秋山 昭八 弁護士 インタビュー
弁護士を目指したきっかけ
若い頃は政治家を志していましたので、その手立てとして弁護士になろうと思いました。弁護士になってからも政治家になろうと思い、30年くらい前に10人の弁護士を集めて1つの政党を作って参議院の全国区に出馬したこともあります。なかなか政治家になるのは難しかったのですが、弁護士になろうと思ったきっかけはこのようなことです。
学生時代
中央大学には、司法試験に挑戦する司法研究室が4つありましたが、早く弁護士になろうと思い、大学2年生の頃、研究室に入りました。この時の入室試験もなかなか難しいものでした。そして研究室で3年生、4年生と勉強を続け、卒業した年の夏の試験で全国10番、中央では2番で合格しました。当時中央大学で1番だったのは刑事訴訟法で有名な渥美東洋先生でした。
勉強で工夫した点
特に工夫した点はないんですね。先輩が指導して下さったので、その通りに勉強していました。朝の9時から夜の10時ころまで、雨が降っても雪が降っても毎日勉強していました。
印象に残っている案件(事件)
私が弁護士になったのは昭和33年ですが、戦後の日本では外交よりも、内政問題が重要で、特に教育問題と労働問題が重要な問題でした。弁護士になって3年目くらいの時に、森山代議士からお誘いがあり、自民党の労働関係委員会で、一緒にお仕事をしました。
一般的な労働関係でいえば、戦後の一大労働事件の三井三池の労働事件にも参加しました。当時は日本の高度経済成長が始まっている時代で、日本の労働問題が春闘という方式で大きくなっていって、太田事務局長が大幅なベースアップ闘争を率いていました。
昭和33年から春闘が始まり、45年頃の第一次石油ショックで大幅なベースアップは難しくなって春闘は終了しました。その後は大きな労働争議が少なくなり、今度は中小企業に問題が移ってきて、全国の中小企業の人たちを支援して歩きました。
先ほども言った通り、教育も問題となっていました。当時、日教組がことごとく文部省の教育に反対をし、教育現場が混乱していたんですね。全国でも岐阜、青森、福岡などで荒れる教室が出てきたり、日教組の先生が良いように教科書を使わずに授業をしたり、チラシを持ってきて、原子力潜水艦の反対などを社会科の授業で取り扱ったりしていました。そこで、そのような先生を懲戒処分にしたりなど、日教組対策をしていました。
その中で、東京教育大学の家永教授が文部省の教科書検定が憲法の思想良心の自由に反すると教科書検定違憲訴訟を起こして、国・文部省が被告になり、国・文部省に依頼され担当しました。昭和40年から、控訴・上告と30年くらい続いた訴訟で、ある意味で私のライフワークでした。
この訴訟を通じて国の歴史教科書・公民教科書とはどうあるべきか、ということも勉強して、ライフワークとして良い仕事ができたと思っているんですね。
関心のある分野
先述したような経緯で、今でも新潟、仙台、熊本などの教育委員会で教育関係の事件をやっています。労働事件もやってはいますが、高度経済成長の頃と違い、昭和50年以降の低成長で労働事件が少なくなってきているので、出かけていくことは少なくなりました。
それから、高度成長時代の田中内閣の「列島改造論」ということで、不動産が値上がりした頃からは不動産の競売とか明け渡しなどの事案も関心を持ってやってきましたね。
弁護士の仕事でやりがいを感じるとき
国や県が訴えられた時に代理人を担当していたので、大げさに言えば自分の命をかけて闘ってきた非常にやりがいのある仕事でした。
休日の過ごし方
旅行をしたりゴルフをしたり、本を読んだりしています。最近は若干のジョギングをしたり簡単な体操をしたりして過ごしています。