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震災から10年「日常への嫉妬あった」 南相馬のソウルフード「アイスまんじゅう」に込める思い #あれから私は
松永牛乳の井上禄也社長(2021年/土井大輔撮影)

震災から10年「日常への嫉妬あった」 南相馬のソウルフード「アイスまんじゅう」に込める思い #あれから私は

福島県南相馬市のソウルフードの一つ「アイスまんじゅう」。アイスクリームで練り餡(あん)を包み込んだユニークな氷菓だ。

アイスまんじゅうを名乗る商品は、日本各地で売られているが、南相馬市にある松永牛乳のアイスまんじゅうは約70年の歴史がある。アイスまんじゅう界では「老舗」と言ってよいだろう。

ことしの3月11日で東日本大震災から10年となるが、南相馬市はとりわけ福島第1原発の事故の影響が大きかった自治体である。この地で、松永牛乳は、大手企業の乳製品を受注生産しながら、アイスまんじゅうなど自社製品を作り続けてきた。

震災からの10年をどのように見てきたのだろうか。松永牛乳の井上禄也(いのうえ・ろくや)社長に聞いた。(ライター・土井大輔)

●そして、誰も助けてくれなくなった

――東日本大震災から10年となります。この間、どのような変化がありましたか?

震災のときに人の心に刷り込まれたものは、強く残っているものです。放射性物質に対する恐怖だったり、災害に遭ったときに誰も助けてくれないんじゃないかという感覚です。そういうものが蔓延しているように思います。

国・政府が、福島を力強く助けてくれていたら、「福島ってかわいそうだよね」というのはなくなるはずなんですけれども、まだぐだぐだと続いています。「かわいそう」が止まらないということは、その裏に「ああいうふうになりたくないよね」という面もあるわけです。

ということは、「災害に遭ったときに助けてもらえないのでは?」という恐怖感が、みんなの中に入り込んだのかもしれないなと思うんですよ。

そして、昨年から新型コロナの感染拡大があって、今度は本当に誰も助けてくれなくなった。

震災のときは、外の人が助けてくれました。福島・宮城・岩手の外の人は「日常」を維持できていたからです。でも、今は、新型コロナが全国的に広がってしまったので、誰も助けてくれない。自分たちの力で生きていくしかなくなったと思います。

松永牛乳のアイスまんじゅうとバニラアイス 松永牛乳のアイスまんじゅうとバニラアイス

――日本全体が自分を優先せざるを得なくなってしまった、ということですかね。

誰しも生きていかねばならないので、それは当然だと思います。

ただ、わたしは震災後の2014年、社長になったんですが、生きていくには、従業員の力がないとダメということに気づきました。

だから、わたしを生かしてくれる従業員がすごく大事になる。地域の人、うちの商品を買ってくれる人もすごく大事です。仲間や知り合いも、一周まわって、すごく大事に思えてくる。利己から一周まわって利他になってくるんですよね。

昔は、自分が美味しいと思ったものを売れば、喜んでもらえるという、今から考えるとありえない夢を抱く人もいたんですけど、そんなことはなかった。やっぱり、みんなが喜んでくれるものを売らないとお金を払ってもらえない。

そして、売れないと従業員に給料を出せないし、従業員がいなくなると、わたしの存在なんてすぐ吹き飛んでしまう。なので、外にどんどん発信していかないと、誰も見てくれないし、誰も気にかけてくれない。そういう発想に変わってきましたね。

●「被災地って、すごく不条理を感じるんですよ」

――震災当時はどんな状況だったのでしょうか?

うちは津波の被害はなかったんですけど、「原発が爆発した」という話になって、家族を連れて県外に逃げました。妻のお腹に赤ちゃんがいたというのがあります。

子どものときに『ひろしまのピカ』(絵本)とか『はだしのゲン』(漫画)とか、チェルノブイリ事故とか「ノストラダムスの大予言」とかもあって、核に対する恐怖がすごくあったんです。子どもたちにはそんな目に遭わせたくないと思いました。

4月くらいから工場が動きはじめたので、わたしだけ戻ってきたんですが、妻子には会えないわ、仕事はうまく回らないわで大変でした。それでも外は「日常」なので、人が足りない状況の中、お客さんの要求に応えなきゃいけない。応えなければ、生きていけません。

そのころ、テレビを見ていると、一応、震災の話が出てくる。放射線の話も出てくる。でも、外では「日常」が維持されているわけです。それに対する嫉妬ですね。被災地って、すごく不条理を感じるんですよ。すごく悔しいわけです。

そんな中で、自分の内側から「なにがなんでも生きる」という動物的な感覚が出てきました。すると、周りの人も同じような匂いがしているなと思いはじめたんです。もしかすると、わたしの考えが反射したもの、鏡みたいなものだったのかもしれないですけど。

――牛乳に関しては風評被害もあったのではないでしょうか?

