2019年07月15日 09時35分

芸能界のスターたちが戦った86年前の「桃色争議」、今に通じる「世論が味方」の戦法

芸能界のスターたちが戦った86年前の「桃色争議」、今に通じる「世論が味方」の戦法
中山千夏『タアキイ―水の江瀧子伝』(新潮社、1993年)

NGT48の元メンバー・山口真帆さんの暴行事件をめぐり、山口さんと運営会社AKSとの対応がギクシャクする中、芸能人の労働問題が改めてクローズアップされました。

芸能人の労働問題は今に始まったものではありません。80年以上前の1933年にも、松竹少女歌劇部・松竹楽劇部で「桃色争議」と呼ばれる労働争議が起きました。

陣頭に立ったのは、トップスターだった18歳の水の江瀧子です。水の江はこの争議について、「私は割合に、面白かったって印象しかなかったね」と振り返っています。どのような労働争議だったのでしょうか。(ライター・オダサダオ)

●短髪で一世を風靡した「水の江瀧子」

桃色争議は、1930年代に松竹少女歌劇部で起こった労働争議のことです。

当時、宝塚少女歌劇団、大阪松竹少女楽劇部、松竹少女歌劇部のいわゆる三大歌劇団がしのぎを削っていました。1927年(昭和2年)9月に宝塚少女歌劇団が初演した「モン・パリ」(岸田辰彌作)は、西洋風の化粧や露出度の高い衣装、そしてラインダンスなどを取り入れた画期的な作品であり、このような洋物レビューが人気を博するようになりました。

1930年(昭和5年)8月初演の宝塚少女歌劇団のレビュー「パリゼット」(白井鐵造作)では、本格的な男役が誕生し、これに続いて、他の歌劇団でも男役を取り入れるようになりました。松竹少女歌劇部でも、桃色争議の中心人物となる水の江瀧子も、短髪になり、一世を風靡しました。このような中で起こったのが、桃色争議です。

 水の江瀧子(『タアキイ』1937年新年特別号、パブリックドメイン)

●サイレント映画からトーキー映画に移る中で起きた「クビ切り」の流れ

桃色争議の背景として、当時の松竹が置かれていた状況を理解しなくてはなりません。当時は、映画館を中心に労働争議が相次いで起こっていました。松竹でも、1932年(昭和7年)4月に映画活弁士、楽士の首切りに反対する争議が浅草で起こっていました。首切りの背景には、当時起こっていた映像技術の進歩が影響しています。 

当時、サイレント映画からトーキー映画へと時代が移り変わっていました。当時の映画は、音の出ない映像に合わせて活弁士がナレーションやセリフを付けたり、楽団が音楽をつけるというサイレント映画が中心でした。しかし、技術の発達により、映像と音声を同時に流すことが出来るようになりました。いわゆるトーキー映画の誕生です。

松竹もこの流れと無関係ではありません。1931年(昭和6年)に初のトーキー映画「マダムと女房」を上映しました。そして、海外映画でも、映画「モロッコ」が同年に初上映されました。これは、トーキー映画というだけでなく、字幕をプリントに焼き付けるという手法が取られた初めての作品でした。

●松竹芸能少女歌劇部に対し、一部学士の解雇、全部員の賃金削減を通告

こうした技術進歩により、活弁士や楽士の仕事が奪われていきました。「モロッコ」の上映では、弁士が不要となり、配給元のパラマウント映画に抗議が行われたほどでした。

当時は昭和恐慌のさなかと言うこともあり、映画会社は、経営体力の強化を図っていました。こうした中で起こったトーキー化は、人員整理を呼ぶことになります。トーキー化によって、仕事を失ってしまった活弁士や楽士は、首切りの対象となっていきます。こうした動きに対して、反トーキー映画と待遇改善を求めて、各地で労働争議(トーキー争議)が頻発します。松竹で起こった労働争議も同じような背景のものでした。

1932年(昭和7年)、松竹は映画活弁士、楽士の首切りを通告します。これに対して、活弁士、楽士たちは、ストライキなどを駆使して抵抗しますが、結局、会社側の勝利で幕を閉じました。松竹以外の各映画会社でも、同様の争議が起こっていましたが、トーキーを導入することで、入場者数が増加しており、トーキー導入の動きを止めることは出来ませんでした。結局、トーキー導入阻止や解雇撤回は実現出来ず、解雇手当の増額や解雇制度の確立と言った条件闘争に終始せざるをえませんでした。

翌年、松竹は、今度は松竹少女歌劇部に対し、一部楽士の解雇ならびに全部員の賃金削減を通告しました。これに対して、歌劇部側は、トップスターだった18歳の水の江瀧子を争議委員長に任命し、対抗します。これが「桃色争議」でした。

●きっかけは待遇改善、湯河原の旅館に立てこもり

「桃色争議」の発端は、はっきりとしていません。作家の中山千夏の書いた水の江瀧子の評伝(中山千夏『タアキイ―水の江瀧子伝』(新潮社、1993年)にも、中山はあまりはっきりとしていなかったと書いています。しかし、きっかけが音楽部の待遇改善にあったことはうかがえます。

当時の音楽部の待遇は悪いものでした。給料は安い。3回の公演は、3回とも同じ楽士がやる。ご飯を食べる暇もない。ボックスの中は埃だらけで、病気になる人は多い。しかも、病気になった時は見舞いもくれない(中山『タアキイ』175頁)。

こうした状況に対して、音楽部が待遇改善を求めて交渉を重ねていましたが、松竹側は24人の楽士に対して、30人の解雇を通告しました。楽士ほぼ全員と演奏家以外で30人ということです。これに対して、音楽部は争議を興すことにしました。しかし、音楽部だけでは、力不足と言うことで、水の江瀧子に合流を持ちかけました。

