長年、難民・入管問題に取り組み、2024年は代理人をつとめた外国人1人を難民認定、2人を在留特別許可へと導いた大川秀史弁護士。
外国人支援を受任する過程で、国内では経験できない難民支援に携わりたいと考え、2012年には外務省の平和構築人材育成事業に参加し、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の保護官補として、1年間、コソボ共和国に在留した。その後も、仕事の傍ら世界をめぐり、これまで訪れた国は96カ国にのぼる。
現在も外国人支援団体と連携しながら、彼・彼女らが弁護士にアクセスできるように"指定相談場所開拓運動"を続けつつ、政治家への陳情にも力を注ぐ。
依頼人に結果を届けることを最優先し、現場を奔走したこの20年間、外国の人たちの問題解決に向けて、どのような取り組みをしてきたのか。大川弁護士に聞いた。(取材・文/塚田恭子)
●弁護士登録から約10年続いた「模索の日々」
父親は主に刑事事件を扱う弁護士、母親は高校の英語教師。家でも、裁判や事件が普通に話題になる。そんな家庭環境で育った。
「免田事件、財田川事件、松山事件で再審無罪の判決が出たのが、物心つく頃で、そこから興味を持ったというか、(弁護士を目指す)バックボーンはあったと思います」
法学部入学、卒業の年の司法試験合格と進み、25歳で弁護士登録して、札幌弁護士会に所属した。だが、弁護士になって10年ほどの自身についてこう振り返る。
「若くして司法試験に合格した人は、仕事は堅実だけど、やや地味な人が多い気がします。弁護士会の同期で一番若く、弁護団でも年少者の仕事は雑務が主になるからか、リーダーシップが身につきにくいんです。
私自身も得意技は机に向かうことで、地道に調べものをすることや、長い書面をきちんと書くことは上手でしたが、それだけで訴訟に勝てるわけではなく、消化不良を起こしていました」
南カリフォルニア大学ロースクールに留学したのは、弁護士になって6年後の2004年。卒業後はフランス語と韓国語を身につけようと、フランス、スイス、韓国に渡った。現在の主業務の一つ、外国人支援には、2006年の帰国を機に携わるようになった。
「帰国後、在日ビルマ人難民申請弁護団(*1)の渡邉彰悟弁護士やJFCネットワーク(*2)の近藤博徳弁護士にご指導いただいたのが、外国人支援の始まりです。
最初、東京の城北エリアに集住していたミャンマー(ビルマ)のカチン族の家族の依頼を引き受けると、『まだ多くの同胞が入管に収容されているんです』と相談されて。そこから依頼が続きました」
こうしたつながりから、他のカチン族の人たちの依頼を受けてきた大川弁護士は、ミャンマー視察を計画する。だが、2007年の反政府デモ「サフラン革命」で中止せざるを得なくなった。
「落胆していたところ、ミャンマー国内の政治状況を鑑みて、ミャンマーの人の仮放免はどんどん出ましたね。私も5人分の保証金を持って入管に出かけたり、その後も数人の仮放免が続きました」
日本では、民主化運動のリーダーが難民認定されたとしても、デモの先頭に立っていたその他大勢の人たちはなかなか認められない傾向があるという。
「建付けとしてはそうなのでしょうが、それぞれが思いを持って民主化運動をしているのに、リーダーか否かで難民性の高低を線引きするのはどうなのか、と。当時はよく『組織のトップも末端の人も同じ扱いをするのが民主主義ではないですか』と入管にうったえていました」
大川弁護士の事務所の扉。プレートは4カ国語で貼ってある
●難民発生地での緊急支援に携わるため「コソボ」へ
留学から帰国後、2008年に独立して事務所を構えた。以降、入管に足しげく通うと同時に、人脈を広げるための活動を始めた。
「関東弁護士会連合会(関弁連)で、私が外国人の人権救済委員会の委員長を嘱託された当時は、関弁連の13の弁護士会でも5つしか、外国人支援のための委員がなく、日本各地の弁護士会に足を運び、委員会の設置をお願いして回りました。日本中ですごい勢いで外国人が増えていた時期で、みなさん、よく応じてくださいました」
