刑事裁判を傍聴すると、時に「供述弱者」の被告人に出会うことがある。知的障害や発達障害、または性格上の特性、言語の問題などから、取り調べや裁判で他者に簡単に迎合し、自分自身を防御する力に乏しい人たちのことを指す。
たとえば、2003年に滋賀県東近江市の湖東記念病院で、入院中の患者が死亡したことをめぐり、殺人罪に問われた元看護助手の西山美香さん(41)は、懲役12年の判決を受け服役後、再審無罪が確定した。再審で注目されたのは、西山さんが「供述弱者」にあたるのではないかという点だった。
西山さんの再審に際して行われた鑑定では、彼女が軽度の知的障害と発達障害、愛着障害などを持つと判断されている。こうした特性によって、西山さんは取り調べを担当した捜査官に好意を持った上、虚偽の自白をしたと判決でも認定された。
刑事裁判の場では、西山さんと同じような「供述弱者」の疑いを抱く被告人を目にすることがある。現在、横浜地裁である監護者性交等の公判が続いているが、被告人が働いていた会社の上司や同僚は、彼も「供述弱者」にあたることを筆者に打ち明けた。だが、こうした観点からの弁護側立証は行われていない。(ライター・高橋ユキ)
●核心部分なのに揺れる証言
被告人は昨年6月、自宅で当時中学生だった娘・Aさんと性交したとして監護者性交等罪に問われている。当時Aさんは生理中だったという。警察署での取り調べでは、被告人の陰部に血がついていたかを聞き取るため、男性器の模型が用いられ、それに被告人が着色するなどして確認が行われたという。
公判で行われた被告人質問で、被告人は「(陰部は)入ってない」と否定した。ところが取り調べ時、模型には色を塗っていた。そのため検察官からは「起訴状を見たかどうか」をまず確認されたのち、取り調べ時には挿入を認めていたことを追及された。
検察官「模型に色を塗った上で、1.5センチくらいは入ってたんじゃないかと、言ってませんでした?」
被告人「話ししてます、大きく固くなってればそこまで入ったかもしれないけど、固くなかったから、でもついてたから……」
検察官「固くなってなかったから1.5センチしか入ってないんじゃないの? 1.5センチは入ってたかもしれないと思うんですか?」
被告人「はい」
証言が揺れて、起訴事実がどうだったのか判然としないやり取りが続いた。裁判所は一旦進行についての打ち合わせを設け、被告人質問は二度行われることになった。
●「読み書きができず、知的な問題を抱えている」
こうしたやり取りを傍聴席から見守っていたのは、被告人が長年勤務していた、ある建設会社の上司や同僚たちだった。
筆者が裁判を傍聴したことを偶然知り、わざわざ連絡をしてくれた同僚は、被告人が「読み書きはできず、それを普段は隠していた」と教えてくれた。上司や同僚は被告人をよく知る者として、彼が正当な裁きを受けるのか不安を感じているという。そして次のように詳細に語った。
「10年以上、毎日のように一緒に行動してました。彼は免許を所持していませんので、私が毎日のように現場まで送り届け、自宅に送るということをやっていました。彼が免許を持っていないのは、読み書きができず、知的な問題を抱えているからです」
日頃の彼を知っているため、公判で話が少しずつ変化していった被告人の様は「いつもの彼らしい」と感じるものだった。
「弁護士さんからの質問にも、裁判官からの質問に対しても、彼は『さっきの説明と違うじゃん』とすぐにわかる答えを言うのですが、それもわたしには見慣れた光景でした。相手の話を理解していないから、適当にあわせてしまうのです。
公判中、検察官が『あなた、ご自身で供述した調書確認したんですか?』と何度か聞いていましたが、彼は文字が読めませんから、はっきりとは理解できていないと思います」
仕事上がりには共に食事に出かけるなど、公私にわたり長く付き合いを続けてきたという上司は、被告人の特性をこう具体的に語る。
「いま、拘置所で必死にドラえもんとドラゴンボールの漫画でひらがなの練習をしているそうです。漢字は言うに及ばず、ひらがな、カタカナも一字一字なら読めますが、単語レベルになると3文字程度から読めません。数字はギリギリ理解できますが、計算は難しいかもしれません。
