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日本で16年暮らした元「難民」がミャンマー総選挙に出馬! 現地密着レポート(下)
小さな船に乗って、遊説先の村に向かうモー・ミン・ウーさん(中央の男性)

日本で16年暮らした元「難民」がミャンマー総選挙に出馬! 現地密着レポート(下)

11月8日に投票が行われた総選挙により、歴史的な政権交代が実現したミャンマー。民主化運動のシンボルであるアウン・サン・スー・チーさんが率いる国民民主連盟(NLD)の躍進に注目が集まったが、その陰で、「政治難民」として日本に長く暮らした経験をもつミャンマー人男性、モー・ミン・ウーさん(40)も選挙を戦っていた。新興政党から出馬したモーさんに現地で密着し、その熱い選挙戦を追いかけた。(文・写真/岸田浩和

※日本で16年暮らした元「難民」がミャンマー総選挙に出馬! 現地密着レポート(上)

●ミャンマー人の「政治難民」第1号として日本で生活

1988年の夏。モーさん親子が日本に滞在している間に、ミャンマーで学生による民主化デモが勃発し、軍や警察との衝突で多数の死者が出る事態となった。

母ミャ・ミャ・ウィンさんは日本滞在を延長しながら、帰国のタイミングを探った。その一方で、衝突で亡くなった学生たちの慰霊祭を計画して、在日ミャンマー人へ呼びかけを行った。慰霊祭には予想以上に多くの在日ミャンマー人が集まり、ミャンマーの民主化を支援する「在日ビルマ人協会」へと発展した。

こうして、モーさんの母ミャ・ミャ・ウィンさんは、在日ミャンマー人による「民主化運動」のリーダー的存在となった。だが、この行動がきっかけで、モーさん親子はミャンマー大使館からパスポートを剥奪されてしまったのだ。「ミャンマーへ帰れなくなってしまった」と泣き崩れる母を前に、モーさん自身も、どうやって生きていけば良いのか分からず、しばらくは何も考えることができなくなったという。

その後、モーさん親子は、知りあいの在日ミャンマー人を頼って、岐阜のアパートに移り住み、アルバイトで生活費をまかないながら、難民申請の受理を待った。

「岐阜は寒かったですよ。雪なんて見たことがなかったのに、当時はお金がなくて灯油が買えなかったから、冬でも暖房が使えず、毛布にくるまって生活していました」。そう語るモーさんは、「苦しかったけど、これ以上の底がないと考えると、気が楽になりました」と振り返る。

1992年にモーさん親子は、日本で初めてのミャンマー人「政治難民」として認定を受けた。母が伊豆の民宿で仕事をするようになったのがきっかけで静岡県に移住。モーさんも地元の中学校に入学し、大学卒業までの16年間を日本で過ごした。

●30歳を前にして、再び母国ミャンマーへ

2004年、30歳を目前にしていたモーさんに転機が訪れる。

当時の軍事政権幹部から、「対立する少数民族との融和を進めたいので、力を貸してほしい」という呼びかけがあり、帰国のチャンスが巡ってきたのだ。それまで「反政府」の立場で民主化運動を行ってきたモーさん親子が、政府の呼びかけに応じて帰国を選んだことに対して、周囲の仲間からは大きな反発もあった。なかには「政府に寝返ったあんたとは、もう二度と付き合わない」と、厳しい言葉を投げかけられたりもした。

当時の選択について、モーさんは「母も私も、政府と闘うことが最終目的ではなく、国民の生活が良くなり笑顔が戻ることを目指して、運動に参加していました。当時の政権が融和政策に本気で取り組もうとする姿勢が感じられたので、帰国を選んだのです」と語る。「今でも、あのときの判断は間違っていなかったという信念があります」

