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約70人の児童はなぜ死ななければいけなかったかーー裁判官が「大川小学校」現地視察
74人の児童と10人の教職員の命が犠牲になった石巻市立大川小学校の校舎(2015年3月撮影)

約70人の児童はなぜ死ななければいけなかったかーー裁判官が「大川小学校」現地視察

東日本大震災の津波によって、児童74人、教職員10人という多くの人命が犠牲となった宮城県の石巻市立大川小学校。その遺族の一部が「学校は救えるはずの命を守る義務を果たさなかった」などとして、宮城県と石巻市に総額23億円の損害賠償を求める裁判を起こしている。

2014年3月に仙台地裁に提訴された裁判は、これまで5回の口頭弁論が行われ、原告と被告の双方の主張が法廷で明らかにされてきた。11月13日にはいよいよ、裁判官と当事者たちが、北上川の川沿いにある大川小学校の被災現場を訪れ、4年8カ月前の「あの日」に何が起きたのかを確認する。(渡部真)

●児童の遺族たちは「天災ではなく人災だ」と主張

2011年3月11日、東北沿岸部を襲った大津波は北上川を遡り、河口から約4キロも上流に位置する石巻市大川地区を呑みこんだ。だが、大川小学校に津波が到達したのは、14時46分の地震発生から1時間近くが経過したあとだった。その間に、学校が児童の命を救うためになすべきことをしていたのかどうかが、裁判では問われている。

地震が起きてまもなく、大川小学校の児童たちはグランドに集められた。しかし、すぐには避難せず、45分ほどグランドで待機したあと、北上川にかかる橋のほうへ避難行動を開始した。その直後、津波が川の堤防を越えて児童たちの列に襲いかかった。小学校周辺を一気に流し去った津波により、児童・教職員計84人が死亡・行方不明になった。助かったのは、児童4人と教職員1人だけだ。東日本大震災による犠牲の中でも特筆すべき大きな事故となった。

それから3年後の2014年3月10日、大川小で犠牲になった児童たちの遺族が、石巻市や宮城県を相手取って、損害賠償を求める裁判を仙台地裁に起こした。提訴したのは、23人の児童の父や母など29人の遺族たちだ。

提訴までの3年間、遺族たちは石巻市や市教委に事故当時の実態の解明を求めて、断続的に話し合いを行ってきた。しかし、市教委が調査段階のメモを破棄してしまったり、大人のなかで唯一生き残った教員の証言が児童の目撃証言と矛盾していたりしたため、遺族たちの不信感は日増しに大きくなっていった。

震災から2年後には、文部科学省のあっせんで第三者による検証委員会が設置されたが、約1年後に提出された報告書ではなんら新事実が示されなかった。検証委の委員長である室崎益輝・神戸大学名誉教授も「ようやく遺族の皆さんの知識に追いついた程度という指摘は否定できない」「(検証には)限界があった」と認めざるを得ない内容だった。

こうした経緯もあり、遺族のなかには「大川小の事故は天災ではなく人災だ」と考える人も少なくない。「教師の言うことを聞かなければ、子どもは助かったかもしれない」というのだ。生き残った児童の証言によれば、「裏山に逃げよう」とグランドで教師に訴えた児童がいたという話もある。訴状には「もし、先生がいなかったら、児童は死ぬことはなかった。本件は、明らかな人災である」という言葉が記されている。

原告の一人である佐藤美広さんは、当時小学3年生だった一人息子の健太君を失った。学校側の姿勢に強い疑問をもつ佐藤さんは、次のように語る。

「安全のはずの学校で先生がついていながら、なんで健太が死ななければならなかったのか。子どもたちが、先生の言うことを聞かずに勝手に避難できるはずがない。これだけ多くの犠牲があって、学校に責任はありませんなんておかしい。きちんと責任を認めてほしい」

●津波の「予見可能性」と裏山への「避難可能性」が争点

今回の裁判で争点となっているのは、(1)震災直後から津波に襲われるまでの間に、学校側は「津波がくるだろう」という予見することができたか(2)小学校に隣接する「裏山」の方向に逃げずに、川の橋の方向へ避難したのは、当時の判断として適切だったのか、といった点だ。

遺族側は、(1)について、「想定を超えるような大地震があり、地域では学校に大津波警報のことを伝えた者もいるのだから、津波の予見可能性はあった」と主張している。(2)については、「裏山へ避難することを進言した児童もおり、裏山に避難していれば、助かった可能性が高い」などと主張。裏山への3つの避難ルートを示し、学校側が適切に避難すべき義務を果たしていなかったと訴えている。

これに対して市や県は、津波の予見可能性について「震災前のハザードマップを信用していた」「周辺地域は、学校以外の場所で犠牲になった人も多く、津波を予見することはできなかった」などと反論している。

学校の裏山への避難については、小学生の児童が傾斜の急な山を登るのは困難だったという指摘もある。この点について、遺族側は、学校一帯の地形の測量結果にもとづいて、3つの避難ルートのうち最長となるルートでも距離は138メートルで、最大傾斜角も14度にすぎないと分析し、小学生の児童でも避難可能だったと主張する。一方、市や県は、林の倒木の可能性を含めて、安全な避難ルートであると判断できなかったと反論している。

11月13日の午後に行われる現地視察は、この「裏山への避難可能性」について、現地の様子をこの目で見ながら具体的に確認するというのが、大きなポイントとなる。

裁判は判決が出るまで、まだまだ時間がかかる見通しだ。2011年3月11日から5年近くがすぎ、震災の風化も指摘されるが、大川小学校の児童の遺族にとって、震災はいまだ終わっていない。当時小学3年生の長女を失った 只野英昭さんは、今年8月に行われた第5回口頭弁論で法廷に立ち、こう訴えた。  

「学校管理下にある子どもたちは、いったい誰が守るのでしょうか? どのようにして守るべきなのでしょうか?」「二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも(中略)真実を明らかにしていただいたうえで、裁判長には、石巻市教委、宮城県教委の責任を厳しく問う正しい判断をしていただきたいです」

(弁護士ドットコムニュース)

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