ネットでの誹謗中傷が後を絶たない。いつの間にか拡散し、まるで真実のように流布していたり、本人の生活や心を深く傷つけたりしている。しかし、訴えようにも匿名の投稿の場合だと、早期に個人を特定するのための手続を始めなければ、損害賠償を求める裁判にこぎつけられないことも少なくない。
従軍慰安婦報道で知られる元朝日新聞記者・植村隆氏の長女に対する誹謗中傷の裁判で、長女側の弁護団に参加した斎藤悠貴弁護士は「特定のために何度も裁判が必要で、時間と費用の勝負になることが多い」と課題を口にする。
この裁判は、ツイッターに当時高校2年生だった長女の名前などを顔写真つきで示し、誹謗中傷したとして、投稿主に損害賠償を求めたものだ。昨年8月に東京地裁で出た判決では、投稿主に原告の請求通り170万円の損害賠償命令が出た。
判決が報じられると、弁護団の執念にも反響があった。弁護団は投稿者を特定するため、事前にツイッター社とプロバイダに対しても裁判を起こしていた。斎藤弁護士によると、加害者に対するものも含め、合計4回の裁判が必要なこともあるという。今回の訴訟の振り返りと誹謗中傷訴訟の課題について、斎藤弁護士に聞いた。
●損害賠償を求めるまでの長い道のり
匿名ユーザーからの誹謗中傷に対し、損害賠償を請求する場合の流れは次のようになる。
(1)IPアドレス(ネットでの住所)とタイムスタンプ情報の取得
相手を訴えるには、投稿主を特定する必要がある。まずは問題となる投稿があったサイトの管理者に対しプロバイダ責任制限法に基づき、投稿主のIPアドレスとタイムスタンプの情報を請求する。植村氏の長女の裁判では、ツイッター社が相手だったため、東京地裁で情報開示の申し立てを行った。
(2)プロバイダの特定
無事、情報が開示されたら、「Whois」などのIP検索にかけて、投稿主が使用しているプロバイダがどこかを調べる。
(3)投稿主の特定
次にプロバイダ責任制限法に基づき、プロバイダに対して、投稿主の氏名と住所の開示を要求する。「IPアドレスとタイムスタンプを示して、この時間に、このIPアドレスを使用している人は誰ですかと聞くわけです」(斎藤弁護士)。しかし、任意の請求では、個人情報保護の関係で教えてもらえず裁判になることが多いという。
斎藤弁護士によると、特にこのとき「ログ(通信記録)の保存期間」が問題になることが多いそうだ。「プロバイダが持っているログは、一定期間が過ぎると消去されてしまいます。裁判をしていること自体は消去を止める理由にならないので、『判決が出ました、開示してください』となっても、『昨日消えちゃいました』ということが起こり得ます」
そこで、プロバイダが特定できたらすぐに、該当するログの保存を依頼しなければならない。簡単な連絡で応じてもらえる場合もあるが、拒否された場合はログの消去を禁止するための裁判が必要だ。
(4)損害賠償請求
相手が特定できたら、ようやく加害者相手の裁判となる。「名誉権やプライバシー権の侵害が認められないと、前段階の裁判で情報開示は認められません。ここまで来れば、勝てる可能性は非常に高い」と斎藤弁護士。
ただし、「少ない賠償額しか認められない可能性はあります」。ここまで苦労しても、報われるとは限らないのだ。
●裁判システムの課題と解決策は?
こうした点も踏まえ、斎藤弁護士に、被害者救済の観点から現状の裁判システムの課題を聞いた。
ーー裁判にどういう課題を感じるか?
「一番は、プロバイダによってログの保存期間がバラバラということです。多くは3カ月から1年くらいと言われ、それより短いところもあります。
相談を受けた段階では、投稿主がどのプロバイダを使っているか分かりませんから、裁判を起こしても、加害者が特定できるかどうかは『賭け』の状態です。被害者本人が投稿に気づくのが遅れたり、1回目の裁判に時間がかかったりすると、賭けの度合いは尚更高まります。
たとえば、植村さん(長女)の裁判では、ツイッター社というアメリカの会社に情報開示を求めるため、専門業者に英訳を依頼しました。これだけで20万円です。しかし、それだけ費用をかけて、ツイッター社から情報が開示されても、プロバイダにログが残っていない可能性がありました。
もちろん、長期間ログを保存するには費用がかかりますし、一律にしてしまうと今より保存期間が短くなる会社も出て来ます。なので調整は必要になりますが、法律で期間を定めること自体はあって良いはずです」
ーー裁判の回数については?
「裁判の回数が多いと、その分費用がかかります。1つの裁判手続きで、投稿主の特定から損害賠償請求まで全部できるような仕組みを検討しても良いでしょう。たとえば、損害賠償請求を『被告不明』のまま提起しておいて、その手続きの中で開示請求ができるような形です。
プライバシー侵害や名誉毀損かどうかの判断は、投稿主を特定する段階でも行われます。裁判が1つで済めば、弁護士費用を抑えられるし、時間も短縮できます。実際、アメリカには似たような仕組みがあるようです」
ーー現状では費用がかかる?
「植村さんの裁判で、我々は投稿主に対して損害賠償170万円を求めました。内訳は慰謝料100万円と、合計3回の裁判・調査費用70万円(ツイッター社に対する裁判費用20万円、翻訳費用20万円、プロバイダに対する裁判費用20万円、損害賠償の裁判費用10万円) です。
裁判所が全額を認容してくれたから良かったのですが、たとえば調査費用や慰謝料の認定額が低かったら、『費用倒れ』になっていた可能性もあります。もっとも最近では、サイト管理者やプロバイダに対する裁判費用を調査費用として投稿主に負担させる判決が多く出てきています」
ーー今後、金額があがる可能性はあるのか?
「ネットは被害が際限なく広がる可能性があります。今後は『ネットだから』損害賠償の金額を上げるべき、という議論が深まってくるのではないでしょうか。
植村さんの例でいくと、我々は誹謗中傷による精神的損害は300万円を下らないのではとも考えましたが、裁判ではその一部として慰謝料100万円を請求することにしました。これに対し、判決では精神的損害は『200万円が相当』との裁判所の判断が述べられました。我々は差額の100万円を追加で請求することはしませんでしたが、裁判所が請求額以上の額を相当とするのは極めて異例のことです。それだけ、被害が甚大だと判断したのだと思います。
ネットにはネットの良さがあります。正当な批判であれば、言論の自由で守られるべきですが、誹謗中傷は許されません。金額が上がることで抑止力になればと思います。
私はこれまで、弁護士への相談が遅れたために投稿主を特定できなかった方を見てきました。ログの保存期間の問題もありますので、ネットでの誹謗中傷を受けて対応に迷われたときは早めに弁護士に連絡して、投稿主特定の見込みや費用、どのように対応するのが最善なのかといったことをご相談いただくのが良いと思います」