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日本で16年暮らした元「難民」がミャンマー総選挙に出馬! 現地密着レポート(上)
選挙区の支援者を前に、演説を行うモー・ミン・ウーさん

日本で16年暮らした元「難民」がミャンマー総選挙に出馬! 現地密着レポート(上)

11月8日に実施されたミャンマーの総選挙で、歴史的な政権交代が実現した。半世紀にわたり、軍事政権やその流れをくむ政党の統治が続いてきた同国で、民主化運動のシンボルであるアウン・サン・スー・チーさんの率いる野党・国民民主連盟(NLD)が大勝し、世界中から注目を集めている。

あまり知られていないが、この東南アジアの国の選挙に、日本と深い関わりを持つ一人の男性が出馬していた。1992年に在日ミャンマー人の政治難民「第1号」として認定され、16年間にわたり日本で暮らした経験を持つモー・ミン・ウーさん(40)だ。今回の選挙では、NLDと異なる小さな新興政党から出馬し、「民主化の先にあるもの」を訴え続けた。

日本での経験を生かしながら母国の発展に貢献しようとするモーさんに現地で密着し、彼の選挙戦を追いかけた。(文・写真/岸田浩和

●「トイレのない村」で選挙運動

犬の鼻のように突き出た旧式のボンネットトラックが、けたたましいエンジン音を響かせながら、土煙を上げて坂道をのぼってくる。荷台に載せたスピーカーからは、東南アジア特有の鉄琴の音が耳に響く伝統音楽が、爆音で流れ出す。その音楽に合わせて、トラックの荷台に立つ人々が沿道に向かって手を振る。荷台の側面では、赤地に龍の絵を描いた「農民発展党」の党旗が何本もなびいている。これが、ミャンマー式の選挙カーだという。

荷台の真ん中で手を振っていたのは、モー・ミン・ウーさん、40歳。3年前に誕生した農民発展党から出馬し、国会議員を目指している。「ミャンマー人でも、うちの党名を知っている人はほとんどいません」。そう口にするモーさんは、多民族の連携と、人口の7割を占める農民の生活向上から経済を押し上げることをスローガンに掲げる政党だと聞き、「これからのミャンマーに一番必要な考え方はこれだ」と直感し、参加を決めた。

2015年の総選挙に立候補することを決めると、今年の5月には家族と暮らしていたヤンゴンを一人離れ、500キロほど北西に離れたマグウェ管区に移住。山間部にある人口6万人の町、セドウタヤに拠点を移した。

日本とヤンゴンでの暮らしが長かったモーさんにとって、セドウタヤでの暮らしはカルチャーショックの連続だった。山間部に住む農民の家には電気が来ておらず、いまだにオイルランプと薪で暮らしている。「トイレを借りようとしたら、地面に掘った穴を指さされ、豚を追い払う棒を渡されたんですよ。あれには参りました、もう慣れましたけど」と、笑いながら教えてくれた。

●日本の「農協」のような組織をミャンマーに作る

モーさんが、セドウタヤを自分の選挙区に選んだのは、ミャンマーの「農民の現状」がここにあったからだ。ミャンマーでは、政府が行う農民向けの融資を利用して、苗や肥料を購入する小規模農家が多い。だが、返済期限が短いため、作物を換金するまえに期限が来てしまい、返済に右往左往することがよくあるという。

こうした問題に対して、モーさんが所属する農民発展党は、農民のライフサイクルにあった融資の仕組みや、高くて手が出ない農機をレンタルする仕組みを作り、日本の農協のように収穫物を安定して買い上げる組織を整備するなどして、農民たちを支援しようと考えている。

セドウタヤの周囲には100以上の村々が点在している。その半数は、いまだに徒歩やボートでしかアクセスできない状況にある。こうした村は、毎年雨期になると、土砂崩れや増水で外からの補給が途絶え、孤立してしまう。また、村で収穫した作物を都市部で販売したくても、それを可能にするインフラが確立されていない。

さらに、近くに新しい発電所ができたにもかかわらず、セドウタヤと周辺の村には一切送電されていない。発電所の建設や雇用にも、地元住民はほとんど関わることができないため、住民は不満を抱えている。

