セクハラの賠償金の額が低いと言われる日本で、880万円の賠償を命じた事件がある。2017年4月12日に東京高裁で判決が言い渡された「航空自衛隊自衛官セクハラ事件」だ。
これは航空自衛隊浜松基地の元隊員の女性が、上官の男性から継続的な性被害を受けたとして、男性に1100万円の損害賠償を求めた訴訟だった。ただ、1審の静岡地裁浜松支部では、たった30万円の慰謝料しか認められなかった。
代理人を務めたのは、弁護士歴40年以上を有するベテランの塩沢忠和弁護士(74)と当時新人だった栗田芙友香弁護士(33)のコンビだ。
地裁判決を受け「怒りと驚きで死に物狂い」で控訴審に挑んだ2人。最高裁が2018年2月に被告側の上告を棄却し、提訴から3年5カ月で終結した。
果たして、地裁と高裁の判断を分けたものは、一体何だったのか。話を聞いた。
●同意なき性行為をどうやって立証するか
女性(当時30代)は2010年4月、航空自衛隊浜松基地の隊員として採用され、文書管理などの仕事を担当した。8月ごろ、同期から同じ課の男性上官(当時40代)を「偉い人だ」と紹介され、男性から連絡先を聞かれた。
その頃からセクハラが始まり、上官は「人事上のことを聞きたい」と言って女性を呼び出し一方的に抱きしめたり、無人島に連れて行き数回キスをしたりした。10月にはラブホテルに連れて行き、無理やり性交した。 女性は男性からの性的強要が嫌になり、2011年3月に自衛隊を退職した。しかし、その後も2012年前半までの間、上官は複数回にわたって女性の自宅に上がり込んだり、ラブホテルに連れ込んだりして、無理やり性交した。
2013年6月、女性の相談を受けたのは塩沢弁護士だった。こうした事件では相手は「同意の上でおこなった」「本人も自主的な意思で受け入れてくれた」と反論してくるのが常だ。
「同意なき性行為をどうやって立証していくか。そこに尽きる」。相手の反論をどう打ち破るかが鍵だった。
同じころ、女性は自衛隊内の「セクハラホットライン」に被害を申告し、浜松基地内で調査が始まっていた。
塩沢弁護士には、パワハラによって自殺した浜松基地の自衛官をめぐる国家賠償請求事件の原告代理人の経験があった。その際、基地内の調査結果が提出されたことで、事実経過がクリアになった。
「とにかくこれから始まる調査がポイントになるから、きっちり被害を訴えること。しんどいし辛いだろうけど、妥協せずに頑張っていきなさい」
塩沢弁護士は女性にそう声をかけたという。その後も調査の進捗報告を受けながら、質問への答え方をアドバイスした。
●「強姦神話」に基づいた地裁判決
塩沢弁護士は当初、訴訟を起こすまでに、上官の懲戒処分が出ると見込んでいた。そうすれば、自衛隊側に調査記録の開示を求め、裁判で証拠として提出することができる。
しかし、待てど待てども処分は出なかった。「このままだと時効を迎えてしまう」。2014年3月に内容証明郵便を送り、その半年後には上官に1100万円の損害賠償を求めて静岡地裁浜松支部に提訴した。
懲戒処分が出ないまま迎えた1審では、女性や現職自衛官でもある当時の夫、友人の陳述書、上官からの着信履歴、医者の診断書などを提出した。しかし、裁判所は陳述書について「強姦被害の客観的証拠ということはできない」と判断した。
さらに、女性がボールペンを上官を贈ったことについて「過去に強姦事実があったとは考えられないような情緒的人間関係が形成されていた」、映画鑑賞の後にホテルで無理やり性交されたことについては「後にホテルに行って性交するよう求められるような成り行きを想定することも容易であったのに、なぜ映画鑑賞に行ったのか疑問」などと評価した。
いわゆる「強姦神話」に基づく判決だった。
●「立証が至らなかった」振り返る代理人
