オウム真理教による「地下鉄サリン事件」から30年を迎えるにあたり、被害者で映画監督のさかはらあつし(阪原淳)さんが代表をつとめる『サリン被害者の会』が3月19日、「化学兵器被害者救済の五原則」を発表した。
地下鉄サリン事件では、猛毒の化学兵器「サリン」がまかれて、乗客・駅員など13人が亡くなり(のちにもう1人死亡)、6000人あまりが負傷した。
さかはらさんはその日、地下鉄に乗り合わせ、至近距離で被爆した。現在も重い後遺症に悩まされている。
しかし、被害者の苦悩が伝わっておらず、国の支援も不十分だとして、満身創痍ながらもたたかいを続けている。30年の節目として、さかはらさんに寄稿してもらった。
●「オウム真理教誕生」の社会的深層
私は広告代理店勤務時代にサリンガスのまかれた地下鉄に乗り合わせ、一歩間違えば液体の入ったビニール袋を踏みそうになるほどの至近で被曝し、被害者となった。今も体が疲れやすく、手足のしびれなどの後遺症を患っている。
これまでに、オウム真理教の元広報部長・上祐浩史との対談本『地下鉄サリン事件20年 被害者の僕が話を聞きます』を上梓したほか、アレフ(旧オウム真理教)の広報部長・荒木浩と対話の旅に出るドキュメンタリー映画『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』を制作、公開した。
こうしたサリン事件関連の活動は、私にできる範囲で、事件の後片付けを360度全方位でやってみようという思いであった。
オウム真理教に関する書籍では、村上春樹が被害者にインタビューした『アンダーグラウンド』、オウム信者にインタビューした『約束された場所で(underground2)』が知られている。どちらも優れた著作だと思う。被害者本人がそう言うのだから間違いない。
『約束された場所で』の信者インタビューには、広報として、荒木浩が同行している。
実は、『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』でカメラを回す前に、何人ものアレフの出家信者に私はインタビューしているが、そのときも荒木浩は同行している。
インタビューが終わったころに「村上春樹さんはどんな感じでしたか?」と尋ねてみたら「作家って感じでしたよ」と荒木浩は笑った。
「作家って感じでしたよ」の真意をたしかめることはなかったが、私の遠慮なく根掘り葉掘り聞く「デリカシーのなさ」を言ったのだと理解した。「デリカシーのなさ」ゆえに『約束された場所で』に勝るとも劣らない傑作インタビュー集が生まれると感じ、それを出版したかったが、許諾をもらえずあきらめた。
そのような経験を踏まえて、あえて言わせてもらうなら、驚くべきことに彼らは決して異常な人々ではなく、むしろ純粋で真面目な人たちであったことだ。
では、なぜ彼らはカルトという「思考停止状態」にはまり込んでしまったのか。
それは彼らが「正解を求める人たち」だったからではないか、と思う。
現代社会には、複雑で、答えのない問題があふれている。その中で「手っ取り早く正解を得たい」という渇望が強くなればなるほど、人は思考を放棄しやすくなる。そうすれば葛藤が減り楽だからだ。これはカルトに限らず、極端な思想や陰謀論が広がる背景にも共通している。
そして、これはオウム真理教の問題にとどまらない。日本社会はもともと、"お手本"に基づいた教育を重視し、効率的な学習モデルを築いてきた。
しかし、時代の変化が求める創造性を十分に育む仕組みを持たないまま、従来の学習モデルを維持し続けたことで、日本経済は停滞した。つまり、オウム真理教の問題と日本の30年間の経済的停滞は同根なのではないかと思う。
そのような深層のうえに個人の悩みがあり、ふとした隙にカルトのマインドコントールという魔の手が及んだのではないだろうか。
●サリン被曝被害者支援の失敗
NHKは最近[「地下鉄サリン事件 PTSDや後遺症 30年になる今も…【NHK分析】」」(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250307/k10014742761000.html)という記事を打った。
この記事は「今も後遺症がある」ということを言いたいのだろうが、実はこの記事より実情は厳しいのではないかと思う。
私は、記事に出てくる眼科医・若倉雅登先生に診断書を書いていただいた。
その若倉先生は「サリンの後遺症の治療は初めてのことで、教科書にも書かれていないし、文献もない。初期の症状が治っても、後から別の症状が起きたり、軽い症状が残ったりすることはあまり医師が研究しておらず、弱点だった。30年もあれば対応法や治療法などが開発されていた可能性もあるのに、チャンスを逃した」とコメントしている。