歌劇部も待遇の悪さは音楽部と同じでした。女生徒たちが争議の激励と支援を頼むために、彼女たちの父兄に送った手紙に、当時の待遇の悪さが表れています。「日夜過労を強い、公演につぐ公演、練習につぐ練習で、しかも疲れを休める控室は南京虫、のみで充満している不潔さであり、これに加えて本社から支給される僅かな手当はその一部が与えられるかまたは全然皆無となって途中で消え失せるのです」(中山『タアキイ』183頁)。

こうしたこともあり、歌劇部も音楽部に同調することになりました。この時のことを、水之江は「家族を養っていけないって言うから、そいじゃ可哀相だ、応援しようよって、それが始まり。」(中山『タアキイ』175頁)と振り返っています。音楽部と歌劇部は、待遇改善の嘆願書を提出しました。以下内容を列挙します。

・退職手当支給
・本人の意思によらない転勤をしない
・最低賃金制の制定
・定期昇給の実施
・公傷治療費の会社負担
・公傷及び疾病による欠勤は給料全額支給
・運動手当支給
・衛生設備等、施設の改善
・公休日、月給日制定
・兵役・軍事招集中の給料全額支給
・中間搾取の廃止
・不当解雇された女生徒の復帰
・医務室の設置
・生理休暇制定

この要求を突きつけ、水の江以下約230名の少女部員は、6月15日に神奈川県にある湯河原温泉郷の大旅館に立てこもりました。

東京の歌劇部と同様に大阪でも、松竹楽劇部が、待遇条件の改良要求が拒否されたことから、争議に突入しました。部員たちは、トップスターの飛鳥明子を団長に据え、舞台をサボタージュし、部員が高野山に立てこもりました。

●人気者の労働争議、世論を味方に戦う

当時はまだ労働者の権利が保障されている訳ではなく、労働争議も非合法でした。しかし、当時人気絶頂だった水の江瀧子が中心となっていると言うことで、世論も彼女たちの味方をしています。

7月12日に、水の江は、支援者の1人だった女優の原泉などと、7月12日に思想犯として特別高等警察(特高)に検挙され、浅草象潟(きさかた)警察署に留置されました。象潟署は、松竹座のあたりの管轄ということで、捕まえた警察官は顔見知りでした。水の江は「象潟署っていったら、松竹座あたりのロックの管轄だからね、全部知ってるのよ、コンチハー、なんて言って、陽気なもんよ(笑)」(中山『タアキイ』195頁)と振り返るように、留置される悲壮感などは全く感じられませんでした。

世論が注目している水の江が相手と言うことで、警察側も手荒なことは出来ずに、かえって水の江の要求に従う始末でした。留置中のエピソードですが、同じように留置されていたデパート店員で共産党員の女性が取り調べから血を流して戻ってきました。水の江が「どうしたの」と尋ねると、彼女の答えは「警察にそろばんで殴られた」。当時は、拷問が当たり前のように行われていた時代でした。義憤に駆られた水の江は、警察官を呼んで「『警察は酷いところだ』と新聞記者に言う」と言います。水の江達の争議は世論が注目していた事件です。大騒ぎになってはたまらないと考えた警察側は医者を呼び、女性を手厚く手当することになりました。警察が如何に水の江に気を遣っていたかが分かるエピソードです(中山『タアキイ』195-196頁)。

●リーダーたちは解雇や謹慎になったが、要求のほとんどは認められた

松竹は、7月1日に水の江を解雇しました。前年の争議に勝利した会社側としては、強硬姿勢を続けていけば、争議団も自然消滅すると考えたのでしょう。

しかし、会社側の思惑とは異なり、松竹の姿勢に対して、世論は争議団側に同情的でした。なんと言っても、水の江は、トップスターであり、彼女の後援組織である水の江会は、会員2万人を擁していました。争議団の団員達も未成年の女性ということで世論は彼女たちの味方でした。水の江を拘禁していた警察も、直ぐに解放しました。

また、この事件はライバルの宝塚歌劇団を利する結果となってしまいます。争議によって、観客動員数は落ち込み、逆に宝塚側は動員数を伸ばしています。

争議の悪影響は明らかであり、7月13日から労使交渉が開始されました。7月17日に生理休暇以外の改善要求が通り、交渉は妥結しました。解雇者24人中5人は無条件復職、残りは2か月間の謹慎処分となり、改悛すれば復帰させ、その間の賃金は全額支給と言うことになりました。

大阪でも、交渉は妥結し、それぞれのリーダーだった飛鳥と水の江は、それぞれ解雇と謹慎ということになりました。しかし、争議団の要求のほとんどが認められ、実質的には争議団の勝利で幕を閉じました。

桃色争議は、トーキーという新技術と昭和恐慌という経済の荒波の中で起こった労働争議でした。世論の後押しもあり、争議団は要求を認めさせることに成功しました。しかし、この時の争議団の要求は、今から考えると当然のものであり、大人気だった歌劇部を会社側が搾取していたと言われても仕方のないものです。

現代でも、芸能界では、事務所と所属タレントをめぐって、様々な問題は起こっています。過去と現代を同一視することは出来ませんが、例えば、NGT48の問題でも、世論の大きなうねりが事態を動かしました。世論とともに戦った水の江は2009年に亡くなりましたが、彼女が今の芸能界を状況をみた場合、何を思うのでしょうか。

<参考文献> 井上雅雄「戦前昭和期映画産業の発展構造における特質―東宝を中心として」『立教経済学研究』第56巻第2号(2002年10月)。 中村正明「戦前期日本の映画労働組合の変遷」『大原社会問題研究所雑誌』第700号(2017年、2月)。 中山千夏『タアキイ―水の江瀧子伝』(新潮社、1993年)。

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