ミャンマーの人たちから始まった支援は、アジア、アフリカ諸国などの人たちにも広がった。実務を重ねる中で、日本では経験を積みにくい難民の発生地での緊急支援に携わりたいと考え、外務省の平和構築人材育成事業に応募。UNHCRの保護官補として、2012年にコソボ共和国に赴任する。
「そもそも住民登録という概念のないロマの人たち。紛争で故郷を追われた国内避難民。西欧諸国に向かう途中、コソボで摘発されて、本意ではないもののコソボで難民申請をすることになった外国人。難民のデパートの国で、法律家として何ができるか、いろいろ考えました」
コソボでは、緊急支援や無国籍者への支援に携わりつつ、EU指令についても学んだ。
「EUから加盟国に対して、法整備に向けて出されるのがEU指令です。たとえば難民認定について設けるべき制度や、送還・収容についてのガイドライン、滞在する外国人の就労などについて、EUが出している指令をいろいろ勉強しました」
1年間の任期のあとも、セルビア、フィリピン、ミャンマーで難民移民の救援活動に従事。帰国後は「牛久(東日本入国管理センター)に通いやすいから」と、東京・日暮里で弁護士業務を再開したが、EU指令にならって進めたのが、日本在留を希望する被収容者全員に弁護士をつけることだった。
今では、弁護士が入管に「送還予定時期の通知希望申出書」を出すことは当たり前になっているが、当時は事前通知の制度もなく、誰も知らないうちに被収容者が強制送還されることも多かったという。長期収容、不十分な医療、インタビューでの暴言などの訴えも相次いでいた。
「適正な手続きをおこなうため、希望する被収容者全員に弁護士をつけようと、まずは関弁連の弁護士に働きかけました。それまで弁護士がついている被収容者は1割ほどでしたが、1年で8割に引き上がるという劇的な変化に、入管は当初、困惑されたようです」
退去強制令書が出ている約100人を担当した大川弁護士に対しては、弁護士の間でも賛否が分かれたほか、反対の立場の新聞記者に事務所に押しかけられたりしたという。
「100人となるとほぼ入管専従ですよね。週5日のうち1日は牛久、3日は品川に終日いる状況でした。仮放免が多く出るようになったのは、弁護士がついたことも一因だったと思います」
カメルーン人、イラン人、スリランカ人。2014年は入管収容施設内で3人が命を落としている。適正手続きの必要性を感じ、大川弁護士が行動を起こした背景には、こうした状況があった。
●外国人が弁護士にアクセスできるように支援団体と連携
難民申請者の弁護士へのアクセス改善と前後して、大川弁護士が進めたのが、外国人支援団体との連携だ。
「最初につながったのは『牛久入管収容問題を考える会』(牛久の会)の田中喜美子さん、『北関東医療相談会』(AMIGOS)の長澤正隆さんです。AMIGOSは北関東各地で医療相談会を開催しているので、各県の弁護士会の協力を得て、その会場で法律相談を受けています。『みんなのおうち』の小林普子さんの下では、毎月、外国ルーツの小中学生に対してボランティアで国語や算数などを教えながら、国籍や家事の法律問題にも対応していました」
加えて「大塚マスジド・日本イスラーム文化センター」と「在日クルド人と共に」でも、大川弁護士は月に一度の法律相談会を実施している。また、日本司法支援センター(法テラス)の指定相談場所に登録された難民支援協会(JAR)では、関弁連の仲間とともに、難民申請者の法律相談を受けている。
「関弁連には、法律相談を受けるためにどんどん出張っていこうという弁護士が多く、外国人支援委員会がとても活発です。私は『指定相談場所開拓運動』と称していますが、全国各地に新たな法律相談場所ができればと思っています」
法律相談場所の開拓と同時に、大川弁護士が「死ぬまで続けます」と話すのが、個人通報制度の研究だ。