幸いにも、うちは風評被害がそんなになかったんですよ。地元の学校が再開するにあたって発注をかけてくれたり、大手メーカーさんも仕事をさせてくれたりしました。

ただ、ツイッターでは、ボロクソに言われたことがあります。南相馬市で製造されたアイスクリームが飛行機内で提供されていたんですが、中にバニラビーンズが入っているのを見た人が「福島で作られた乳製品だ。黒いのはプルトニウム?」と投稿した。

今思えばギャグみたいな話なんですけれども、そういうので電話がかかってきたことはあります。

当時、うちは、放射性物質の検査のデータを持っていたんですけれども、公表していなかった。だから、やっぱり公表しようという話になって、会社沿革とか商品紹介を省いて、公表データに特化したサイトに作り変えることにしました。「日本で一番愛想の悪いホームページを作るんだ」くらいの勢いでした。

松永牛乳の工場 松永牛乳の工場

――もともと井上さんは、司法試験に挑んでたんですよね。

中央大学法学部を出て、30歳までだらだらと挑戦していましたね。2003年に南相馬市に戻ってきて、じいさんの会社だった松永牛乳に入れてもらいました。僕はバリバリの文系で、公法が好きだったんです。憲法とか刑法とか。それがまさか牛乳の脂肪が何パーセントとか、アイスクリームの流量が1時間どれぐらいだとか、そんな話をするようになるとは(笑)。でも、それはそれで面白いわけです。

震災から2年目には会社の生産数は回復しつつあったんですけど、人が足りないからトラブルが多くて。すると、3年目には「こんな会社に任せられない」ということで、受注が減ってまた生産数が落ちました。

そうすると、今度は取引のある金融機関が心配するわけですよね。震災のときに融資を受けたのですが、生産数が落ちると「これから会社を継続していったとして、本当に返せるの?」となります。

当時、わたしは取締役だったんですが、隣の会議室で金融機関の方と喧々囂々(けんけんごうごう)と話し合っていた様子を覚えています。その隣の部屋でワーワーやっているなと思った日の夜に「禄也、来年からお前が社長だ」と。2014年、「えーっ!」と言いたくなるタイミングで社長になったんです。

●「幸せってなんだべ?」

――井上社長の中で「日常」への嫉妬はもうおさまったのでしょうか?

まだまだ厳しい部分はあります。ただ、それが震災の影響なのか、国内経済の根本的な問題なのかは、よくわからないところがあります。ここに至る10年で、だんだんと、嫉妬してもしょうがないし、とりあえず前に前にとやっていけば、従業員はなんとか食べさせていけるし、お客さんにも見捨てられることもないだろうと思えるようになってきました。実際、いろんな人が協力をしてくれたわけですからね。

そういう中で、嫉妬がおさまってきたというか、環境は厳しいにしても、わりと幸せを感じるようになりました。「幸せってなんだべ?」みたいなところで、お金をたくさん持っていたら、それはそれで幸せですが、仲間や友達がいて、そういう人たちとしょうもない話をしたり、仕事の中で協力しあったりということが続くことが、わりと幸せだなあと。

――南相馬市には今どのような課題があると考えていますか?

