過労死や過労自殺を防止することは国の責務だとする「過労死防止法」が、11月1日に施行された。これを受けて11月14日、厚生労働省(東京・霞が関)の講堂でシンポジウムが開催された。
過労死問題に取り組む弁護士や、働き過ぎによって夫や子どもを亡くした遺族が登壇し、過労死の悲惨さを訴えた。
●勤務先ではなく「あの世」に行ってしまった
東京過労死を考える家族の会の中野淑子さんは、1987年の冬、公立中学校の教員だった夫をくも膜下出血で失った。夫は52歳だった。
「夫は、新しく赴任した学校で、3年生の進路指導資料や学期末の成績処理などを、自宅に持ち帰ってやっていました。英語の教科担当のほか、校務主任などの活動もとても多く、『こんなに仕事が多くては、死んでしまうよ。でも1年間は我慢するか』と、困惑した様子で話していました」
夫の「死んでしまうよ」という言葉は、9カ月後、現実になった。
「くも膜下出血を発症する直前は、疲れ果てて、娘に手を引っ張られてやっと起きる有様でした。ふだん愚痴など言わない夫が『登校拒否の生徒の気持ちがわかるなあ』と言い、ぐったり椅子に崩れこむことが多くなりました。
そして12月22日の朝、『あと2日頑張れば冬休みだ。自分を励まして行くかー』と言って家を出て、学校ではなく『あの世』に行ってしまったのです」
●「持ち帰り残業をするのは、仕事が終わらないから」
夫の死は過労が原因だと確信した中野さんは、地方公務員災害補償基金に公務災害申請をした。しかし、その申請は認められなかった。「家でやった仕事は、校長が命令したものでないから、校務ではない」「家でやる仕事は、リラックスしていたであろうから、ストレスはないはずだ」というのが、却下の理由だった。
中野さんは「家への持ち帰り残業をするのは、学校では到底終わらないからです。いちいち校長に命令されてやるものではないのです」と反論。最終的に5年近くかけて、夫が行っていた「持ち帰り残業」が公務だと認められたという。
「生徒のため教育のためにと、愛と情熱を燃やして頑張った代償が過労死なんて、理不尽すぎます。このたび、悲願の『過労死防止法』が制定されました。今後、この法律に魂を入れ、『過労死のない社会』を目指して機能させていかなければなりません」
中野さんはこのように語っていた。
●「このまま生きていくことは死ぬより辛い」
兵庫県の西垣迪世さんは、2006年に息子の和哉さんを亡くした。27歳という若さだった。
和哉さんは神奈川県の大手電機メーカーの子会社にシステムエンジニアとして入社したが、長時間労働による過労で、2年後にうつ病を発症した。
「仕事は朝9時から翌朝の8時半まで続き、ほぼ37時間連続で働く日すらありました。さらに、一晩徹夜して仕上げたプログラムを、ゼロからやり直せと命じられることもしばしばでした。
仕様変更の連続だったため、何のために徹夜して働いているのかわからない、強いストレスにさらされ、納期に追われていました」
和哉さんはうつ病発症後も、薬を飲みながら働いていた。しかし会社からは相変わらず、朝までの勤務や達成不可能なノルマを課せられた。そして体調を悪化させ、治療薬を必要以上に飲んで亡くなった。
●「若者を使い捨てれば、国の未来が失われる」
自死か事故死かは不明だが、遺されたブログには「このまま生きていくことは死ぬより辛い」と記されていたという。
西垣さんは「懸命に育てた母の老後に、愛する息子はおりません。明けない夜はないというけれど、その朝に息子がいない。この母の苦しみは、何をもって報われるのでしょうか」と涙ながらに訴えた。
そして、「少子化の時代、これ以上貴重な若者を使い捨てれば、国の未来が失われます。若者が守られ、働くことによって命を落とすことのない社会、働く者も経営者も共に栄える社会になりますように。みなさま、ともにこの国の働き方を変えてまいりましょう」と、会場に向かって呼びかけた。