地下鉄サリン事件から30年。私は、あの日まさにサリンの撒かれた車両に乗り合わせ、生死のはざまで命拾いした一人だ。事件後、報道のあり方や支援団体の構造、そして社会の「忘却」と向き合いながら生きてきた。
この文章は、私が体験したこと、そこから考えてきたことを社会の記憶として残すために書いたものである。今、私は「記憶すること」そのものを問い直しながら、被害者の声を未来に「紡ぐ」プロジェクトを始めようとしている。(映画監督・作家、さかはらあつし)
●命拾いした日、報道が映した資本主義
事実を事実として共有しなければ、社会は変わらない。その思いから、私は筆を執った。
30年前の3月20日、私は地下鉄サリン事件に遭遇した。サリンが撒かれた車両に乗り合わせ、ビニール袋近くにいた私は、被曝した直後に奇跡的にシャワーを浴びてから聖路加国際病院に向かった。通路のベンチに体を横たえ、生理食塩水の点滴を受けながら、言葉にできない頭痛と油汗に苦しんだ。
当時、私は広告代理店に勤め、「資本主義の潤滑油」としての自負もあった。しかし、病院で目にした報道陣の姿は強烈な印象だった。「今にも死にそうな被害者」と「元気に興奮気味に語る被害者」どちらかにだけ注がれる視線。
報道は、センセーショナルな絵に飢えた資本主義の延長線にあった。この瞬間、ジャーナリズムすらこの枠組みから自由でないことを実感した。
この出来事がすべての理由ではないが、私はすぐに会社を辞めて渡米した。
●『アンダーグラウンド』に見た「語り」の否定
1997年、ニュージャージーの日系デパートにある書店で、村上春樹のインタビュー集『アンダーグラウンド』を手にした。被害者として読んでも良質なノンフィクションだったが、「はじめに」の中にある一文に胸を突かれた。
「『自分から進んで語りたい』という人が現れるのはもちろん有り難いのだが、そのような積極的インタビュイーのパーセンテージが増えることで、本ぜんたいの印象が少し変わってくるかもしれない。それよりは、筆者(村上)としては無作為抽出的なバランスを重視したかった」
この村上春樹の言葉は、被害者が自ら語ることへの警戒、あるいは否定に読めた。言うまでもなく世界的な作家で、『アンダーグラウンド』は、その中でも珍しいノンフィクションだが、国外でこの一文は知られていない。
というのも、1998年に発表された加害者側へのインタビュー集『約束された場所-Underground2』と英語化において合本され『Underground』として出版された際、「はじめに」がまるごと書き換えられてしまったからだ。
2001年、私がプロデューサーとして参加した短編映画が、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した。2004年には、地下鉄サリン事件被害者の会への入会を希望したが、「あまり活動していない」と断られた。
その後、縁あって、リカバリーサポートセンターという被害者の検診を主な活動とするNPOに入会し、理事もつとめたが、科学的根拠に基づかない言説を聞かされたり、被曝被害者の声を社会に届けてその役立てようという姿勢がなく、数年で離れた。
2014年にはドキュメンタリー映画『AGANAI:地下鉄サリン事件と私』の制作を開始。2019年、地下鉄サリン事件被害者の会と一心同体のように動くオウム真理教犯罪被害者支援機構に接触したが、「いつからか、一切、新規入会は認めてこなかった」という回答が返ってきた。
「どうして?」。国内外を問わず、この事実を聞いた人は例外なく尋ねるが、本当のところは私にもわからない。関係者から「気心の知れたみなさんで会合をすすめている間に団体の意向としてそのようになったのではないかと推察しております」という説明を受けた。
©2020 AGANAI 地下鉄サリン事件と私
●閉ざされた被害者支援、3つの組織の力学
地下鉄サリン事件被害者の会の関係者としてメディアに出てくる人は遺族ばかりである。そして、オウム真理教犯罪被害者支援機構とリカバリーサポートセンターと合わせて3つの組織がそれぞれ異なる役割を果たしつつ、閉じた世界を作っているように見える。