職場など上下関係がある場合には、性暴力被害者は拒否したり抵抗したりすることが難しくなる。暴行や脅迫を受けていなくても抵抗できず、被害が継続することがあり、途中で諦めたり迎合するような反応を見せたりする人もいる。
こうした被害者特有の心理状態があることは、研究により明らかになっている。しかし、地裁判決は、こうした心理を全く踏まえず、判決文にはセカンドレイプとも捉えられるような文言が並んだ。
「怒りが湧いて、このままでは許せないと思った」と話す塩沢弁護士。一方で「地裁段階では、私たちも性暴力の被害者心理を理解しきれていなかった」とも振り返る。
「裁判官が強姦神話にとらわれているという状況について、私自身が危機感を持っておらず、立証が至らなかった。私自身もそこまでの知識を持ち合わせておらず、一審は甘かったんだと思います」(塩沢弁護士)
高裁では、性暴力被害者の心理に関する文献を複数提出した。栗田弁護士はその過程で初めて加害者に迎合するようなメールが有利な証拠になり得ると知った。
「それまでは迎合するようなメールは不利な証拠と思っていました。被害者心理について学んだことで、全て『被害者だから』こうした反応になると分かったんです。理解しきれていなかったのが申し訳なかった」(栗田弁護士)
●「宝の山」だった自衛隊の調査記録
地裁判決後、航空自衛隊浜松基地は男性に対し、減給10分の1の懲戒処分をおこなった。高裁での審理が始まって3か月後、原告側は自衛隊の調査記録を入手し、裁判所に証拠提出した。それは「宝の山」だった。
上官は1審では一貫して「合意があり強要はしていない」「嫌がる態度を見せず応えていた」と反論していた。しかし、自衛隊の調査では「強要だったとは認めるが、決して乱暴して性交渉はしていない」などと証言していたのだ。
こうした証拠を踏まえ、高裁は、上官の行為について「地位を利用し、人事への影響力をちらつかせ、雇用や収入の確保に敏感になっている女性の弱みにつけ込んで性的関係を強要して、継続した」と指摘し、上官の「女性は自らの意思で性交渉に応じていた」という主張を一蹴した。
そして、女性がPTSDに悩まされ生活に大きな支障をきたしていることから、慰謝料800万円、弁護士費用を合わせて880万円の支払いを命じた。
この賠償額には「驚いた」と塩沢弁護士は言う。
「高裁の担当した裁判官は非常に人権感覚に敏感な人でした。本人尋問では、女性の逆らえなかったという心理状態について詳しく質問をしていました。
自衛隊内部の調査記録が出たことで事実経過がクリアになったこと、被害者心理についての資料を出し裁判官が読み込んでくれたことが判決に大きく影響した」(塩沢弁護士)
●民事裁判で救済できるのはごく一部
女性と代理人の付き合いは今でも続いている。栗田弁護士は「周りから信用されていないと思い込まされて被害にあった彼女が、最高裁に認められたことで、一つの区切りになったのではないか」と話す。
塩沢弁護士も「自衛官を目指し上昇志向も積極性もある女性だったが、事件に巻き込まれ精神的にも落ち込んだところから反撃に転じた。事件を通じてひどい目にあったけれども、負けずに頑張ったことが、彼女のその後の人生を向上させることに役立っている」と振り返る。
2017年に性犯罪に関する刑法が一部改正されたが、さらなる法改正をするべきか——。現在、法務省の検討会で議論がおこなわれている。塩沢弁護士は「民事裁判で救済できるのはごく一部だ」と指摘する。
「被害者は埋もれている。救済を求める人は稀だし、求めても立証できずに終わることがあるでしょう。女性も2017年8月に強制性交等罪で刑事告訴しましたが、不起訴処分に終わりました。構成要件の問題は難しいですが、同意なき性行為を違法として、処罰を制度として認める必要があるのではないでしょうか」