サリンは、猛毒で、製造の疑いがあるだけで空爆もやむなしというのが、世界の常識である。オウム真理教のやったことは犯罪ではなく、『内戦』である。
本来ならば、サリン事件の被害者は"戦争の被害者"として、国が全面的に支援すべきである。
しかし、日本は被害者救済のあり方を交通事故扱いにし、「オウム真理教、もしくは後継団体に払ってもらいなさい」と判断し、払わない彼らに部分的ながら代わって国が給付金を出した。
これも前例のない未曾有の事件、かつて軍国主義体制下でさまざまな経験をした国の手探りの中での対策だった。
弁護士の仕事の多くは、利害を「こんなもの」と調整する。つまり、「こんなもの」という「落とし所」、「正解」のある考え方をする仕事である。
一方、被害者の支援には、遺族と被曝被害者の二種類がある。遺族の支援は、社会のほかの事件や事故の遺族支援の事例があり、おおむねの「正解」が存在するが、被曝被害者の支援に「正解」はない。
多くのマスコミ関係者は「サリン事件」と呼び、私も倣ってそう呼んでいるが、実はそれは間違いである。使用された溶剤にも強い毒性があり、私たちの後遺症はサリンではなく、こちらの溶剤によるものかもしれないからだ。
地下鉄サリン事件30周年を迎えようとする中、つい最近、ほかの被曝被害者の記事を読んで「私が疲れるのは、心が緊張すると筋肉が硬直気味になるからではないか」と気付いた。
このような日常こそが、地下鉄サリン事件被曝被害者の現実である。「正解」などなく、毎日煩悶(はんもん)しながら、人知れず「見えない傷」を抱えて生きているのだ。
被曝被害者の救済は、弁護士たちによる「オウム真理教犯罪被害者支援機構」と、遺族が代表世話人をする「地下鉄サリン事件被害者の会」が被害者を代表する立場で中心的役割をになった。
一方、新規入会を一切認めない「被害者の会」と協力的な関係にあるというNPO法人「リカバリー・サポート・センター」(RSC)は被曝被害者を集めて健診する一方で、「政府には働きかけない」という方針を宣言し「被曝被害者同士がお互いのため息を反芻しあう」だけの空間になった。
最も重要な社会的情報の共有機能を損なったことが、被曝被害者支援の失敗を招いた原因だと思う。運営上の理由があったのだろうと理解しているが、これも「正解」のない中、手探りで頑張った結果なのだろう。
私は2021年に既存の枠組みとは離れて「サリン被害者の会」を設立して、活動を始めた。映画『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』を教育用に上映し、その利益の半分を使って、今も苦しむ被曝被害者の支援を準備している。
不十分なことは承知しているが、被曝被害者の支援の見直しを政府に検討してもらうためには、多くの被曝被害者の参加が必要で、嫌なことを思い出させることになるかも知れないのだから、何かしら私にできることをしようとのことで大意はない。会の運営も自由である。
こういう活動をしていると、OPCW(化学兵器禁止機関)という国際機関の関連イベントの担当者から話を聞きたいと連絡があり、オンラインでのインタビューを受けた。
そして、私たち「見えない傷」を抱える化学兵器被害者救済の「五原則」を策定し、地下鉄サリン事件30周年目の前日の今日3月19日、発表することにした。
私の視点で見た既存団体の失敗の経緯を記述したが、非難が目的ではない。「正解のない時代」のルールは至ってシンプルだ。間違えれば、それを認め、やり直せばいいだけなのだから。
化学兵器被害者救済の五原則
【プロフィール】阪原淳(さかはら・あつし)
1966年、京都府生まれ。京都大学経済学部卒業後に電通に入社。1995年3月20日、地下鉄サリン事件に遭遇し被害者となり、後遺症を患う。事件後、電通を退社。1996年渡米し、2000年、カリフォルニア大学バークレー校でMBA取得。2001年に大学院時代にプロデューサーとして参加した短編映画「おはぎ」がパルムドール受賞、2021年3月20日、初監督ドキュメンタリー『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』を発表。作家、映画監督、大学教員、教え子のスタートアップに参加、サリン被害者の会代表を2021年よりつとめる。『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』はオンライン試聴可能。