私の見立てだと、サリン事件の被害者救済は、オウム真理教犯罪被害者支援機構がオウム真理教と政府への交渉窓口となり、遺族で構成される地下鉄サリン事件被害者の会が、マスコミ対応を担っている。
リカバリーサポートセンターは、被曝被害者の検診団体となったが、それは意見が外に出ない被曝被害者がため息を反芻し合う収容所のような役割をしていたように思う。この三頭立ての体制が機能してくれれば良かったのだが、お世辞にもそうはなっていない。
地下鉄サリン事件被害者の会は事件を遺族の視点でしか語らないだけでなく、警察庁に公開されている唯一の連絡先のメールアドレスは機能せず、連絡すると弾き返されてくる。
地下鉄サリン事件の30周年の今年、遺族の代表は多くのマスコミの取材を受けて露出があったが外界からの問い合わせに答える用意はなく、本来の機能である被害者の情報を吸い上げるという仕事は放棄しているようだった。その姿はマスコミとの関係が「インサイダー化」しているようにも見えた。
オウム真理教犯罪被害者支援機構のオウム真理教との交渉も、終結の予感がまったくない。
リカバリーサポートセンターの被害者の捕捉率も、お世辞にも高いとは言えない。私が「サリン被害者の会」を組織し、科学的根拠に基づかない彼らのやり方について社会的共有を始めると、地下鉄サリン事件30周年目で解散を宣言した。
●情報が封じられる社会、沈黙を強いられる被害者
センセーショナリズムに基づく資本主義的な構造のためなのか、民主主義の構造的失敗に陥っているからか、それとも被曝被害者の現状がわからないためかはわからないが、この現状をマスコミ関係者はわかっていても伝えない。
法案を通した政治家や官僚たちは失敗を認めたくはないし、サリンの被害者たちは思い出すことさえ苦痛で、思い出したとしてもマスコミに都合の良いように切り取られ、編集され飯の種にされるだけである。
そんな非建設的なことにPTSDで手足を痺れさせてまで協力する被曝被害者はいない。厳しい現実の中にいる人ほどそうであろう。
マスコミの報道は遺族と耳目を集めやすい事件と教団と残党一味について重点を起き、「見えない傷」を抱える被害者については申し訳程度しか伝えていないように見える。マスコミ各社は簡単な指標を作り一つの事件の報じ方が多角的かつ適切なバランスでおこなわれたかの検証をしたほうが良い。
SNS上で情報の拡散力が強くなる中、「マスコミは本当のことを伝えているのだろうか?」という疑問を持つ人が増えてきた。サリン事件について私の経験を言わせてもらうなら、「マスコミは本当のことをすべては伝えていない」。
私は何度となく記者会見を開き、公共性の強いオウム犯罪被害者支援機構を中心とする被害者団体の運営に関して意見を述べてきたが、踏み込んで報道してくれるマスコミは皆無だった。
「彼らがその件に関して取材を受けてくれないので報道できない」という説明を報道関係者から聞いたことがあるのだが、オウム真理教被害者支援機構や地下鉄サリン事件被害者の会は多数の記者会見を開いている。その記者会見で何人の記者がこの問題について質問したのだろうか。どうして質問しないのだろうか。
一方で、ドイツ紙『ディ・ヴェルト』が大きく取り上げ、ニッポンドットコムは私が寄稿した私の来歴を五カ国語で配信してくれた。弁護士ドットコムでは、この問題に関する考察と「化学兵器被害者救済の五原則」についての寄稿の機会も得た。
マスコミはこの問題に踏み込んだところはなかった。今年は多くの関係者から取材依頼がきたが「私の出すコメントを正確に紹介してくれるのなら」と条件をつけると、どこも尻込みした。
しかし、私はサービス精神旺盛で取材のときに頑張ってしまい後遺症の辛さがうまく伝わらないので「後遺症はどうですか?」というお決まりのマスコミの質問には一切答えず、救済の仕組みなどについてのみ答えることにする良いきっかけになった。
サリン事件後、渡米してカリフォルニア大学で経営管理の修士号を取得し、現在は非常勤ながら大阪公立大学経済学部と大学院で授業を担当するぐらいには経済学と経営学に関する専門性があるのだが、これは情報に関する救いようのない社会的ミスマネジメントである。
