日本初の女性弁護士、三淵嘉子(みぶち・よしこ)さんをモデルとしたNHK連続テレビ小説『虎に翼』。ドラマのストーリー以外にも、主人公を演じる伊藤沙莉さんが着用する「法服」に注目が集まる。牧野弁護士による『月刊弁護士ドットコム』の連載コラム(2020年2月号、現在は季刊)から抜粋し、当時の文化・風俗をお伝えしたい。
●当時、法服は違和感をもって受け入れられた
明治時代に制定された「法服」ですが、当時は裁判官のみならず、検事や弁護士も着用していたことはすでにご紹介しました。しかし、明治維新により一気に洋装化が進んだ当時では、新たに導入された法服は極めて奇妙なものに見えたようです。
裁判所構成法が施行された明治23(1890)年、勅令で判事、検事、書記官の制服(法服)と帽(法冠)が制定されました。そして、「弁護士」という職業が明治26(1893)年の旧旧弁護士法の施行により誕生すると、それに伴って司法省令第4号で弁護士も職服・職帽が定められました。
これにより、判事、検事、弁護士の三者は法廷で法服・法冠を着用することになったのです。法服については、弁護士が白線で唐草が刺繍されていたのに対し、判事は紫色、検事は赤色で(皇室の紋章とされる)桐花が刺繍されていました。裁判官の紫は、僧侶の紫衣など高貴な者が身に着ける色であることから尊厳を、検察官の赤は赤誠(偽りのない心)を、弁護士の白は潔白をあらわしていたそうです(この3色は、現在の司法修習生のバッジの色にも採用されています)。
法服が制定された明治23年当時の司法大臣は山田顕義で、松下村塾の門下生で日本大学の前身である日本法律学校の創立者としても知られます。明治18(1885)年12月に内閣制度が発足してから第1次伊藤博文内閣で初代司法大臣に就任し、民法・商法・民事訴訟法、裁判所構成法などの立法に携わりました。
そんな山田大臣は、諸外国では法服を用いて法廷の威厳を添えているため、わが国でもこれに倣おうということで、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の黒川真頼教授に法服の考案を依頼したのです(※1)。
ところが、どういう風の吹き回しか「西洋凝りの新法典実施の場合」であるから法服は「寧ろ我国古代の服制」に依ろうという話になり、なぜか「聖徳太子の着用せし如き」奈良調のデザインが採用されました(※2)。
この法服を採用するにあたっては、司法省内では「閻魔大王の尊貌を現じて威厳を保つには至極妙なるべし」「余の如き容貌の不景気なるものは或は三河万歳と間違はるゝの恐れあり。余り法廷を茶化す様に見えて悪かるべし」といったように、違和感をもって受け入れられたようです(明治23年10月10日付朝日新聞)。
●東京美術学校の制服も同じ教授のデザインだった
奇妙にも思われた当時の法服ですが、実は、この法服のデザインは、当時の東京美術学校の制服に似ています。それもそのはず、東京美術学校の制服も、やはり黒川真頼教授がデザインしたもの。
ちなみに、東京美術学校の制服を着た黒川教授は、法服の制定から間もないころに東京地方裁判所から参考人として呼出しを受けて法廷に赴いたところ、判事と間違えた廷吏に判事席に案内されて着席し、入廷した判事に注意を受けたというエピソードまであります(※3)。奇跡の「黒川デザイン」のバッティングといったところでしょうか。
「黒川デザイン」の東京美術学校の制服もえらく不評で、明治29年に東京美術学校の西洋画科が新設されると形骸化し、明治31(1898)年には正式に廃止されました。にもかかわらず、「黒川デザイン」の法服のほうは、その後約半世紀にわたって法廷で着用され続けたのです。
なお、判事・検事の法服は、弁護士と同様、自弁だったようです。弁護士の法服が制定された当時、11円くらい(現在でいえば20万円前後)が弁護士が買う法服の標準的な価格だったと言われていますので、判事・検事にとっても法服にかかる費用がそれなりの負担であったと予想されます。
戦後、最高裁判所が発足すると、昭和24(1949)年の最高裁判所規則で、現在裁判官が着用している法服が制定され、法冠の着用も廃止されました。現在の法服は、はとバス社章、富士銀行マーク、防衛庁自衛官階級章などをデザインしたことで知られる東京美術学校の高田正二郎教授がデザインしたものと言われます(※4)。懲りずに東京美術学校の教授にデザインを依頼してしまうところが危うい感じもしますが、今度は、私たちが良く目にする、簡素なガウン姿となったのです。
※1:法学セミナ175号三淵乾太郎「法服について」
※2:明治23年10月7日付東京新報
※3:刑部芳則「洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新」
※4:前掲法学セミナー「法服について」
※このコラムでは明治・大正時代のことばを適宜現代語に読みやすく変えていますが、必ずしも正確でないことをあらかじめご了承ください。