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「人生ってだいたい偶然で決まるんです」〝カミソリ弘中〟の知られざる素顔
写真:森カズシゲ

「人生ってだいたい偶然で決まるんです」〝カミソリ弘中〟の知られざる素顔

「ロス疑惑」の故・三浦和義氏や元厚生労働事務次官の村木厚子氏、政治家の小沢一郎氏などの事件を担当し、勝ち取った無罪判決は十数件――。刑事弁護人として著名な弘中惇一郎氏だが、半世紀を超える弁護士人生で多くの人権問題にも取り組み、先例をつくってきたパイオニアでもある。

しかし、本人に水を向けると、本気かはたまた謙遜か。「何か目標や主義主張があったわけではなく、たまたまなんです」。その実像はどこにあるのか?

●仲間に、時代に…流されるまま弁護士に

数々の著名事件に携わり、一般人にすら名が轟く「レジェンド」が言う。

「人生で大事なことって、だいたい偶然で決まるんです。こういう仕事をやろうなんて目標を立てても、あんまり意味がない」

報道で目にする険しい表情とは異なり、柔和な笑顔を浮かべながら「運命論者」を自称する。「カミソリ」の異名をとる論理派のイメージとはギャップが大きい。

「弁護士って自分で事件をあされないんです。偶然来たものの中に興味をひくものがあれば、通常よりもちょっとは熱中しますよね。それで転がっていくだけだと思うんです。運と勘ですよ(笑)」

果たして、これは本心からの言葉なのだろうか――。

画像タイトル 写真:森カズシゲ

弘中氏は終戦直後の1945年10月、一族ゆかりの山口県で生まれた。3歳のときに父親の転勤で東京に転居。幼稚園と小学校は成城学園に通った。

「成城の授業って基本は自習だったんです。自分でテーマを決めて研究するような感じで、先生は教室の隅に座って質問に答えるだけ。授業中に売店に行くのも自由。通知表もないし、競争もない。今思うと、面白いと感じたら自分で動く癖がついたんでしょうね」

小学6年生の夏に広島県の小学校へ転校。中学・高校は修道に通った。「先生も厳しくてビックリした」そうだが、転勤族ゆえか、すぐに順応したという。高校からは美術部に入部した。

「小学4年生の頃に成城で油絵を教えてもらい、興味がありました。美術部は練習もしなくていいし、上下関係も競争もノルマもない。自由な雰囲気が気に入っていました」

1964年、1回目の東京オリンピックイヤーに東京大学に入学。迷わず美術サークルに入った。ちなみに「東洋の魔女」の異名で知られる女子バレー・日紡貝塚の活躍に影響され、体育会バレー部も兼部したが、練習が厳しく五輪まで持たずに退部したという。

東大では、主に法学部へ進む文科一類だったが、高校の教師の言われるがままに受けただけで、特に法律に関心があったわけではなかった。祖父は元裁判官の弁護士だったが、父はサラリーマン。希望する仕事を聞かれると「会社員」と答えていたという。

転機は、法学部への進級に際し、美術サークルの同級生(=川端和治弁護士)から「東京大学法律相談所」に入ろうと誘われたこと。市民からの法律相談に答えたり、模擬裁判を開いたりする法律系団体で、1947年に当時の法学部長だった我妻榮氏らのもと発足し、今も続いている。「法律の授業はあまり面白くなかった。でも、『相談所』の仲間と法律のディスカッションをするのは面白かったですね」。

周りが受けるというので、4年時に司法試験と国家公務員上級試験を受験し、ダブル合格。大蔵省と通産省から内定が出たが、「相談所」の同級生(=久保田康史弁護士)が弁護士になると言うので一緒に辞退した。「弁護士のほうが面白そう、好奇心が満たされそうと思っただけで、深い理由があったわけではないんですけどね」。

あえて言うなら「時代」だったと弘中氏は振り返る。1960年代後半はベトナム戦争反対運動や学園闘争など、世界的に学生運動が活発だった時期。同世代の弘中氏も官僚より在野の弁護士のほうが意義のあることができると考えるようになっていた。安田講堂が占拠されるのは、弘中氏が卒業した翌年のことだった。

●キャリア4カ月の新人コンビ、国と直接対決

そんな「政治の季節」だったから、司法研修所でも反戦運動などにかかわる同期が多かったという。弘中氏も30人ほどの同期と「反戦法律家連合」というグループをつくり、実際にデモに行くこともあった。

1970年に弁護士登録して初めて受任したのは、東大闘争などで逮捕された学生たちの事件。仲間の修習生たちと弁護しようとあらかじめ決めており、所属事務所も「刑事公安事件を自由にやらせること」を条件に選んだ。所持品検査の許容限度をめぐる判例で知られる「米子銀行強盗事件」を受任したのも学生運動がらみだった。