正確な情報、正確な事実の把握なしにどのようにして、サリン被害者の救済策を構築できるというのか。まるで目隠しで自動車を運転し、目的地まで安全にたどり着こうとする行為に等しい。
●「紡ぐ」プロジェクト、被害者の声を未来へ
地下鉄サリン事件30周年において、遺族がマスコミに露出し「オウム真理教は悪い」と説いていた。
たしかにオウムの残党は今も存在するのだから意味のあることなのだろうが、将来起こりうる類似事件を考えると、もう少し本質に着目し、この社会的な失敗をこの事件だけの問題と止めず昇華すべきだという思いを禁じえない。
そういう思いを持ちながら、どうすれば議論のベースとなりうるサリン被害者に関する情報に関する情報インフラを形成することができるのだろうかと模索し始めた。
だから、私は「紡ぐ」(Tsumugu:Tsumugu: Threads of Memory from the Sarin Gas Attacks)という新たなプロジェクトを始めようとしている。AIの力を借りて、被害者の証言を共通の形式で記録し、英語化して世界と共有する。匿名でも構わない。家族の寄稿でもよい。
透明性はプロンプトの公開で担保する。本人確認もしない。信憑性の判断は読者に委ねる。サリン被害者の現実を共有する「ベース」として、記録し直す営みである。これがすべての始まりとなるはずである。
このベースをもとに政治や行政に携わる人たちが考えてくれればと思う。おそらくこれが最後のチャンスになるだろう。AI時代の新しい民主主義と社会的情報共有のあり方になれば、私はうれしい。私の苦しみが「意味」に昇華されるからだ。
このプロジェクトを進めるにあたって、かつては新聞記者になることも考えた友人で、社会と統計データの関係について経済学史的研究をしている大阪公立大学・塩谷昌史教授にアドバイザーとして入っていただくことになった。
今年11月25日の化学兵器禁止機関(OPCW)の関連イベントに参加し、「化学兵器被害者救済の五原則」を発表したいと思っている。
そこまでにできるだけ多くの証言を英語化し、世界と共有したい。それによって、不幸にも失敗に落ち込んだサリン被害者救済の見直しが始まるのではないかと期待している。
●被害者の現実を理解しているのか自問する
ここまで書いて、ふとジョージ・オーウェルの「豚」になっているのではないかと自問した。
オーウェルの「豚」とは、『動物農場』に出てくる豚のことだ。動物たちが人間の農場主に反乱を起こして、動物による動物のための農場を作るが、革命を主導した豚たちが権力を握るにつれ、彼ら自身がかつての人間と同じように腐敗し、他の動物を支配するようになるという物語である。
私は支配の構造を批判しながら、いつの間にか、自分がその構造をなぞっていたのではないかと思ったからだ。この文章の中で、村上春樹やサリン事件の関連諸団体、そしてマスコミを取り上げたが、私自身、被害者の現実を理解しているのだろうか。
実は、直接的に経験している後遺症だけで、他の被害者の状況がどのようなもので、何を望んでいるのかも知らないのだ。他の被害者は私のように文章を書くことが苦手かもしれない。私にできることは、丁寧に話を聞いて、誠実に記録することくらいかもしれない。
だから、私は「紡ぐ」を動かす前に、まず、松本サリン事件の被害者の方に素直な気持ちでご挨拶をさせていただこうと考えている。繰り返しになるが、私はまだ何も知らない。すべてはそこから始めなければならない。
<松本のサリン被害者の皆様、今年も献花にうかがいますのでご挨拶させていただけましたら幸いです。連絡先はサリン被害者の会まで。さかはらあつし>
【著者略歴】阪原淳(さかはら・あつし) サリン被害者の会代表、起業家、作家、映画監督、大学教員。京都大学経済学部卒、カリフォルニア大学バークレー校にて経営管理修士(MBA)、宇都宮大学よりAIのアプリケーションに関する研究で博士号(工学)を取得、プロデューサーの一人として参加した短編映画が2001年にカンヌ映画祭でパルムドール賞受賞、初長編監督作品のドキュメンタリー映画、「AGANAI:地下鉄サリン事件と私」(オンライン配信中)はEDIFにてグランプリを受賞。