神戸連続児童殺傷事件の加害者の男性(32)による手記「絶歌」が6月10日に発売されて以後、出版の是非を問う声が、多数あがっている。19日には、兵庫県明石市が二次的被害の防止を定めた「明石市犯罪被害者支援条例」に基づき、市内の書店や市民に対し「配慮」を要請すると発表した。販売と購入の自粛を求める意向を示したとみられる。
その2日前には、タレントのデヴィ夫人が声をあげた。自身のブログ(「デヴィの独り言 独断と偏見」)で、「『元少年A』の手記、『絶歌』出版差し止めを!」と題した記事を投稿したのだ。
記事の中で、デヴィ夫人は「無邪気な子供を恐怖に陥れ、無残に殺害し、その上さらされたお子さんのご家族を無視した、とんでもない身勝手な行動。私は、『お前は、一生苦しんでおれ!』と言いたい」と書く。
もし、事件とは関係のない第三者であるデヴィ夫人や出版に反対する人たちが、出版社に対して「出版差し止め請求」をおこなった場合、認められるのだろうか? 佃克彦弁護士にきいた。
●裁判所はどう判断するか?
「結論から言うと、事件とは関係のない第三者が出版差し止め請求をしても、裁判所には認められません」
佃弁護士はそう指摘する。なぜだろうか?
「これは司法制度そのものの持つ限界です。世の中にはさまざまな紛争がありますが、そのすべてに裁判所が乗り出すことは必ずしも適切ではなく、司法権の及ぶ範囲には限界があるというのが、定説です。
その限界は『さまざまな紛争のうち、裁判所が乗り出す領域にどこで線を引くのが民主国家として適切か』という観点から考察されます。
民主国家では、自分のことを自分で決めるのが原則です。そのため、線引きとしては『裁判は、権利義務関係を争う本人同士でやるべきだ。本人でない人が自分の権利利益に関係のないことで訴えても、裁判所は原則として乗り出す必要はない』とするのが妥当だとされており、現在の日本の司法制度もそれを前提にしています」
今回のようなケースでは「本人同士で裁判をやるべき」と判断されるのだろうか。
「出版によって傷つくご本人が自分の権利利益を主張して訴えるのであれば、裁判所は紛争解決に乗り出します。しかし、傷つく本人でない人が訴えても、裁判所は乗り出さない、という形で線引きがなされます。
事件とは関係のない『第三者』であるデヴィ夫人やそのほかの出版に反対する人たちが、亡くなった方や遺族の方のために裁判を起こしても、裁判所はそもそも審理に乗り出してくれないのです」
●第三者が「私自身の心が傷ついた」と主張できるか?
ネット上では「不買運動」を呼びかける人も少なくない。こうした反対する人たちが、「出版差し止め請求」以外に、裁判所へ訴えることはできないのだろうか。
「第三者の人が、『いや、私は、遺族や亡くなった方の権利を主張しているのではないのだ。今回の出版によって私自身の心が傷ついたのだ』と主張して裁判を起こすことは考えられることです。
たとえば『私は亡くなった方に対して厚い敬愛追慕の情を持っている。今回の出版によって、私のこの情が侵害された』として出版差し止めを求めるような場合です。
この場合、第三者の人であっても、自分の権利利益の侵害を主張しているため、裁判所は審理に乗り出すでしょう。しかし、亡くなった方の親類縁者が原告とならない限り、実際に敬愛追慕の情の侵害があったと認められる可能性は少なく、出版差し止めは実現しないと思われます」