こうした問題を解決するため、具体的に政府に働きかけていくのが、モウさんさんの掲げた公約だ。そして、日本での暮らしで得た経験をもとに、日本の優れた仕組みや慣習をミャンマー式にアレンジして取り入れることを目指している。「外から見たミャンマーという視点を持って、考えることができるのが自分の強みだ」とモーさんは話す。

●手作りの「紙芝居」で選挙の仕組みを説明

ミャンマーの選挙運動は「お祭り」のようだ。

集会では演説の合間に歌手やコメディアンが登場して、場を盛り上げる。娯楽の少ない田舎では、こうした余興を楽しみにして集まってくる人々も多い。「これが、この国の選挙の戦い方なんですよ。特に田舎では、農作業で忙しい村の人たちに、仕事の手を止めて話を聞いてもらうことが何よりも大切なんです」と、説明してくれた。

モーさんは、数人の選挙スタッフとともに一つ一つの村を訪れ、集会を開いた。選挙の仕組みや投票の仕方を手作りの紙芝居で説明し、自分たちが行いたい政策を訴え、「農民発展党のモー・ミン・ウーに一票を投じてほしい」と呼びかけていく。

だが、モーさんの選挙区でも、アウン・サン・スー・チーさんが率いるNLDの人気は絶大だ。長く続いた軍事政権下の閉塞感と厳しい生活を打開するため、「とにかく、政権が変われば希望が見える」と考える人が多いのだという。NLDが今の政権を倒してくれたら、収入が増え生活が楽になるかもしれない。そんな期待感がNLDの人気につながっていると、モーさんは話す。

実際、セドウタヤのNLD候補者は、具体的な政策や自らの名前は告げずに、「民主主義を勝ち取って、自由を手に入れよう!その先に、希望がある!」と叫び、「どうか、アウン・サン・スー・チーに、一票を!」と訴え、支持を集めていた。

知名度も選挙資金もわずかなモーさんは、ひたすら村に足を運んで対話する作戦をとった。集まった村人に、目の前にある課題と具体的な解決案をあげ、「NLDの候補者と、自分のどちらがセドウタヤのために役に立つのか考えてほしい」と訴え、NLD人気の切り崩しに挑んだ。

●民主的な「政権交代」はミャンマー国民の悲願

かつてミャンマー(当時ビルマ)は、コメの一大輸出国として知られ、「東南アジア一豊かな国」と呼ばれていた。しかし、1960年代に発足した軍事政権が「ビルマ式社会主義」を推し進めた結果、経済が急速に悪化し、80年代後半には「最貧国」に転落した。

そんななか、1988年に民衆の不満が爆発。学生を中心とした民主化運動が全国に広がり、軍事政権の議長を辞任に追い込んだ。このとき、民主化運動の象徴として登場したが、アウン・サン・スー・チーさんだった。

しかし、直後の軍事クーデターで再び実権を握った軍部の将校らが、武力を用いて民主化運動を鎮圧。翌年には、スー・チーさんの自宅軟禁がはじまった。1990年に行われた総選挙では、NLDが圧勝したが、軍事政権が選挙結果を拒否して、民主化勢力への弾圧をさらに強めた。

それから約20年後の2011年、ようやく民政移管が行われたが、その後も、軍部の強い影響下にある与党政権の統治が続いてきた。民主的で公平な選挙の実施と政権交代は、国民の悲願となっていたのだ。

一方、モー・ミン・ウーさんは1975年、ミャンマーの首都ヤンゴン(当時)で、3人兄弟の長男として生まれた。一家は貿易会社を営んでおり、母のミャ・ミャ・ウィンさんは海外の取引先へ出かけることも多かった。1988年、モーさんが12歳のころ、たまたま夏休み中だった彼を連れて、母が日本へやって来たことで、モーさんの人生が大きく変わる。

(注:国名の表記については、団体名などの固有名詞以外、現在の国名「ミャンマー」に記載を統一しました)

※下に続く:モーさんが「政治難民」になった理由とは・・・

(弁護士ドットコムニュース)

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