俳優の尾碕真花(おさき・いちか)さんの退所騒動が波紋を広げている。
尾碕さんは、デビュー以来所属した芸能事務所「オスカープロモーション」を退所すると発表。「犯罪に該当し得る行為が確認された」「事務所との信頼関係は完全に失われ、修復は不可能」として契約解除を主張している。
これに対して、オスカー側は「専属マネジメント契約の解除に合意した事実もございません」と真っ向から反論。「犯罪に該当し得る行為」についても事実ではないと否定している。
双方の主張は大きく食い違っているが、そもそもタレントは契約期間中でも自由に退所できるのだろうか。芸能事件にくわしい佐藤大和弁護士に聞いた。
●会社員の退職とどう違うのか
──タレントの契約解除は、会社員の退職とはどう違うのでしょうか。
会社員は企業と労働契約(雇用契約)を結んでおり、労働基準法などによる保護を受けます。期間の定めのない雇用契約を結んでいる会社員であれば、法律上は2週間前に申し出れば、原則として退職することができます。退職したこと自体で損害賠償責任を問われることは通常ありません。
一方、タレントは多くの場合、事務所と雇用契約ではなく、個人事業主として契約を結んでいます。
もっとも、例外的に、事務所の強い指揮監督下に置かれている場合には、労働基準法上の「労働者」と認められる可能性もあります。実際に、アイドルグループ所属のアイドルについて労働者性を認めた裁判例(ファーストシンク事件)もあり、タレントの保護のあり方については議論が続いています。
──「専属マネジメント契約」は、どのような法的性質を持つのでしょうか。
この契約は「二層構造」になっていると考えています。
一般的には、タレントが芸能活動を円滑におこなうため、事務所にマネジメント業務を委託する「準委任契約」の中核部分があります。
一方、個々の芸能活動に関しては、事務所がマネジメント業務によって獲得した案件をタレントに再委託するという「個々の芸能活動の基本契約」の性質も持っています。
後者について、私は「フリーランス新法」が適用されるべきだと考えています(詳しくは『公正取引〜競争の法と政策〜』2025年4月号(NO.894)21頁の拙稿をご覧になってください)。
近年の裁判例でも、タレントに対する事務所の指揮監督命令がない場合には、「準委任契約に相当する事務の委託を中核的な内容に含み、当事者間の信頼関係を基礎とする契約」などと位置づけたうえで、契約解除について民法の委任契約に関する規定(651条)を適用する考え方が主流となっています。
●契約期間中でも「退所」は可能?
──契約期間中であっても契約を解除できるのでしょうか。双方の主張が食い違う場合、どのような点が争点になるのでしょうか。
近年の裁判所の考えを前提とすると、専属マネジメント契約は、高度な信頼関係を基礎とする準委任契約の性質を持つため、民法651条1項の適用または類推適用により、タレント側から原則としていつでも契約を解除すること(退所)が可能だと考えられます。
もっとも、会社員の退職と同じように、何ら責任を負うことなく契約を終了できるという意味ではありません。
たとえば、すでに決まっていた出演やイベントなどを正当な理由なく一方的に取りやめた結果、事務所や取引先に損害が発生した場合には、損害賠償責任を問われる可能性があります。
今回、尾碕さん側が「犯罪に該当し得る行為が確認された」と公表した背景には、事務所側に重大な帰責事由があり、信頼関係が破壊されたことを理由として、契約解除の正当性を主張する狙いがあるとみられます。
逆にいえば、その主張の前提となる事実が存在したのかどうかが、今後の大きな争点の一つになるでしょう。
仮にその主張について十分な事実的根拠が存在しないと判断された場合には、そのような主張を公でおこなったとして、名誉毀損などの法的責任が生じる可能性があります。
●「干される」は許されるのか
──今後どのような点に注目すべきでしょうか。
今後は、退所後の事務所側の対応も重要な論点になります。
かつて芸能界では、事務所を辞めたタレントが一定期間活動しにくくなる、いわゆる「干される」といった問題がたびたび指摘されてきました。
こうした状況を受けて、近年、公正取引委員会は「実態調査報告書」や「取引適正化に関する指針」(内閣官房と連名で策定)で、事務所が退所したタレントの活動を不当に制限する行為について、独占禁止法上の問題になる可能性があると指摘しています。
具体的には、取引先に対して「まだ契約関係が続いている」などと伝え、タレントの起用を見送らせる行為や、退所後も事務所のウェブサイトにプロフィールを掲載し続けることで、取引先に在籍中であると誤認させる行為などが問題視されています。
実際に、私が担当した裁判でも、そのような行為がタレントに対する妨害行為と認定された事例があります。
今回のケースでは双方が真っ向から対立しているため、今後、尾碕さんが独立や移籍を進める中で、事務所側が退所を認めない姿勢を取り続けた場合には、公取委の指針や近年の裁判所の判断との関係が注目されることになります。
もっとも、裁判などの法的紛争に発展すれば、時間的・経済的負担に加えて、双方のイメージにも大きなマイナスとなりえます。
その意味でも、今回の焦点は、尾碕さんが不当な活動妨害を受けることなく、円滑に芸能活動を再開できるかどうかにあるでしょう。
●投資回収と実演家の権利保護のバランス
──この他にポイントはあるでしょうか。
日本の芸能界は、タレントの発掘や育成、プロモーションなどに多額の資金や労力を投じて、タレントの価値を高めていく独自のシステムが発展してきました。
そのため、事務所側が一定期間の所属を期待し、投下したコストを回収したいと考えること自体は、ビジネスとしても、芸能界の健全な発展という観点からも十分合理性があります。
一方で、そのことを理由として、タレントの移籍や独立を不当に制限することは許されません。
タレントにとって活動の空白期間は、単なる収入減にとどまらず、人気や知名度の低下にも直結し、後から金銭で回復することが難しい致命的な損害をもたらす可能性があるからです。
事務所側には、タレントと対等な取引関係を築き、不当に拘束するのではなく、別の方法で持続可能なビジネスを考えることが求められています。
近年は、公正取引委員会の指針や裁判例を通じて、事務所側の正当な利益と、実演家の職業選択の自由とのバランスが重視されるようになっています。
今回の騒動は、単なる「退所トラブル」にとどまらず、先述のバランスをどのように図るべきかが改めて問われる事案といえるでしょう。