人手不足などもあいまって、企業の賃上げが多く報道されています。一方、ネットではそうしたニュースに対し、「固定残業代」を警戒する動きが定着しつつあります。
たとえば今年3月、セレクトショップなどを展開する「TOKYO BASE」の初任給10万円アップが大きく報じられると、SNSでは月額40万円の中に「固定残業代17万2000円(80時間分)」が含まれていることが指摘され、たくさん拡散されました。
会社四季報オンラインやWWD JAPANの記事によると、同社の谷正人CEOは意図について「深い意味はない」とコメント。残業時間については、「販売スタッフが10~20時間、本社スタッフも多い人で40時間」などと説明しており、80時間を前提にした制度ではないことを強調しています。
近年ではこのほか、サイバーエージェントの「初任給42万円」についても、月80時間分の固定残業代があることがクローズアップされ、「給料が話題になったときは内訳を確認する」というのが、ネットユーザーの「基本動作」になりつつあります。
しかし、働き方改革が言われるご時世に、有名企業が「分かりやすく」過労死レベルの残業を強いるものでしょうか。しかも、固定残業代をめぐっては、80時間分の設定が公序良俗に反するとして無効になった裁判例もあります。
労働問題にくわしい中村新弁護士は、「賞与や退職金などに影響を与えず、それなりの収入を保証するため」と分析します。一方で、仮に長時間残業させるつもりがないとしても、「45時間まで」にとどめたほうが無難だといいます。くわしく解説してもらいました。
●一定の金額を保障しつつ、残業代を抑制
高額の固定残業代を定めることのメリットは、一般的には時間外手当を抑制する点にあると言われています。
時間外手当算定の基礎となる賃金(基礎賃金)の主要部分をなすのは基本給なので、基本給を引き上げると残業代も高額になります。
そこで、長時間の時間外労働が予定されている業種では、基本給を低額に抑えた上で一定時間の残業代に相当する額を固定残業代として支給することにより、それなりの収入を保証しながら残業代を抑制するという方法が採られることがあります。
基本給のうち一定の額を固定残業代とする建付けがなされる(基本給のうち、明確に区分された固定残業代相当額を残業代算定の基礎賃金から除外する)ケースも見受けられます。
●基本給を上げると思わぬ高コストになる可能性
しかし最近は、優秀な新卒者を確保するための便法として固定残業代制が利用されるケースも見受けられます。
基本給自体を引き上げる方が手っ取り早いと思われるかもしれませんが、基本給を上げると、時間外手当のみならず、賞与や退職金の計算にも影響します。
また、既存の賃金テーブルそのものを見直さなければならなくなり、労務費の負担と労務管理上のコストが膨大なものになるおそれがあります。
そこで、必ずしも長時間の時間外労働が予定されているわけではない業種でも、基本給引き上げのデメリットを回避しつつ高額の初任給を提示するため、長時間の時間外手当相当額を固定残業代として給与に組み込むことが増えているようです。
●「無効判断」が出たら莫大な追加コスト
しかし、イクヌーザ事件判例(東京高裁平成30年10月4日。令和元年6月21日上告棄却により確定)は、基本給のうちの一定額を月額80時間分相当の時間外労働に対する割増賃金とする固定残業代の定めを、公序良俗に反し無効と判示しました。
厚労省が発表した認定基準によると、1カ月当たり80時間程度の時間外労働が継続することが脳血管疾患及び虚血性心疾患等の疾病を労働者に発症させるおそれがあることを、その理由としています。
長時間分の固定残業代の定めが無効ということになると、高額に上る固定残業代相当額が時間外手当算定の基礎賃金にそのまま組み込まれてしまうため、支払うべき残業代が非常に高額になります。
残業代を抑制するために採用した固定残業代制が、会社の経営を大きく圧迫するという皮肉な結果になりかねません。
●機械的に「80時間=無効」とは限らないが…
もっとも、イクヌーザ事件判例は、「実際には、長時間の時間外労働を恒常的に労働者に行わせること予定していたわけではないことを示す特段の事情が認められる場合」にはこのような長時間にわたる固定残業代の定めも有効と解される余地があるという含みも持たせています。
イクヌーザ事件の事例では、実際に80時間以上の時間外労働がなされた月が稼働月数の約半数に達していたため固定残業代の定めは無効とされましたが、実際に行わせている時間外労働はほとんど月80時間を大幅に下回っていることを立証できれば、本文にあるような初任給の定めも有効と解される可能性はあります。
しかし、80時間という過労死ラインに達する残業時間を基準とする定めそのものが公序良俗に反するという考え方も成り立ちうるところであり、労務管理に携わる弁護士としては、一定時間の残業について固定残業代制を採用するとしても、厚労省の基準で過労死ラインとはならないとされている45時間を上限とすることをお勧めしたく思います。