無実の人を「犯人」に仕立て上げるのは、裁判所や検察だけではない。見過ごしてはならないのが、メディアの存在だ。
再審で無罪となった袴田巌さんは、逮捕前から“犯人扱い”され、長年にわたって死刑の恐怖にさらされ続けた。
その弁護団の一員として活動してきた弁護士が今、報道のあり方を問う裁判を起こしている。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●袴田事件から60年、今も変わらない「事件報道」
「メディアは捜査機関の情報を垂れ流しているだけではないでしょうか?」
そう疑問を投げかけるのは、袴田さんの弁護団の一人、角替清美(つのがえ・きよみ)弁護士だ。
1966年の静岡一家4人殺人事件以降、マスコミは袴田さんを犯人視する報道を続けてきた。
静岡新聞は1966年8月18日付夕刊の社会面で、<従業員袴田を任意同行><“袴田の犯行”に自信><落ち着き払った袴田 終始、えがおさえ浮かべ>といった見出しの記事を掲載した。
まだ逮捕もされていない段階で、袴田さんの顔写真を掲載し、遺族のコメントを「“袴田に裏切られた”」という見出しで報じていた。
静岡県で一家4人殺害事件が起きた1966年、袴田巌さんが犯人であるかのように報じる当時の新聞記事
他のメディアも同様だった。朝日新聞は「事件後の袴田はふだんとまったく変わらず、十八日朝、任意出頭を求められた時も終始にこやかな表情。清水署に連行されてからも笑顔さえうかべていた」と書き立てている。
その後、メディアは「被疑者を呼び捨てにしない」など一定の改善を重ねてきた。しかし、捜査機関の情報をもとに報じる「事件報道」の構図自体は、半世紀以上が経った今も大きく変わっていない。
●逮捕の早朝、自宅前にカメラ
そんな現実を突きつける裁判が、袴田事件の舞台となった静岡で起きた。
発端は、静岡県に住む男性が、他人の仮想通貨を不正に得たという「電子計算機使用詐欺」の容疑をかけられたことだった。
判決文などによると、男性は2021年11月24日の早朝、自宅で静岡県警に逮捕された。そのとき、玄関先で地元メディアの静岡放送(SBS)の関係者からカメラを向けられたという。
不起訴になった男性が逮捕時に実名報道された事件の経緯(弁護士ドットコムニュース作成)
●逮捕の17日後に実名報道、不起訴は匿名
静岡県警は2021年12月10日、共犯とされた人物を逮捕。翌11日、11月に男性を逮捕していた事実とあわせ、メディアに発表した。
SBSは12月11日と13日のニュースで、男性が自宅から連行される映像とともに実名で報道。静岡新聞も12月12日付朝刊で、男性の名前や職業、住所を報じた。
再審で無罪となった袴田さんに関するこれまでの報道について、複数の新聞社がおわびの記事を掲載した
男性は12月14日に処分保留で釈放された。角替弁護士はこの日、SBSや静岡新聞などの報道機関に対し、男性が被疑事実を否認していることや、男性の逮捕報道があった時には証拠不十分で釈放となることが決まっていたことなどを挙げ、男性を実名で報じた記事の削除や訂正を求めた。
男性は12月28日に不起訴となり、角替弁護士は「不起訴も実名で報じてほしい」と依頼したが、SBSや静岡新聞は男性が不起訴になったことと、検察庁が不起訴の理由を明らかにしていないことを匿名で報道した。
●「警察広報に過ぎない」と提訴
「逮捕から期間がたった今も、出回ったインターネット情報を検索されることを恐れ、名刺交換さえできない状況だ」
男性は2022年、警察による捜査情報のリークや、実名や容貌の報道がプライバシー権侵害などにあたるとして、静岡県とSBS・静岡新聞社に対して、計330万円の損害賠償を求めて提訴した。
一審・静岡地裁(平山馨裁判長)は2025年10月、SBSが2021年12月13日に放送したニュースについて、その時点までに共犯者が「原告(男性)には暗号資産が他人のものであると伝えていなかった」という旨の供述をしていることをSBSの記者が掴んでいた点を挙げ、男性への「嫌疑を揺るがすに十分なもの」と指摘。
そのうえで、追加取材をしないまま、漫然と男性の実名や逮捕映像を用いて報道したことについて、プライバシー権や肖像権を違法に侵害し、名誉を毀損する不法行為にあたると判断してSBSに55万円の支払いを命じた。
静岡地裁(MORIKAZU / PIXTA)
一方、県警による記者発表や事前の情報提供については、捜査権行使の適正性を市民に検証させる意義や広報の寄与があるとして、違法性を否定。
また、2021年12月11日、12日の報道については、原告に対する犯罪嫌疑に「相当程度の濃さを有するものであった」などとして、名誉毀損などの不法行為には当たらないと判断し、そのほかの請求は棄却した。
●「権力を監視する気がない」メディア
「袴田さんが逮捕された時の報道と何も変わっていません」
袴田さんのような冤罪被害者を生まないためには、裁判官や検察官だけでなく、記者も変わる必要がある──。角替弁護士は、今回の裁判を起こした背景について、そう語る。
袴田巌さんの再審開始を認めなかった東京高裁の決定に対して、最高裁に特別抗告した際に記者会見を開いた弁護団の故・西嶋弁護士(左)と角替弁護士(2018年6月、弁護士ドットコムニュース撮影)
「報道機関は、警察や検察が言うことは信じて、こちら(被疑者・被告人)の言うことは聞かない。私は、権力を監視するためにメディアが情報を必要とすることは理解していますが、実際に『あなたたちは、この事件のどこで権力を監視したのですか?』と思うんです。権力を監視する気がまったくないように見えます」
男性側とSBS側はともに、一審判決を不服として控訴しており、5月28日に東京高裁で判決が言い渡される予定だ。
●逮捕報道「なぜ必要かを吟味して」
京都の小学生遺棄事件や栃木の強盗殺人事件など、今も事件報道は連日のように大きく扱われている。
しかし、その中で被疑者・被告人本人や弁護人に直接取材した記事は、ほとんど見当たらない。第二、第三の袴田事件がいつ起きてもおかしくない状況は、今なお続いている。
角替弁護士(2026年3月、東京都内で、弁護士ドットコムニュース撮影)
角替弁護士は、「表現の自由」や「報道の自由」の重要性を理解する法曹の一人だ。それでも、警察が発表するままに実名報道を繰り返し、捜査機関のリークを一方的に流す現状に、強い危機感を抱いている。
「今の事件報道は、捜査機関の発表をそのまま垂れ流しているだけではないでしょうか。私は、こちら側の主張をメディアに扱ってほしいと言っているわけではありません。『なぜ逮捕を報道する必要があるのか』をきちんと吟味したうえで、フェアに扱ってほしいだけなんです。
マスコミがちゃんと考えて報道しないと、捜査機関にいいように使われるだけになってしまいます。権力の監視という役割を忘れないでほしい。裁判を起こしているのも、メディアを叱咤激励したいからなんです」