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「もう死にたいっすよ」 気仙沼から突然かかってきた電話のワケ #知り続ける
津波被害が大きかった気仙沼市街(2011年4月2日撮影)

「もう死にたいっすよ」 気仙沼から突然かかってきた電話のワケ #知り続ける

「聞いてくださいよ。もう死にたいっすよ」。2023年の正月、東日本大震災の被災地で暮らす男性(40代)から突然の電話があった。聞けば、死にたいという直接の原因は、家族とのトラブルだという。

男性とは2012年夏、取材していた仮設住宅で出会った。当時から心休まることがない、落ち着かない生活が続いていた男性に詳しく聞くため、震災から12年を迎える今年3月、宮城県気仙沼市に向かった(ライター・渋井哲也)。

●大晦日に母親と大げんかしていた

津波に流された大型漁船(2011年4月20日) 津波に流された大型漁船(2011年4月20日)

「もう死ぬかと思いましたよ」。数年ぶりに会った彼は、少し痩せたように見える。

「きっかけは、お袋との大げんかです。大晦日に(自営業をしている)事務所の掃除をしていたときなんです。何をどこに置くのか、という話で揉めました。

そのとき、ちょっとイラついたお袋は、事務所の壁をバンバンと叩いたんです。半分ボケてるのか、しつこいんですよ。『もう言わないで』という意味で、バンバンと叩いたんです」

壁を叩くことでさらに怒りが増したのか、母親は事務所の現金と通帳を持って、姿を消した。

「警察に連絡したところ、すぐに見つかりました。しかし、居場所は言いたくないということで、いまはどこにいるのかわかりません。

ただ、最終的には、お金と通帳は戻ってきました。たぶん、警察に言われたんだと思います。『このままだと窃盗になる』とか、なんとか」

お金が戻り、一件落着のように見えるが・・・。

「お袋が事務所にお金を戻したのは1月10日ごろです。それまで手持ちの現金がなく、電子マネーの設定もしていなかったので、大晦日からそれまで、ほとんど食べずに過ごしました。

渋井さんに電話したのは、そんなときですよ。家に食糧はなかったので、寝て過ごすのが一番でした。ジュースだけはたくさん買ってあったので、飲んで、寝ていました。でもお腹空くじゃないですか。

そのあとクレジットカードを見つけたので、コンビニで食べ物を買って、食いつないでいました」

●何度も「死んで楽になりたい」と思った

現在の気仙沼港(2023年3月4日 現在の気仙沼港(2023年3月4日)

しかも事業は、必ずしもうまくいっているとは言えない状況だという。もちろん新型コロナ感染拡大の影響もある。

「津波で、事務所も家もまるごと流されました。国から助成金がもらえると言っても、復旧のためにかかる費用が100%出るわけではありません。借金して、事業を再開するしかなかった。しばらくは調子よかったですが、そんなときにコロナですよ。

東京の友人の中には、『こっちにこいよ』と声をかけてくれる人もいました。しかし、父親が亡くなり、事業所の社長になっていたので『潰しちゃいけない』と思ったんです。

それに母親とはけんかしましたが、それまで見捨てられなかったんです。いまさら、田舎育ちの母親が東京で暮らせるとは思えませんでしたから。その意味では、私なりの意地があったんです」

見捨てられないと思った母親とのけんかは、必死にもがいてきた男性の心を襲った。

「母親とは電話がつながらなくなったので、こっちは不安で仕方がなかったですよ。これまでも、震災後に『死にたい』と思うことは何度もありましたが、そのたびに踏ん張ってきました。

今回も精神をやられました。仕事がうまくいかず、コロナでさらに商売が難しくなり、そして家族のゴタゴタ。こんな状況では、何のために生きているのかわからないじゃないですか。心の中では、何度も『死んで楽になりたい』と思いましたよ」

●仮設住宅は「オナラ」に気を遣う生活だった

筆者は、仮設住宅での生活についても取材してきた。しかし、この男性の部屋は奇妙で、壁にダンボールを張っていたのだ。

「仮設住宅の暮らしはホント地獄でしたよ。隣の音が聞こえるんです。プライバシーなんてないんですよ。たとえば、オナラをするじゃないですか。生理現象だから仕方ないと思うんです。しかし、隣に聞こえてしまうんです。

すると、オナラの音に反応する『やだぁ』という娘さんの声が聞こえてきました。それから、親御さんの『こら』と注意も聞こえました。『ああ、やべえ、オナラ聞こえたなんだ』と思いましたよ」

仮設住宅の壁が薄いために、隣の家の会話が聞こえるという話はよく聞いた。そのため、お金の話はしないという話も聞いたことがある。この男性の場合、オナラまで気を遣い、防音措置まで講じていたのだ。

●「お袋はもう当てにできません」

期限ギリギリまで仮設住宅で暮らしたが、現在は借家で1人暮らしだ。部屋は複数あるものの、気力がわかず、最低限の整理整頓しかしていない。「渋井さん、部屋を片付けたら、泊まりに来てくださいよ」と言うものの、実際に使えるスペースもせまい。

震災で両親は無事だったが、父親は5年ほど前に大動脈解離で亡くなった。70代だった。

「平均寿命よりも、ちょっと早かったですね。かわいそうでした。私は別の棟でしたが、仮設住宅に6年もいたんですよ。そのあとアパートを借りることができたんですが、70歳過ぎて、母親と一緒とはいえ、アパート暮らしは大変だったと思います」

都市部の目線から考えれば、老夫婦のアパート暮らしは特に珍しくない。しかし、震災前は広い家に住んでいた夫婦が、仮設住宅を経て、狭いアパートで暮らすのは、生活を一変する出来事だった。

一方、男性は18歳から大学に入って以来、両親と離れて一人暮らしを続けていた。そのため、両親の生活ぶりは知らない。一緒に暮らしたくない理由に、子どものころ、母親に虐待されていたことがある。

中学入学のころになると、体力がついて虐待から逃れることができたが、こうした関係性が震災後にも影響したのだろう。

「(経理を担当していた)お袋はもう当てにできません。しかし、人を雇う余裕もありません。経理の仕事は、自分でするしかないですよ」

言葉からは、震災以降もつづく苦しさの一端がにじみ出ていた。

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