昨年のおおみそかに放送された紅白歌合戦、なにより圧巻だったのは「ヨイトマケの唄」を歌った美輪明宏さんのパフォーマンスだ。テレビ朝日『オーラの泉』など、バラエティ番組でしか知らない世代にすれば、男装した美輪明宏さんに驚き、その歌声に感嘆の声を漏らしただろう。
よく知られた話であるが、この「ヨイトマケの唄」は、「要注意歌謡曲」として、つまりは「放送禁止歌」として、テレビでの放送が自粛されていた時期がある。歌詞の中に、差別用語とされる言葉が含まれているからだ。それにしても皮肉だ。かつてテレビでの放送は、差別を助長するため不適当とされた楽曲が、紅白という大舞台で、国民の感動を呼んだのだから。
そもそもこの放送禁止歌とは、マスコミの自主規制である。しかし、表現の自由は、憲法21条でも保障されている。もしも当時、美輪明宏さんが「ヨイトマケの唄は、差別を助長するものではないわよ。放送禁止は表現の自由を侵害している!」と訴えたとしたら、法律的にはどのような判断がくだされたのだろうか。テレビ局の自主規制と、憲法で保障されている表現の自由の関係性について、齋藤貴弘弁護士に聞いた。
●アーティストと同様、テレビ局にも「表現の自由」がある
「国が法律によって一定の歌の放送を禁止した場合、放送局とアーティストの表現の自由の侵害が問題になりますが、本件のような放送局の『自主規制』の場合は、もう少し複雑です」
このように齋藤弁護士は述べたうえで、放送局による自主規制についてどのような問題があるのか、次のように説明する。
「アーティストに表現の自由が保障されるのと同じく、テレビ局にも表現の自由として報道の自由が保障されています。特に各種放送は、活字メディアに比べて、視覚や聴覚にダイレクトに働きかける特質があり、趣向を凝らした演出等によって視聴者に対して大きなインパクトを与えます。このような放送の特性から、放送局は、『放送基準』という自主的な制限を設け、報道内容に配慮しているのです」
では、「ヨイトマケの唄」については、どうなのだろうか。
「歌詞の中にでてくる『ヨイトマケ』や『土方』は、単語だけを取り出すと差別的表現なのかもしれません。しかし歌詞全体、さらには振付も含め、楽曲全体を総合的にみると、差別的な意味合いなど全く感じられず、むしろ、この言葉抜きに美輪氏が伝えたかったことを表現することなど不可能のように思えます。
放送局が自主規制の範囲や程度を判断するのは報道の自由にとってきわめて重要なことですが、本件のような短絡的ともいえる画一的・官僚的な自主規制は、放送局が報道の自由を有効に行使しているものとは到底思えません。したがって、美輪氏の表現の自由に対する制限を正当化するとはいえないでしょう」
齋藤弁護士が指摘するとおり、アーティストに「表現する自由」があるのと同じように、テレビ局には「放送しない自由」がある。そこにはさまざまな価値判断が働くのは仕方ないとしても、いきすぎた自主規制は、テレビ局の「放送する自由」を狭めることにつながるだろう。それは、視聴者の「知る権利」にとってもマイナスの影響を与えるといえるのではないだろうか。