「学生運動というと過激なイメージを持たれがちですが、私が事件を担当していたのは内ゲバやリンチがほとんどない時期。社会への問題提起として共感される部分もあったからこそ、あれだけ広がってもいたんです」

しかし、連合赤軍のあさま山荘事件(1972年)が起きると、運動に正当性を感じられなくなり、世間同様、次第に学生運動とは距離をとるようになったという。

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弘中氏はこの頃、憲法の教科書でもおなじみの「マクリーン事件」にも取り組んでいる。アメリカ人英語教師のロナルド・アラン・マクリーン氏が、ベトナム反戦活動に参加したことなどを理由に在留期間更新の不許可処分を受けたという事件だ。同期の秋山幹男弁護士に誘われ2人で担当したが、受任当時はお互いにまだ登録4カ月だった。「今思うと向こう見ずというか、怖いもの知らずだった」と苦笑いを浮かべる。

「大学で芦部信喜先生の憲法の授業を受けて、人権に興味を持ちました。抽象論ではなく、実際に進行中の問題があって、司法修習時代は『家永教科書裁判』についてのシンポジウムを開いたこともありました。入管法にも興味があって有志で勉強会もやっていたんです」
「お互いに言論の自由のある国。アメリカでベトナム戦争反対と言っても問題ないし、日本人が日本でベトナム戦争反対と言っても問題ない。それをアメリカ人が日本に来て反対だと言ったら問題視して、日本で生活できなくしちゃうのはおかしい。外国人差別だろうと思いました」

当時の入管施設では家族と面会するときでも母国語ではなく、日本語で話さないといけないなど、今に通じるひどい実態があったという。弘中氏と秋山氏はマクリーン氏が入管施設に収容されないよう、在留期間更新不許可処分の効力停止を申し立てる新しい手法を考え出し、多くの学者を巻き込みながら裁判を戦った。本訴の処分取消請求事件の結果は一審こそ勝訴したものの、控訴審と上告審は敗訴だった。

「一審では基本的人権ベースで戦って勝ったのですが、控訴審になると国は作戦を変えて行政裁量論に持っていった。裁判所は『行政には行政の都合があって一定の裁量を認めないと回らない』と言われると弱い。教科書的には、在留外国人にも憲法の基本的人権が保障されることを認めた判例という面が強調されていますが、入管行政に広範な裁量権を認めた判例でもあります」

元最高裁判事の泉徳治弁護士が2020年の『判例時報』(2434号)に、この大法廷判決は明らかに誤りであり、マクリーン氏に対する不許可処分は違憲とする論文を発表している。現在の入管問題を意識したものと見られるが、この事件がいかに今日までの入管行政に影響しているかがわかる。

なお、元来「ビジネス的なことはあまり好きではない」という二人がマクリーン氏から受け取った「弁護料」は、英会話のレッスンだったという。

●薬害事件、原告団と伴走した20年

弘中氏がほかに力を入れてきた分野に医療過誤や薬害の問題がある。ただ、もともと関心が強かったわけではなく、いずれもきっかけは「偶然」だったという。

「東大の学生運動の裁判を担当したとき、たまたま割り当てられたのが医学部生の裁判でした。その中で、青年医師連合(青医連)の人と親しくなって、『一緒に医療過誤問題をやろう』と声をかけられたんです」

東大闘争はもともと医学部のインターン制度廃止を求める運動として始まった。運動の参加者の中には医学生や若手医師の権利向上だけでなく、患者側に立って医療事故の解決を目指す人たちもいた。当時は医療事故が起きても、一般人は情報を得ることが難しく、泣き寝入りすることが多かったからだ。

また、腎炎などの治療に使う「クロロキン製剤」によって視力視野障害が起きたクロロキン薬害事件では、集団訴訟の弁護団の人数が少なく、たまたま被害者の訴訟を担当したことがあった弘中氏に声がかかったという。

弁護団4人で全国を担当し、弘中氏は定期的に中国・四国・大阪エリアを訪ねた。裁判は1975年に提訴され、約20年かかって確定。損害賠償は認められたものの、国の責任までは認められなかった。この20年間に、弁護団は毎週土曜日に計約千回の会議を続けたという。

「若いころから、他の事務所の弁護士とチームで仕事をすることが多かったですね。他の人のやり方や考え方がわかって参考になりました。自由に意見を言い合える人、信頼できる人とチームで事件をやるのは面白い。いろんな視点から物事を捉えられるし、良いアイディアも浮かびます」

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しかし、弘中氏はこのクロロキン訴訟がすべて終結する目前で弁護団を辞めざるを得なくなる。非加熱血液製剤の投与で血友病患者らがHIVに感染した「薬害エイズ事件」で業務上過失致死罪に問われた医師の安部英氏の弁護を引き受けたからだ。

