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カスハラを生んだ「お客様は神様」論、三波春夫の「真意」はなぜ捻じ曲げられた?
画像はイメージです(bee / PIXTA)

カスハラを生んだ「お客様は神様」論、三波春夫の「真意」はなぜ捻じ曲げられた?

客からの暴言など「カスタマーハラスメント(カスハラ )」が社会問題になっている。よく引き合いに出されるのが、大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』などで知られる歌手・三波春夫さんの代名詞「お客様は神様です」だ。

だが、三波さんは「客に媚を売れ」という意味でこの言葉を発したわけではない。「お客様は神様」がどうして誤解されるにいたったかを資料とともに振り返ってみたい。

●「××は神様です」見出しで遊ぶメディア

三波さんの著書『三波春夫でございます』(講談社、1993年)によると、「お客様は神様です」の初出は1961年春に関西地方であった公演での一幕だった。

「司会の宮尾たか志君が『座長、今日のこのお客様をあなたはどう思いますか』というので『そりゃもう、ありがたい。お客様は神様のようです』と答えたところが、会場の神々がヤンヤヤンヤノの大笑いとなったのです」(『三波春夫でございます』)

観客の反応が良く、興行師からの依頼もあって、ステージでこのやり取りを幾度とやることになったという。

ただし、米川明彦『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』などでは、「お客様は神様です」の流行は約10年後の1972〜73年に分類されることが多い。『週刊プレイボーイ』(1973年12月18日号)には次のような記述があった。

「47年(編注:昭和。1972年)から今年にかけては<お客様は神様です>という三波春夫の言葉がレッツゴー3匹(編注ママ)に受けつがれてよみがえり」

レツゴー三匹は関西の漫才トリオ。自己紹介で「じゅんでーす」「長作でーす」に続いて、リーダーの正児が「三波春夫でございます」と仰々しく挨拶して、つっこまれるギャグで知られた。彼らを通して、「お客様は神様です」は三波さんの代名詞になる。

その浸透具合は雑誌の見出しにも表れている。たとえば、三波さんが朝5時台のテレビ番組でキャスターを務めると、週刊誌には「早起き老人は神様です」(『週刊朝日』1988年8月26日号)という見出しがとられた。

大学の文化祭に呼ばれると「学生は神様です」(『週刊読売』1992年11月1日)、宗教についての記事では「神様はお客様だけ」(『女性セブン』1993年6月10日)。いずれも本文中に三波さんが語った形跡はない。

●求道者ならではのエゴイズム?

では、三波さんはどんな意味合いでこの言葉を使ってきたのか。三波さん自身、「テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明がつかない」(『歌藝の天地』)としているので、いくつかの引用を示したい。

「もとはといえば叔父からいわれたことがベースになっているんですね。『お客さまというのは、実に厳しい目を持っていらっしゃるんだ。それに応えるよう、いつもキチンとしたことをしないと男の恥だぞ』という」(『BIG tomorrow』1995年11月号)

「私のために、時間をさき、入場料を支払って、わざわざ来て下さったお客様に、失望や落胆を与えることになったら、芸能者として死ぬほど恥ずかしいことだ。〔……〕だから、私はつねに最高の歌を、本当の演技をしなければならない。『神をうやまい、神を恃まず』――その時、はじめて『神様』という名のお客様の姿を見ることができるのです」(『三波春夫でございます』)

「自分がベストの状態で藝に集中できているかいないか、それを映すのがお客様であり、その意味でお客様は絶対者である。だから、神様なのです」(八島美夕紀『ゆく空に 三波春夫、母、そして私』集英社インターナショナル、2002年)

これらからは、三波さんが客を喜ばせようと一生懸命であると同時に、エゴイスティックなまでに自身の芸を高めようとしていることが読み取れる。このことは以下のインタビューにも表れているのではないだろうか。

「月並みかもしれませんが、自分と競争しているという気がします。〔……〕どんな光を発し、どんな笑顔で、どんな言葉で人々に接しているかによって、その人の値打ちが決まってくる。それも、人様が決めてくれるもんだと思いますね。