ミャンマーに帰国した後は、俳優として民族間の融和をテーマにした映画に出演したり、紛争地域に換金作物の八角を植えて雇用の安定から平和を目指すNGOに参加するなど、精力的な活動をしてきた。しかし、時間が経つにつれて、当初の目的に立ち返ろうという思いが強くなり、政治家の道を志すようになったという。

●「これまで力を貸してくれてありがとう」

そして迎えた、2015年の総選挙。投票日翌日の11月9日、セドウタヤにある農民発展党の事務所には、朝早くから、モーさんの支援者や選挙スタッフが続々と集まってきた。「モーさんはまだ来ないのか?」。近くの村に住む支援者の一人が、事務所のスタッフにたずねている。「今日は、一日休もう思っていた」というモーさんだが、この様子を耳にして、慌てて事務所にやってきた。

事務所の入り口にやって来たモーさんは、集まった人々の熱気に驚いた表情を浮かべる。そして、大きく息を吸い込むと、意を決したように「みんな、これまで力を貸してくれてありがとう!」と大きな声でねぎらいの言葉を掛けた。

支援者らが顔を上げ、モーさんの周りにワッと集まってくる。モーさんは嬉しそうな表情で1人1人の顔を見渡し、「力及ばず、本当に申し訳なかった。」と、深く頭を下げた。

頭を上げたモーさんは、「まだ正式な結果は出ていないが、NLD候補者の得票数が少し上回っている。逆転は難しいようだ。すまない」と口にした。

すると、支援者の一人が、真剣な表情でモーさんの腕をつかんだ。「あんたがしてくれた、セドウタヤを良くしようという話は、どうなるんだ。俺は、あんたの話が正しいと思ったから、これまでついてきたんだよ」と迫る。不安げな表情を浮かべていた女性スタッフが「次の選挙にも、セドウタヤから出てくれるんでしょ?」と、後ろからかぶせてくる。

モーさんは、彼らの気勢に負けないように、まあまあと両手を前に出して、「もう一回体勢を立て直して、出直してくるから、そのときは、一緒にがんばってほしい」と答え、その場をおさめた。

モーさんは、選挙戦を振り返り、たった一言「悔しいけど、嬉しくもある」と答えた。自らが新しい政府の国会議員として加われなかったのは悔しいが、NLDに政権交代するという大きな変化を国民が選択し、実現に向かって進んでいることに安堵したのだ。

●民主主義はゴールではなく、政治参加のための切符

モーさんは、民主主義とは何かを次のようにたとえた。

「賢者が1人と愚か者が2人集まったとき、多数決で愚か者の考えが通ってしまうのが、民主主義の恐ろしいところです。ミャンマー国民の多くが、民主主義さえ手に入れば自由になり、幸せがやってくると信じていますが、それは幻想に過ぎません。民主主義はゴールではなく、政治に参加するための切符のようなものなんです」

モーさんは、小さな声で「今回の選挙を戦うために、財産をすべて使い果たしてしまいました。実は、今朝まで、次の選挙に出るのはあきらめようと思っていたんですが、支援者の声を聞いて考えが変わりました」と打ち明けてくれた。

「少し疲れたので、家族とゆっくり過ごしたいですね」というモウさんだが、「しばらくしたら、体勢を立て直して、またがんばりますよ」と笑顔を見せる。

「軍人と一部の政治家にまかせて物事が進んできたのが、今までのミャンマーです。これからは、国民が国の舵取りに意思を表示できるのです。判断を誤れば、自らにしっぺ返しが返ってくるのが民主主義。自由には、責任が伴います。だから、みんなと一緒に考えていけるように、僕は具体的な話をする政治家になって、この町から国を変えていきたいと思っています」

そう口にしたモーさんは、力強い足取りで事務所を後にした。

取材/文 岸田浩和、Chan Thar Kyi Soe

(注:国名の表記については、団体名などの固有名詞以外、現在の国名「ミャンマー」に記載を統一しました)

※上に戻る:ミャンマーの祭りのような選挙戦とは・・・

(弁護士ドットコムニュース)

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