ではなかった。当初は週2回おこなわれた事務局会議は、時の経過とともに週1回になり、さらに月1回になった。小島弁護士を含め3人しか会議に集まらないこともあった。

「弁護士に対する法に基づかない攻撃を許してしまうと、日本の法治主義が崩れる、民主主義が崩れるという問題なんです」

坂本弁護士とともに働き、犯人らへの怒りを強く抱く小島弁護士をもってしても、救う会の活動を持続することは精神的に厳しくなることもあった。

「裁判は最初から終わりが見えていますが、救出活動は終わりが見えないんですよ。活動を続けていたら解決するかというとその保証はどこにもない。でも活動をやめてしまったら、解決の可能性がますます小さくなる。活動のために途中で抜けざるをえなかった弁護団もありました。終わりの保証がない活動を続けるのは精神的にしんどかったです」

その終わりは最悪の形で訪れた。1995年3月の地下鉄サリン事件発生後、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の一人が犯行を自供。同年9月6日、新潟県の山中で、小島弁護士は白い布をかけられた坂本弁護士と5年10カ月ぶりに「再会」した。

坂本弁護士一家3人は事件当日に殺害され、それぞれ別の場所に埋められていた。坂本弁護士と再会して、最初に浮かんだ思いもその点についてだった。

「あんなに仲の良かった3人を殺したことで目的を達したんだから、埋めるときくらい一緒にしてやれよ。あんなに人間が好きだった坂本を6年間もひとりぼっちにさせるんじゃねえよ。それが最初にわいた気持ちです。怒りだね」

(永峰拓也撮影)

●依頼者と誠実に向き合い続ける「気づいたことをきちんと伝えていく」

救う会の活動は、市民に届いていたと小島弁護士は振り返る。

「日弁連と当時の横浜弁護士会による合同葬があった際、会場の横浜アリーナから参列者が溢れて、近くの駅まで人が繋がってました。会場内に入りきらない状況で。あの理不尽なオウム真理教に立ち向かった坂本堤という弁護士がいたことを、これだけの市民が知っていたわけです。ずっと訴え続けていたから、みんな心に留めていてくれて、これだけ集まってくれたのだと」

一方、自分の弁護士としてのあり方や取り組み方について、事件後に変えようと思ったことは特になかったという。

「自分がなすべきことは、相手によって本来は変わるものではない。それまでやってきたことを変えようと思ったことはなかったですね」

ただ、事件前までと変化がなかったかといえば、それも違う。

「私の中で、坂本は一番ピュアで頑張っていた彼の姿でフリーズしているんです。彼だって、生きていたらもう少しは世間の俗にまみれたり、世渡り上手になったりしていたかもしれない。それがピュアなまま固まってしまった。その坂本が今の自分の仕事ぶりを見て、『小島さん、なに手を抜いてんだよ』と言われたらいけないよな、という緊張感はいつもあります」

日本労働弁護団幹事長や横浜弁護士会会長なども務めた小島弁護士が今注力しているのが、「ワークルール教育」だ。

「労働事件に多く関わりましたが、一方で弁護士のところに来られない人がどれだけたくさんいるのか。そもそも自分に権利があることすら知らない人がどれだけたくさんいるのか、年々考えるようになりました」

ワークルールを知らないがため、発生しなくてもいいはずのトラブルが起きている。いわゆるブラック企業が平気な顔で働く人を使い捨てにする一方、ルールを真面目に守る企業がそうではない企業との競争に疲弊する。長いスパンで考えれば、どちらの企業も結局は持続しない。健全な労使関係を築くためにも、ワークルール教育が必要だと小島弁護士は考えている。

「一時はワークルール教育推進法案まで作られて、立法化へ向けて進みましたが、残念ながら上程には至りませんでした。ただ、今も立法について諦めていません」

それでも、2013年に法律制定の提言をして以降、ワークルール教育という言葉とともに、その意義についての認知が広まってきていることを実感している。

「法律家として、自分に依頼をしてくれた方に対して誠実に向き合うと同時に、自分の気づいたことはこれからも、きちんと伝えていかなければなりません」

坂本弁護士について語り継ぐなど「自分にしかできないことをやっていきたい」。そう話す小島弁護士は、今日も自分のもとを訪れた労働者一人ひとりと向き合い続けている。

▼プロフィール
小島周一(こじま・しゅういち)弁護士
1955年沼津市生まれ。1981年東京都立大学法学部卒。同年司法試験合格。1984年弁護士登録、横浜法律事務所に入所。1989年より1997年まで「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」事務局次長。2007年より2009年まで日本労働弁護団幹事長。2011年度横浜弁護士会(現神奈川県弁護士会)会長。著書に『おかあさん、幼稚園なくなるの?』(白石書店)。

この記事は、公開日時点の情報や法律に基づいています。

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