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権力に怒る映画監督・原一男「日本は法治国家なのか?」 アスベスト訴訟8年を作品に
原一男監督

権力に怒る映画監督・原一男「日本は法治国家なのか?」 アスベスト訴訟8年を作品に

ドキュメンタリー界のレジェンド・原一男監督の最新作『ニッポン国VS泉南石綿村』が3月10日から公開される。題材は裁判。大阪・泉南市の元工場労働者らが国の責任を認めさせた「泉南アスベスト訴訟」に密着している。

8年以上にも及ぶ撮影期間中に亡くなった原告は21人。裁判が進まないことへの怒り、対話を避ける国への怒り。映画では、さまざまな「怒り」のシーンが描かれる。中には原告団に対する原監督自身の怒りも。なぜ怒るのか。原監督に聞いた。(取材・構成/弁護士ドットコムニュース・園田昌也)

●「国会のやりとり、対話になっていない」「もっともっと怒らないといけない」

――最高裁判決を前に、原告団が厚労大臣との直接面会を求め、厚労省に21日間通い続けるシーンが印象的でした。結局、若手官僚1~2人が出て来ただけ。大臣どころか上司も現れませんでした

彼らは「係争中だから何も言えない」と伝えるだけ。何を言われてもそのようにしか答えない。官僚システムって凄いですよね。彼らはそれを支えている一員として、役割を演じているだけ。人としての感情は出していけない。

――そんな官僚相手に原告団はずっと怒っている。官僚システムへの疑問と同時に、矢面に立たされた若手官僚に対する同情や、どうせ対話ができないのなら怒ってもしょうがないのでは、という気持ちも芽生えました。ちなみに、僕は『ゆきゆきて、神軍』(1987)の年に生まれたんですけど…

(苦笑いで頭を抱える)私が教えている大阪芸術大学の学生は「しょうがない」じゃなくて、怒るのは「おかしい」と言いますよ。もっとひどい。個人の責任という考え方を持っていますから。「先生たちはすぐ国の責任だって怒ってらっしゃる。それは間違っているんじゃないですか」と食ってかかってきます。

頭を抱える原監督

――とはいえ、対話ができない相手に怒っても何も生まれないのでは?

たとえば、国会のやりとりは対話になっていないじゃないですか。対話は民主主義の根本であるはずなのに、総理大臣を始め、まともに噛み合っていない。避けているから議論にならない。

議論にならないことが当たり前みたいになっていて、みんな諦めムードというか…。「逃げちゃいけない」と監視する人がどこにもいない。今は相当やばい時代ですよね。それでも、抑えきれない怒りが強大になったら、権力は倒せると私は信じたい。

――ですが、怒り続ける事にかなりマイナスイメージがついているように思います。実際、怒っても何も変わってこなかったのでは?

あえて逆と言いたい。怒りが足りないからです。中途半端だから抑えられるし、「怒りは間違っている」という論理に正当性があるかのように言われる。怒らないことの方が大事という言説は受け入れがたい。

歴史的に見て、日本人というのはずっと怒らないで来たという感じがする。韓国ですら、政権に対するデモで20万人が集まる(編注:当時の朴槿恵大統領の辞任を求めるデモのこと。たとえば、2016年11月26日は警察発表27万人、主催者発表130万人)。日本は桁が1つ少ない。

――対話がなく、怒りが足りないままだとしたら、どうなるのでしょうか?

民主主義的に考えると、現状を打破するには、怒りを持った人が結集しないといけない。でも、そういう人が少なくなっていくと、テロリズムに追い込まれていきますよね。少ない数で権力を倒そうとするわけですから。

でも、私は戦後民主主義生まれ(1945年生)。手間暇かかるんだけど、あくまでも民主的な方法をギリギリまで頑張ろうよ、という考え方は捨て切れない。もっともっと怒らないといけないと思っています。

――怒りの重要性は分かりますが、喜怒哀楽の中で一番難しい。映画では、勝訴が確定した後、謝罪した大臣に対して、原告たちが「感動した」と言うシーンもありました

権力を持っている人に優しくしてはいけない。むしろ憎悪しないといけないと思っているんですが、難しいです。これまで私が撮って来たのは「表現者」。今回の主人公は「生活者」。自分と自分の家族の幸せを守る人たちです。生活していると怒りを持続していくのは難しい。だからみんなで怒らないといけないんだけど、最近はマスコミも弱者の味方をしないでしょ…。

●裁判システムに閉じ込められた「司法村」 埋もれる原告の怒り、思い

(C)疾走プロダクション

――原監督は裁判のあり方にも怒りがあるそうで

「線引き」ってあるでしょ。あれが腑に落ちない。泉南訴訟では、家族被曝・近隣被曝の人たちは真っ先に除外されたし、勤めていた年によって認められない人もいた(編注:1958年5月26日~1971年4月28日までの労働者が認められた)。

結局、裁判所は国に忖度して、責任を最小限に留めているんじゃなかろうかと言いたくなります。水俣病でもそうでしたが、裁判所は原告の背後に多くの被害者がいる場合、国家の財政を非常に気にしますよね。

それを弁護団は画期的な判決であると、肯定的におっしゃいます。言いたい気持ちもわからないではないけど、線引きはおかしいということの方を声を大にして言って欲しい。

――弁護団にも怒りがあるということですか?

弁護士の原告団に対する尽くし方は、真似できないくらいすごいなぁと思いました。個人的には凄く大好き。ただ、私は弁護士を挑発したい。

映画では、厚労省前で抗議活動をしているとき、柚岡一禎さん(支援団体の代表)が「大臣と会わせろ」と中に乗り込もうとするシーンがある。弁護団が「日本は法治国家だから」と言って止めるんです。

本当に法治なら良いよ。だけど、法治そのものを破っているのは、国の方じゃんと言いたくなるじゃないですか。そこに欺瞞性を感じる。

私の感覚としては、こんな法治が守られない日本国は最低だと思っているのに、本気で言ってるのかって。裁判のシステムに疑問を感じないのかっていう悔しさがあります。

――裁判の仕組みの中で勝つには、そのシステムに最適化する必要があるようにも思えます

柚岡さんは裁判システムに閉じ込められた「司法村」と表現していました。柚岡さんは言うんです。弁護団は勝つための戦術を考えて、勝つためにこういう言い方をしてくださいと原告に指示するでしょう。苦しくてつらくて――。そうした方が裁判官の胸を打つ。今回、原告団は自分の役割を限定して、その通りに演じた。

でも、アスベストには被害だけでない側面もある。当時、アスベスト工場で働くのに、学歴も経験もいらなかった。それで家族を養っていくことができた。仕事に誇りも持っていた。でも、裁判の中で「誇り」は言えない。自己表現の場として考えると、裁判の歪さが見える。

――裁判システムの中、演じることに精一杯で原告本来の思いが埋もれてしまっているのではないか、と

どうすれば良いかはデリケートで難しい問題ですが、そこに弁護団との考えの断絶があるんです。「原が『弁護士のご意見お待ちしてます』と言ってた」って書いておいてくださいよ。

(弁護士ドットコムニュース)

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