個人通報制度とは、国際人権条約で保障されている人権を侵害された個人が条約機関におこなう申し立てで、申し立てをされた委員会は、条約違反の有無について審理し、見解を示す。
条約解釈に関する先例法としての価値を持つ見解は、入管と裁判で闘うための武器になる。そう考えている大川弁護士は、毎晩1件ずつ海外の個人通報を勉強し、弁護士仲間にメーリングリストで送付。その成果として2023年12月『国際人権個人通報150選』を編著している。
「『国際人権個人通報150選』では、8つの条約機関に通報されたケースから、我々が使えそうなものを選んでいます。個人通報は難民・入管分野が中心なので、私たちが勉強したことを、他の分野の弁護士にも提供していきたいと思っています」
●法改正のために始めた「国会議員への陳情」
もう一つ、外国人の在留資格をめぐる状況の改善に向けて、大川弁護士が数年前から取り組んでいるのが、与党議員への陳情だ。
SNSなどでは極端な言論が取り上げられがちだが、国会議員と秘書を合わせて30人ほどに面会した大川弁護士は、子どもの在留資格と被収容者の医療問題については、与党議員と自分たちの意見はそう違わないという。
「2021年、1回目の入管法改定審議中に野田聖子議員から、日本生まれ、または幼少期に来日した子どもたち約300人が、在留資格がないために苦しんでいることを伝えられた際、菅首相(当時)は驚いていたそうです。
『みなさん、もっと早く私たちのところに来てほしかった』『弁護士会はもっと陳情力をつけないとだめですよ』。陳情に行った与党議員さんたちからは、そんなことを言われています」
与党に陳情することについて、弁護士の間でもさまざまな意見があることも知りつつ、よりよい法案の実現に向けて、自分一人でも陳情は続けるという。
「依頼者が求めているのは具体的な成果です。一家そろってビザがなければ生活は成り立ちません。私たちの願いがなかなか実現しない一つの理由が、私たち自身が与党にほとんど陳情しようとしないことにあるのではないでしょうか。
難民性についての考え方には、意見の相違もあるでしょう。ただ、子どもの在留資格と医療は、生きるうえで不可欠な権利です。そこについて、敵・味方はないと思うので、今後も与党への陳情は続けます」
当事者にとって何が必要かを考えれば、野党だけでなく、与党も巻き込まなければいけない。だから難民申請者の法律相談に加え、議員への陳情にも力を入れる。
弁護士になった当初の得意技は机に向かうことで、その努力が正しいことだとも思っていた。だが、依頼人が弁護士に求める"生きるための知恵"は机上の勉強だけでは得られず、その状況を打開するため、外の世界に足を運び、人脈の拡大に努めた。
「人脈とアイディアと現場での行動。一般化するならそういうことで、世間はみんなそうやって生きています。法曹界だけが、椅子に座ってお客さんを待っていればいいはずはないですよね」
海外とのやりとり、通訳・翻訳など、入管関連の仕事は労が多い。2024年に在留特別許可を得たミャンマー人は、17年前、初めて代理人・仮放免の保証人をつとめた人のひとりだった。在留資格は、結果が出るまで膨大な時間がかかる。
だが、いろいろな国の人たちの話を聞くことは学びも多く、彼・彼女らに一定の成果を届けるこの仕事にやりがいを感じているという。
「個人通報の勉強は訴訟でたたかう武器になります。勉強したことを仲間と共有するためにも、今後も人脈づくりは続けていきます」
(*1)在日ビルマ人難民申請弁護団:軍事政権による独裁が続くビルマ(ミャンマー)本国からの迫害を逃れて来日した人々のために行政手続きの支援や訴訟をおこなう弁護団 http://www.jlnr.jp/burmalawyers/index.html
(*2)JFCネットワーク:日本人とフィリピン人の間に生まれながら、親の認知を得られていない子どもたちを支援するNPO。 https://www.jfcnet.org/