人が戻ってこないのというのは、あらゆる面に影響する大きな課題だと思っています。ですが、これは正直、もう手遅れになっていると思います。放射性物質が怖いという話ではなくて、あまりにも時間が経ってしまって、避難先で生活基盤ができているからです。そこから戻ってくるのは、やっぱりすごいストレスでしょうから。

もし戻ってきたとしても、さっきも話したように助けてくれる感じがしないんですよ。やっぱりおっかなくて戻ってこられないですよね。本能的なところで非常にぼんやりとした不安があると思うんです。特に「震災から10年」と言われると、それが切れ目になっちゃうので、なお不安ですよね。

この課題を解決するために企業を誘致したり、にぎわいを作ろうということで建物を作ったりしていますけど、やはり人がいない。でも、電気が煌々と点いて、音楽も流れていて、警備の人もいる。非常に効率的でないんですよね。そういう施設を作って「にぎわいを」と言っても、効果が出にくい。

課題を解決するためにやっていることが、また新たな課題を生んでいる。そうすると、この課題解決には別のアプローチが必要かもしれないなあと思うのです。

松永牛乳の工場 松永牛乳の工場

●「やっぱり頭にきているんですよ」

――松永牛乳としては、この10年をどう戦い抜いてきたのでしょうか。

たしかに戦ってはきたんですが、勝ち取ったものはなかったです。わたしは「復興」という言葉があまり好きではなくて使わないんですが、「つなぐ」というのは大事だと思うんです。

わたしは南相馬市(当時・原町市)で生まれ育ちました。小学校の給食では、当然、松永牛乳が出てきます。中学校も松永牛乳でした。松永牛乳が、南相馬市というか相双(南相馬市を含む相馬地方と双葉地方を合わせた呼び名)に存在していることは普通なんですよね。それがなくなるかもしれないことにものすごく違和感があります。

2、3年前に椎木透子さんという映像作家と知り合いました。この方は原町の中学校を題材にドキュメンタリーを撮りに、福島にいらしてくれたんです。原町の中学は伝統的に吹奏楽が強くて、何度も賞をとってきたんですね。そんな椎木さんに先日インタビューを受けたのですが、私について「これまでそこに普通にあったものがなくなることに対する本能的な違和感」というように表現してくれました。「そうそう」と思いました。本能的・動物的違和感なんですよ。

派手派手しい建物を作るのではなく、今までの歴史を継続する、持続する。それはただ松永牛乳があればいいと、いう話ではありません。継続する・持続するというのは、静的な面もあるんですけど、その反面やはり動的でなければいけない。そうじゃないと静的な状態を確保できないからです。

これまでの製品だけをやればいいというのではなくて、そのときに応じたいろんなものを出していく。そう考えるといろんなアイデアが出てくるんですよね。地域の仲間と「のんだら乗るな のむなら牛乳」のステッカーを作ろうとか。マスクを作ろうとか、学校向けにダンボールの仕切り板を作ろうとか。

――違和感が生じないように、いろんなことを試してきたと。

あとは、やっぱり頭にきているんですよね。震災以後、いろんなことに対してずっと頭にきています。でも、それがなかったら、逆に会社は続いていなかったかもしれません。

たとえば、東日本大震災に伴う原発事故で損害賠償を受けたのですが、その交渉の中であれはダメ、これはダメというのがあったり、用意する書類がたくさんあったりしました。そうすると俺らは死ぬような思いでやってきたのに、なんでこんなことをしなけりゃならないんだ? と感じるわけです。

そこでもしもこちらの要求が全部認められたら、たとえば「ひとりに数千万円ずつ払います」となっていたら、一気に「ありがとうございます!」となったと思うんです。でも、それをやられていたら多分こんなに必死に仕事をしていなかったと思うんです。

――その怒りが井上社長の原動力になっている。

そうですね。怒りとか嫉妬とかそういう負の感情がなかったら頑張れなかったかもしれませんし、もっと言えば「幸せ」の概念を掴めなかったかもしれません。震災と原発事故は基本的に「悪い出来事」ではありますが、いろんな部分で契機になった面もあり「良い契機」とも言えると、今になっては思います。

ちなみに、わたしは原発反対なんです。単純にあんなおっかない目に遭ったので賛成できないんですよ。でも逆に言えば、あんなに目に遭わなければ、許容できるというところもあるんです。やはりあの時自分が味わった恐怖を誰にも味わってほしくないと思うんです。

ですから推進する方々には、反対派以上に原発の管理について厳しく追及してほしいと思います。本当に推進するなら、原発の安全性を再度「神話レベル」まで持っていく活動をしなければならない。反対派の不安を少しずつでも確実に解消していかなければならない。

要は、ふたたび大きな災害があっても同じことが起こらないようにする信念と、それに基づく活動がほしい。そうすれば原子力発電は、再度人々の幸せを造るツールになるのではないかなあと思うんです。

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