今年春に放送され、人気を集めた月9ドラマ「イチケイのカラス」(フジテレビ系)。裁判官や書記官たちが裁判所の内外で活躍するストーリーだったが、中でも竹野内豊が演じる異色の裁判官、入間みちおが法廷で法壇から降りるシーンは印象的だった。
そこで素朴な疑問がわいてきた。現在、どの地方の裁判所も似たような建築だ。裁判官が法壇に上がる構造は共通している。いったい、いつからこのスタイルになったのだろうか?(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)
●「白洲」と呼ばれた明治初期の法廷
江戸幕府下では、町奉行や勘定奉行などが裁判所のような役割を持っていたが、現在の裁判所制度とは大きくかけ離れていた。日本の裁判所制度が始まったのは、明治に入ってからだ。
各地で整備されていった裁判所だが、明治初期は既存の建物を転用するところが多かった。
たとえば、奈良市の興福寺一乗院門席の宸殿(しんでん)は、明治9(1876)年に「奈良区裁判所」に転用された。現在は唐招提寺に移築復元され、開山御影堂として、国宝「鑑真和上坐像」が安置されている。
『裁判所建築の歩み 明治・大正・昭和・平成』(司法協会・1995年)によると、明治初期は江戸時代からの身分制度が残っていたため、「被告人の身分によって法廷内の席は上段、中断、下段に分かれていた」という。しかし後年、この身分差も解消された。
また、被告人は、屋内ではなく直接、庭から法廷入りした。同書は、「この法廷構造は、江戸時代の白洲(しらす)の構造を想起させるもので、白洲の屋内化とみることもできる。事実、法廷について「白洲」「法庭」等の呼称が用いられていた、と説明している。
白洲の様子を描いた浮世絵「鯰の流しもの」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
●和風庁舎がスタンダード
やがて明治10年代になると、和風庁舎が新築されるようになり、このスタイルは各地で定着する。
当時建築された裁判所は、愛知県・博物館明治村に移築されている「宮津裁判所」(明治19・1886年建築)や、新潟県・佐渡版画村美術館として利用されている「相川裁判所」(明治21・1888年建築)、兵庫県・篠山市立歴史美術館に転用されている「篠山区裁判所」(明治24・1891年建築)などがある。
愛知県・博物館明治村に移築されている「宮津裁判所」(Googleストリートビューより)
新潟県・佐渡版画村美術館として利用されている「相川裁判所」(Googleストリートビューより)
兵庫県・篠山歴史美術館に転用されている「篠山区裁判所」(Googleストリートビューより)
●裁判官と検察官は揃って壇上に
やがて、現在の法務省・赤煉瓦庁舎に代表されるようなレンガ造りの庁舎が建築されるようになる。現存する代表的な建築としては、神戸市の神戸地方裁判所(明治37・1904年建築)や熊本地方裁判所(明治41・1908年建築)などがある。
東京都千代田区の法務省の赤レンガ棟。司法省として明治28年に建築された(Googleストリートビューより)
神戸地方裁判所。明治37年に建築されたが、戦災で焼失。残った外壁を活用した建物として再生した(Skylight / PIXTA)
現在は資料館として活用されている熊本地方裁判所(Googleストリートビューより)
雑誌『公共建築』(2000年10月号)によると、大正5(1916)年には庁舎としては初の鉄筋コンクリート造りである「東京区裁判所」が着工された。この直後に起きた関東大震災ではレンガ造りの建物に被害が多かったため、鉄筋コンクリート造りに移行するきっかけとなった。
同誌によると、法廷内で裁判官席は壇上にあり、左右に検察官と書記が並んだという。弁護人の席は壇下にあり、「これは、当時の職権主義的な裁判思想の現れであろう」と説明している。
現在の裁判所の設計では、裁判官、訴訟関係者、傍聴人が法廷に入る際の動線は分かれているが、この時期はそうした配慮もなかったようだ。
●日本国憲法を反映した法廷構造
戦後になり、昭和21(1946)年に日本国憲法が公布、裁判所法が施行されると、現在の最高裁を頂点とする司法制度が確立した。
戦火で罹災した裁判所の復旧や新しい裁判所の建築が急務となり、新設された簡易裁判所は「年間30〜50庁もの建設が数年続き、最高裁営繕課では平面および立面の標準化を図って対応した」(同誌)という。
昭和22(1947)年には、日本国憲法が反映された法廷の配列があらたに決められた。裁判官席のみが壇上にあり、書記、検察官、弁護人の席は壇下にあるという配置で、現在の法廷の原型となった。
昭和29(1954)年には、戦後の裁判所庁舎の先駆けとなる福井地方・家庭・簡易裁判所が完成。堅牢で火災にも耐えらえよう建築された。また、内部も被告人用の廊下を設けるなど、新しい工夫がみられた(『裁判所建築の歩み 明治・大正・昭和・平成』)という。
福井市の復興のシンボルとなった「福井地方・家庭・簡易裁判所」(Googleストリートビューより)
また、ほかの裁判所と一線を画すのが最高裁判所の建築だ。裁判所のサイトによると、現在の庁舎は昭和39(1964)年から建築計画がスタートした。有識者による審議会が1年にわたって検討し、「過去の様式にとらわれず、現代の建築様式によって建築されるべきで、最高裁判所としての品位と重厚さを兼ね備えなくてはならない」などと答申した。
最高裁の建築は「国家的事業」とされ、公開競技で建築家、岡田新一らの設計案が選ばれ、昭和49(1974)年に完成した。
「定礎の辞」はこう刻まれた。
「最高裁判所庁舎を東京都千代田区隼町四番二号に新築するにあたり,日本国における法の支配の確立と揺るぎなき国運を冀求してここに永世不朽の礎を鎮定する」
外壁に花崗岩を用いた厳粛なたたずまいの最高裁判所(khadoma / PIXTA)
●明るく利用しやすい裁判所へ
憲法や法制度、社会の状況変化に応じ、裁判所はその建築を模索してきた。たとえば、家裁や簡裁は国民にとって身近な裁判所であるため、「明るく利用しやすい庁舎」などを基本方針に整備されるようになった。
岐阜市の町並みに調和した「明るく利用しやすい裁判所」をコンセプトに2015年、建築された「岐阜地方・家庭裁判所」(Googleストリートビューより)
また最近では「ラウンドテーブル法廷」という、裁判官や当事者が丸いテーブルに着席するスタイルの法廷も登場している。
裁判所のサイトによると、「民事訴訟は、一般に法廷で行われますが、少額訴訟などでは、当事者がリラックスした雰囲気の中で話ができるように、裁判官もだ円形のテーブルを囲んで着席するラウンドテーブル法廷を使ったりしています」という。
駆け足だったが、裁判所の建築や法廷の構造を調べていくと、日本の激動の近現代史が浮き彫りになった。また、日本がどのように司法制度をとらえていたのかもわかる。裁判官の入間みちおは、ドラマの中で何度も法壇を降りていたが、果たしてそれに気づいていたのだろうか。