1973年11月、熊本市中心部の百貨店「大洋デパート」で発生した大規模火災。犠牲者は104人にのぼり、デパート火災史上、最悪の惨事とされる。
翌年に提起された遺族らによる損害賠償を求める集団訴訟。証人尋問の録音記録、現場写真など詳細な裁判記録が残されており、弁護団事務局次長を務めた同市の松本津紀雄弁護士(82)が保管してきた。
火災から半世紀余りが過ぎ、後世にこの火災の教訓を残してもらおうと、このほど熊本学園大学に寄贈した。とりわけ証人尋問の録音テープ36本は、現場で救助活動に当たった消防士らの生々しい証言もあり、火災当時の緊迫感を今に伝えている。(ジャーナリスト・内田秀夫)
●約37億円の損害賠償請求
火災発生は11月29日の午後1時過ぎ。大洋デパートは熊本有数の百貨店で、開催中の物産展目当ての客らでにぎわっていた。
火元とされる2~3階の階段付近からまたたくまに燃え広がり、店内防火設備の管理不備や避難誘導がなされなかったこと、物産展の装飾のため窓がベニヤ板でふさがれていたことなどが重なり被害が拡大。
地下1階、地上9階の建屋がほぼ全焼し、約8時間後に鎮火した。犠牲者の多くは避難できず煙に巻かれたことで命を落とし、約半数は従業員ら店舗関係者だった。
火災現場から約1キロ南の白川沿いに建つ「殉難之碑」。背面には犠牲者名が刻まれている=熊本市中央区
火災直後に結成された遺族会と百貨店側の自主交渉が決裂し、1974年5月、犠牲者のうち82人の遺族239人が原告となり、百貨店を運営する「株式会社太洋」と同社社長を被告に総額約37億円の損害賠償請求が提起された。
弁護団は17人(のち19人に)。事務局次長に選ばれた松本弁護士は、犠牲者の戸籍や相続人の確認など、膨大な事前作業に追われた。「弁護士として他の案件を引き受ける余裕もなく、収入も乏しかったがやるしかなかった」と振り返る。
埼玉県越谷市出身の松本弁護士は、早稲田大学法学部を卒業した翌年、司法試験に合格し、1970年、東京・銀座の事務所で弁護士活動をスタート。3年目の1972年、水俣病訴訟原告弁護団への参加打診を受け熊本に移った。
「水俣病訴訟がひと段落したら埼玉に戻ろう」というつもりで始まった熊本での生活。しかし、未曽有の大火災によってその計画は大きく軌道修正されることになった。
●遺族の意見陳述に裁判長は涙ぐみ…
提訴後、証拠保全のための現場検証にも立ち会った。
「ベニヤ板で窓がふさがれていて外からの光は入らず真っ暗。煙が充満する中、これでは逃げることもできなかっただろうと感じました。壁の一部には爪でひっかいたような傷がありました。逃げ場を失った被害者がもがき苦しんだのでしょう」
検証後、外に出ると煤で鼻が真っ黒になっていたという。
裁判で会社側は「放火の可能性もある」などとして責任を回避する姿勢を取った。
証人尋問は双方で計20人に及び、書面に書き起こしていては裁判の進行が遅れてしまうことため、原告側から録音を申し立て認められた。
松本弁護士が寄贈した証人尋問の録音テープなど裁判資料=熊本市中央区の熊本学園大付属図書館
松本弁護士は「素早い救済を裁判長も後押ししてくれた」と語る。「あとから聞いたのですが、第1回の口頭弁論で遺族の意見陳述を聞いた裁判長は涙ぐまれていたそうです。真相はわかりませんが、迅速な進行につながったのかもしれません」。
消防隊員の証言では、わが子を抱きしめたまま亡くなっていた母親や、他の客を救おうとベニヤ板を破ろうと試み、自らは亡くなった男性の様子などが語られ、法廷内の人たちの心を打ったという。
同年12月、裁判長の職権で和解が勧告され、翌年3月、犠牲者一人当たり2300万を支払うなどの内容で和解が成立した。
●遺族への損害賠償が宙に浮き、遺族から責められる
しかし、被害者救済の枠組みが確定した7か月後、「株式会社太洋」が会社更生法を申し立てた。会社更生法では被害者救済についての規定はなく、和解による遺族への損害賠償が宙に浮く形となってしまった。