トイレ、と書かせるとレのハネが逆にはねます。自分の名前ぐらい読めるだろうと思っていましたが、彼と同じ名字がついたアパートの前で待ち合わせた時も、そのアパートの名前が読めないため、会えなくなったこともあります」
それにしても、それでどのように社会人として振る舞えていたのかと疑問もわくが、狡さが垣間見られることはあったものの、根っからの悪人ではない愛嬌のある人物で、周りからの支えもあって受け入れられていたようだ。
「立ち居振る舞いが明らかにおかしければ、相手もそのように扱うのですが、一見全く普通です。そして読み書きできないことを隠して生活しているので、困ることがあるとその都度、周りの善意を期待して行動します。
そのため周囲の人間にはめっぽう従順で、複数人で作業すると、私の指示よりも、その場の楽な提案に『それでいいよ』と安易に流れてしまうのも特徴でしたね。
同じ内容でも『ああしたほうがいいよね?』という言い回しで聞けば、質問者が期待する答えを考えて『ああしたほうがいい』と答えますし、たとえ同じ内容の事でも『あれじゃだめだよね』と逆のことを質問すると『ああ、それじゃだめだな』と答えます。
ほかにも、周りがいじって『11人子どもいるらしいじゃん』などというと『おう、いるよ』と適当に話を合わせてしまうこともありました。長い話を論理的に理解できないので、同じ話の中でも言い回しを変えると、言っていることが二転三転します」
●「罪を認めれば、ここを出られると言われた」
勤務態度は真面目だったという。しかし読み書きもできず、相手の話を理解することも難しい。社会生活上は大小、様々なトラブルがあった。言われるがまま、相手の求めに応じ、免許を持っていないのにETCカードを作らされたこともあった。
「こういう出来事は挙げればきりがないです」と言う上司だが、逮捕後の被告人からこんな相談も受けていた。
「罪を認めて150万払って上司がアパート借りてくれればここ(拘置所)を出られると言われた。働いて返すから貸してもらえないか」
二度目の被告人質問が行われたのち、筆者は連絡をしてくれた上司や同僚と共に、拘置所で被告人と面会した。「警察は、これからどうなるかとか言ってくれなかった」「弁護士はあんまり来ない」など、あっけらかんと語る。
被告人はいわゆる高齢者の部類に入る年齢だが、語る内容には幼さを感じる。「認めて150万払えば出られる」という間違った情報を誰から得たのか問うたところ「それは一緒にいる人たち……」と要領を得ない返答があった。留置場で同房の人間から聞いた内容か尋ねるも、判然とはしなかった。
●「手帳がなければ、何の配慮もされていないのが実情」
もし彼が供述弱者なのだとしたら、どう対応するべきなのか。冒頭の西山さんの再審において弁護団長をつとめた、井戸謙一弁護士は次のように語る。
「知的能力、性格特性等から、自分を防御する能力の乏しい人が一定割合存在します。そのような供述弱者は、容易に取調官に迎合し、あるいはその圧力に抵抗できず、嘘の自白をしてしまいます。
警察は、たとえば療育手帳や精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている人に対しては、一定の配慮をしていますが、そうでない限り、何の配慮もなされていないのが実情だと思われます。
これらいわばグレーゾーンの供述弱者に対し、捜査段階から配慮する体制を作ることが必要であり、捜査段階で見過ごされたのであれば、刑事司法関係者には、公判段階で、その視点から自白の信用性を厳密にチェックすることが求められます」
公判で弁護人からは、被告人が読み書きできないことや、知的に問題がある可能性についての主張はまったくなされなかった。勃起していなかったことや、被害者Aさんが挿入を目視していなかったことなどから「性交の実質的行為が認められない」として無罪を主張している。
しかし、少しずつ話がずれてゆく公判廷での被告人供述には「やったのに往生際が悪い」「反省の色がみられない」と捉えられる可能性もはらむ。筆者に連絡をくれた勤務先の上司は弁護人にも連絡しているが、これまでに一切のコンタクトがないという。
4月16日の公判で検察官は「供述が不自然に変遷している。性交に及んだことは明らか」として、被告人に対して懲役7年を求刑した。このまま供述弱者としての立証はなされないまま、5月に判決を迎える。