きっかけは、司法研修所の恩師だった武藤春光弁護士からの助力要請だった。当初は検察も「事件にならない」と言っていたそうで、弘中氏もすぐに終わると思っていたという。しかし、政権が代わり菅直人厚労相(当時)が厚生省の責任を認めたことで検察の態度が一変。安部氏は連日、メディアで批判を浴びた。

そんな安部氏の補佐人として国会の証人喚問に付き添ったところ、テレビに映ってしまい、クロロキン被害者から「裏切り者」と責められた。

「被害者側なのに『加害者』の弁護をされたら困る、と。直接クロロキンの被害者と利害が対立するわけではないんですけどね。不幸中の幸いでクロロキンは弁護士がすることはほとんど残っていなかったので、腹をくくって安部さんの弁護に集中しました」

結局、当時の知識ではHIVに感染する危険性が高いと予見することは困難だったとして、安部氏は一審無罪になった(控訴審途中で死去)。

●刑事弁護人として注目浴びた「ロス疑惑」

刑事弁護人のイメージが強い弘中氏だが、弁護士になってしばらくたつと、学生運動がらみの刑事事件がひと段落し、刑事をあまり担当しない期間が続いたという。増えるきっかけになったのは「ロス疑惑」だった。

ロス疑惑は、1981年にロサンゼルスで日本人夫妻が銃撃され、妻が死亡した事件に端を発する。事件から約2 年たって、週刊誌で夫の三浦和義氏が保険金目当てで殺害したのではないかとする連載がスタート。過熱報道に押される形で捜査が進み、三浦氏は1985年に逮捕された。

弘中氏は、三浦氏の弁護人になったのもまた「偶然」だったという。弘中氏は当時、自由人権協会で報道の問題を担当していた。そこに三浦氏の父が訪れ、家族がどれだけひどい報道被害にあっているかを相談したのだという。その流れで三浦氏と接見することになり、受任に至った。

ロス疑惑では、関連事件で三浦氏に有罪判決が出ている。元裁判官の木谷明弁護士は、2015年の『判例時報』(2261号)で、裁判長が「日本中が有罪と信じているのに、どうして無罪を言い渡せるのか」という趣旨のことを言っていたと暴露している。日本中が「悪人」だと思う中、どうして弁護人を務められるのか。弘中氏は次のように語る。

「依頼者を信頼できないと弁護はできないんですが、話を聞いて、気になったことを質問する。そのやり取りで本当のことを言っているか、だいたいわかるじゃないですか。三浦さんがウソをついていると思ったことはないですね」

先入観を捨て、まずは自分の目で確かめてみる。これは弘中氏が何より現場に足を運ぶこと、関係者に話を聞くことを重視していることにも通じる。実際、抽象的な法律論を組み立てるより、現場で生の事実を探すほうが性に合っているという。事件によって弁護団で担う役割は変わるが、今も気になることがあれば、なるべく自身で調査する。試行錯誤の連続だが、困難さがあるからこそ、刑事弁護は面白いのだという。

「他の人がやっていないことをしているつもりはなくて。ただ、ロスには4回ほど渡航して現場を調べましたね。何とかならないか、どうにかしてあげたいという気持ちはちょっとだけ強いほうかもしれません」

こうした成果が実り、三浦氏は妻の殺害容疑について控訴審で逆転無罪となった。これを受けて、三浦氏は「悪人」扱いしたメディアに対して計530件の名誉毀損訴訟を起こし、約8割で勝訴または勝訴的和解をしたという。報道をめぐる重要な判例・裁判例になっているものもあり、弘中氏も一部にかかわった。

また、ロス疑惑をめぐっては、三浦氏が逮捕されて警視庁に連行される際、警察がメディアに撮影させるため、パトカーを遠回りさせたことも問題視された。人権救済の申し立てにより弁護士会から警告が出され、国賠訴訟では時効のため結果自体は棄却となったものの、判決理由では違法性が認められた。この結果、逮捕・連行時に被疑者の顔や手錠などが見えないよう警察が毛布や衣類をかけるようになったという。

弘中氏はこのほかにも著名人の代理人として、訴訟などを通じてメディアの問題点を指摘してきた。ただ、メディアを憎んでいるわけではない。

「今は新聞やテレビから名誉毀損をされて困っているという人はそうはいないんじゃないでしょうか。メディアはあんまり良い子になっちゃいけない。もっとスクープを書いてほしいし、特に権力に対して腰が引けすぎだと感じます」

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●特捜事件、検察権力との戦い

近年は特捜事件を多く取り扱っている弘中氏。メディアという点では、検察によるリークをもとにした報道を問題視している。無罪が確定した村木厚子氏や小沢一郎氏の事件でも検察リークをもとに犯人視報道が続いた。「関係者が世論に流され、証言が歪む可能性が高い」。