「遺族への説明会では、相当責められました。『(和解は)紙同然になった。どうしてくれるんだ』と。弁護団の中では私が最後まで会場に残ったので、矢面に立ち辛かったのを覚えています」
それでも、金融機関や行政、他の債権者などと粘り強く交渉を重ねた結果、1979年の更生計画認可時には、遺族補償は事実上の優先債権として認められた。1981年4月に遺族への最後の支払いが完了。火災から7年4か月が経過していた。
松本弁護士ら弁護団にとっては民法と会社更生法のはざまに立ち、法律間の壁に向き合う期間となった。多方面との調整、交渉に追われ「アルコールもずいぶん増えました」と苦笑いする。
「実は和解成立直前に被告側弁護士は全員が辞任していました。更生法申し立てを見越してのことだったと思います。責任回避で率直にひどいなと思いましたよ。正々堂々としてほしかった」と、50年以上経った今も、厳しい表情を浮かべる。
●松本弁護士自身も160人が亡くなった大事故で被害
大洋デパート火災訴訟や水俣病訴訟に携わる間、松本弁護士の心情を支えていたのは、大学入学直後に巻き込まれた1962年の三河島列車事故の経験だ。
常磐線三河島駅(東京都荒川区)構内での列車の多重衝突により160人が死亡した大事故で、松本弁護士も頭蓋骨を骨折。2カ月間の入院を余儀なくされた。
「一回死んだのだからって思っています。実際に死んでいてもおかしくなかった。苦しい交渉をやり遂げられたのは、あの事故で亡くなった160人が後押ししてくれたのかもしれませんね」
●事件当時は赤ちゃんだった女性が防災士に
2024年12月には、資料の寄贈を機に熊本学園大学で「裁判資料による記憶の継承」と題したシンポジウムがあり、松本弁護士も演台に立った。
「訴訟時に赤ちゃんだった長男から、『お父さんも大変だったんだね』と言ってもらいました。ちょっとうれしかったですよ。当時は家庭を顧みる余裕もなかったですから」とほほ笑む。
また、火災で救助された当時赤ちゃんだった女性からは、防災士の資格を取ったと報告を受けた。「火災に遭った、かわいそうだで終わるのではなく、そこから社会にどう生かしていくかを考えられてのことだと思います。すごいことですよね」
大洋デパート火災を機に、消防法が改正され、大規模商業施設へのスプリンクラーや排煙設備の設置が義務付けられた。また、防火管理体制の重要性も社会全体に認識されるようになった。しかし、松本弁護士は大洋デパート火災の教訓が生かされていないと感じることも多いという。
「その後に発生したホテルやビル火災、クリニックなどへの放火でも、避難誘導がうまくできず被害が拡大した例が多い。訓練も関係者や専門家に限ったものではなく、実際の利用者が参加する必要があるのではないか」と指摘する。
「大規模地震時の火災対応も課題だと考えています。どうやって人命を救うかについて考えていくべきでしょう」
●「調書ではなく、肉声だからこそ伝わってくる迫力がある」
大洋デパートの跡地に建つ大型商業施設=熊本市中央区
大洋デパートの建屋は2014年まで商業施設として利用され解体。近隣も含めた跡地には大型商業施設が新たに建つ。火災があったことを示すものは見当たらない。約1キロ南の白川沿いに「殉難之碑」があり、犠牲者の名前が刻まれている。
「年齢を重ねてきて、資料を基にきちんと説明ができるうちに引き継ぎたいという思いがありました」と松本弁護士。
熊本学園大に寄贈された資料は、同大付属図書館で保管され、オンラインでの公開など活用方法が検討されている
「証人尋問が録音されるケースはまれです。調書ではなく、肉声だからこそ伝わってくる迫力があります。研究者や司法関係者にとっては貴重な資料だと思っていますし、どうしてこの火災が起きてしまったのかを考えることで、さまざまな教訓を今も示してくれています」と資料の意義を語る。
資料から何を読み取り、何を伝えていくか。キャビネットいっぱいに収められた半世紀前の資料は、後世へ教訓を残す役割をあらためて担うことになる。