じゃ、自分はなにをすべきかというと、結局、自分を磨くしかないんじゃないですか。光を発するためにね」(『NEXT』1992年9月号)

「やっぱり、もとは自分なんですね。神は心の中に住んでいる――そうではないのかな、という気がいたします」(同上)

●「お客に媚びるに事欠いて……冗談じゃない」

だからこそ三波さんにとって、舞台は客に媚びる場ではなく、「神様」との真剣勝負の場、自分を修練する場だった。そこには「神様の言いなり」になる姿はない。「お客様=お金をくれる人=神様」ではないのだ。

三波さんが33歳でデビューした頃のこんな逸話がある。かつてコンサートやライブでは、ファンが舞台に紙テープを投げ入れることが良くあった。当たると危ないし、テープで身体を切ることもあったという。

「お客に媚びるに事欠いて、手のひら切りながら歌えるもんか。冗談じゃない。テープは絶対に投げないでくれ――地方公演に出たとき、お客様に断ったんです。

舞台に上がったら真剣勝負で、私たちは一生懸命、歌ってる。これだけは守ってください、と場内放送もさせました」(同上)

「あるときチンピラたちが前に四、五人かたまって『テープを受け取れ』というんです。こちらは受け取らない。〔……〕『あんた、歌を聴きにきたんだろう』『そうだ』『じゃ聴けよ。そんなわかんないこというんだったら、あとでおれがよく説明してやるから、楽屋にこい!』『行くよ!』なんつって、とうとうこなかった(笑)」(同上)

●大勢の人が「お客様」と相対しているから…

では、どうして「お客様は神様です」は誤解されてしまったのか。

この言葉が広まった理由について、三波さんの娘で「三波クリエイツ」代表取締役の三波美夕紀さんは、次のように分析している。

「やはり、たとえジャンルが違っても大勢の人たちが、仕事の上でご自分の〝お客様〟と相対しておられるからなのでしょうか」(『昭和の歌藝人 三波春夫』さくら舎、2016年)

元の言葉はプロ歌手の心構えについてだが、三波さんのような「プロフェッショナル」「求道者」には誰もが憧れる。そうありたい、そうあってほしいという願望が本来の意味を歪ませていったのかもしれない。

「三波春夫の『お客様は神様です』の『お客様』は聴衆、オーディエンスです。飲食店のお客様、タクシーの乗客、営業先のクライアントなどのことではありません。欧米の『お客様は王様』や、『The customer is always right.』などの格言や箴言とは、まったく種類も意味も、違うのです」(『昭和の歌藝人 三波春夫』)

●「お客様は神様」に飛びついた「経営者」たち

ビジネス作家の中山マコトさんは著書『お客様は神様か?』(毎日コミュニケーションズ 、2008年)の中で、経営者の責任を指摘する。

高度経済成長期には「お金こそが神様だった」。しかし、お金が神様とは直接すぎる。そこで経営者たちは「お金を落としてくれるお客さんを『神様』と呼べばよいのだ」と考え、三波さんの言葉に飛びついたのだと分析している。

実際に物や店舗が少なく、客側の選択肢が少なかった時代は、間違った「お客様は神様です」でも良かったと、中山さんはいう。「いらっしゃいませ」の言葉通り、来店すればお金を落としてくれたからだ。しかし、今や店と客の立場は大きく変化している。

「国会図書館」や雑誌専門の「大宅壮一文庫」のデータベース検索によると、1990年代ごろから「お客様は神様ではない」といった否定形が増え始める。

中山さんの指摘を前提にすれば、バブル崩壊後の不景気や、1995年の「PL法(製造物責任法)」施行、1999年の「東芝クレーマー事件」など消費者の権利の高まりとともに、「お客様は神様です」を誤用してきたひずみが顕在化したということだろう。

【編注】
・記事の作成に当たっては、三波さんの故郷である新潟県の「長岡市立中央図書館」のレファレンスサービスを活用した
・三波春夫オフィシャルサイトにも、「お客様は神様です」の真意についての記述がある(https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html

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