「検察の弱点って、長所でもあるんですけど、やっぱり組織なんですよ。組織は柔軟性がない。上からストーリーを示され、『こういう調書をとれ』と言われたら、それしかとりようがない。

警察が動く一般事件と違って、特捜事件は自ら捜査して起訴するわけですから、逮捕したら後戻りができなくなってしまう。そこから無茶苦茶が始まるわけですよ」

「人質司法」についても長らく問題提起してきた。特に特捜事件は自白偏重になりやすい。途中から弁護人を務めた日産自動車の事件では、カルロス・ゴーン氏が保釈中にレバノンに逃亡。検察からは、裁判所が保釈を認めたことを批判する意見も出た。これに対し、弘中氏はゴーン氏が東京拘置所に計100日以上身柄拘束されていたことや保釈条件として長期間家族と会えなかったこと、公判開始の見通しが立っていなかったことなど、日本の刑事司法の課題を指摘する。

「検察は自分たちが見ている真相しか真相ではないという前提に立っている。だから被告人が動くとそれは全部、罪証隠滅行為になってしまうんですね。

本来なら、被告人側をある程度自由にして、どちらが正しいかを裁判所がルールに従って判断すべきでしょう。検察だけが関係者の口を封じて、罪証隠滅行為を散々やっているわけです。おかしいじゃないですか」

現在取り組んでいる2021年の東京五輪をめぐる事件でも、KADOKAWAの会長だった角川歴彦氏(79)が2023年4月、約7カ月の勾留ののちに保釈されたばかりだ。

被疑者・被告人が不利な中、特捜検察との戦いも含め、いくつもの無罪判決を勝ち取ってきた弘中氏だが、メディアで言われる「無罪請負人」という表現には強い抵抗があるという。実際、この表現にはどこか「クロをシロにした」というニュアンスも漂う。

「検察の捜査権限は強力ですから。検察がシロをクロにすることはあっても、弁護士がクロをシロにはできないですよね。そんなに生優しい相手ではない。そもそも私より無罪を勝ち取っている弁護士はたくさんいる。大したことないと思ってますからね、自分のこと」

●人生のキャンバス、彩り豊かな交友関係

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弘中氏のオフィスには、業務の合間を縫って描いた油絵が数多く飾られている。

「弁護士って徹底的にやるとすごい働き方になるでしょう。事務所に寝袋を持ち込んで朝から晩までとか。でも、私には『24時間戦えます』みたいなマネはとてもじゃないけれどできない。人生いろんなことをやりたいですしね」

大学時代の美術部の仲間とは、今も毎年カレンダーを制作する仲。昔の交友関係が今も続いているといい、小・中高・大とそれぞれの同窓会にも顔を出す。今夏には同級生10人ほどで、広島までプロ野球の応援に行くという。勝敗にかかわらず、交流が続いている元依頼者も少なくない。

弘中氏の現在が「運命」によって導かれたものだとするならば、「偶然」出会った人たちとの関係を大事にしてきた結果の「必然」と言えるのかもしれない。信頼し合える良好な人間関係が良いチームワーク、満足度の高い結果を生み、時をへて新しい人と事件を運んでくる。

弘中氏のキャリアを振り返れば、薬害訴訟の代理人をやりながら、薬害事件の被疑者・被告人を担当するなど、敵と味方、強者と弱者といった二元論では割り切れない仕事が多い。メディア相手の訴訟を数多くこなす一方、表現の自由を守るため雑誌『噂の眞相』や『創』の代理人・弁護人を務めたこともある。特捜事件でも、自民党だった鈴木宗男氏の弁護をしたかと思えば、民主党時代の小沢一郎氏が巻き込まれた陸山会事件にも尽力した。

一見すれば矛盾しているように思うかもしれないが、先入観や党派性に囚われることなく、人や事件という「モデル」をさまざまな角度から観察しているからこその柔軟性なのだろう。その観察眼で見つけだした「事実」という絵具をキャンバスに重ね、対立する相手とは違った絵を描いていく。

弁護士生活も50年を過ぎた。「もう、早く隠居したい(笑)」とおどけるが、まだまだ事件がゆっくりさせてはくれなさそうだ。

プロフィール

弘中 惇一郎
弘中 惇一郎(ひろなか じゅんいちろう)弁護士 弁護士法人法律事務所ヒロナカ
弘中 惇一郎(ひろなか じゅんいちろう)弁護士 1945年、山口県生まれ。1970年弁護士登録(22期)、東京弁護士会。法律 事務所ヒロナカ代表弁護士。公益社団法人自由人権協会代表理事(2001 ~ 2007年度)。主な著書に『無罪請負人 刑事弁護とは何か?』(2014年、 角川書店)、『生涯弁護人 事件ファイル1・2』(2021年、講談社)など。

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