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小山田さん辞任で「終わらせてはいけない」 障害者問題に取り組む弁護士が考える 「ほんとうの償い」
『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号(弁護士ドットコム撮影)

小山田さん辞任で「終わらせてはいけない」 障害者問題に取り組む弁護士が考える 「ほんとうの償い」

東京五輪・パラリンピックの開会式で音楽を担当することになっていたミュージシャン、小山田圭吾さんが、過去に雑誌のインタビューで、学生時代のいじめを告白していた問題は波紋を広げて、とうとう開幕4日前に小山田さんが辞任する結末をむかえた。

問題となったのは、音楽雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』(1994年1月号)と『クイック・ジャパン』(1995年vol.3)だ。

これらのインタビュー記事の中で、学生時代に「いじめ加害者」だったことを告白。障害者の同級生を跳び箱の中に入れたり、マットの上からジャンピング・ニーパットなどをしたり、うんこを食べさせたりしていたなどと自慢げに語っている。

ネット上では、小山田さんのいじめ告白は、たびたび問題視されてきたが、7月14日に東京五輪・パラリンピックの音楽担当が発表されたことで、ふたたび蒸し返された。その後、批判が相次いでいた。

小山田さんは7月16日、自身のツイッターで謝罪文を掲載。記事の内容について事実と異なる内容も記載されているとしながらも、「私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳ない」とした。

その後、小山田さんは辞任を発表した。

今回の騒動について、障害者問題やいじめ問題にとりくむ杉浦ひとみ弁護士に聞いた。

●いじめでも「犯罪」にあたる場合がある

――小山田さんが告白している内容は法的にどんな問題があるのでしょうか?

まず、「いじめ」といえども、刑法によって処罰される犯罪にあたる場合があります。相手を殴ったり、蹴ったりという「有形力」を行使した場合、暴行罪にあたります。相手をケガさせて、その結果、死亡させた場合、傷害罪、傷害致死罪となることもあります。

跳び箱などに閉じ込める行為は、逮捕・監禁罪にもなります。異物を食べさせるような場合、無理やりする必要のないことをさせた強要罪、体調に異常があれば傷害罪、暴言の内容によっては名誉毀損・侮辱罪なども考えられます。

これらは刑法という法律に要件が挙げられている行為です。

――そこまで至らない「いじめ」はどうでしょうか?

そこまでに至らなくても、被害者が嫌だと思っていれば、不法行為にあたります。

子どもがいじめに苦しんで自殺を図る事件が何度も起きて、その都度、大きな社会問題になりました。そこで、2013年に「いじめ防止対策推進法」ができて、いじめが定義されるようになりました。

<この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう>

ここでのいじめの範囲は、被害者の感じ方を基準とするので、比較的広いですが、学校など、教育の現場では、子どものいじめ被害に細やかに留意すべきであることを示しています。

障害のある子に対する場合とそうでない場合で、この法的問題は異なりません。

障害のある子は「心身の苦痛」を感じないのではないか、という疑問を持つ方があるかと思いますが、それは聞き取る側の偏見(どうせ感じないだろう)とか、聞き取りの力(苦痛であるか問うても答えないとか、「苦痛だ」といわない)の問題だと思います。

●「社会意識がどうあっても、人間としてやっていいことではない」

――小山田さんは1969年生まれです。現代の社会意識と違いを指摘する声もあります。

いじめをおこなっていたのが中・高のころとすると、1980年代前半だと思われます。当時の障害者に対する法制度や、社会意識がどうあっても、人間としてやっていいこととは思えません。

人権問題(主に子ども、高齢者、障害者、女性などの弱者)は、国連の取り組みにリードされて、国内の法整備がおこなわれることが多く、障害者問題もそうでした。当時から国連は、1970年代ごろから障害者問題に取り組んでいましたが、1981年を国際障害者年と定め、各国の取り組みを求めました。

日本もこれを受けて1981年には、関係行事・事業がおこなわれるなど、障害者施策の総合的推進が、それまでよりは大きく進むことになりました。

国連においては、引き続き障害者に関する問題に取り組んでいく必要から、1983年から1992年を「国連障害者の十年」と定め、各国の取り組みを促しました。

このように、日本でも1980年代初頭から障害者問題に取り組んでいきました。それまで障害者の人権は顧みられてきませんでしたが、やっと平等な人権の主体として目を向けられてきたころです。

その後、弱者に対する虐待防止法が徐々に作られて、権利保障が社会に強く意識されていきました。2000年に児童虐待防止法、2001年にDV防止法、2005年高齢者虐待防止法、2011年に障害者虐待防止法が制定されました。

それまでも子どもをはじめ、彼らが虐待されていいと社会が認めていたわけではありませんが、虐待を虐待と意識することなく人権侵害が見過ごされていた時代だったといえます。

このように見てくると、障害者を虐待してはいけないことを法をもって示さなければいけなかったのが、ほんの10年前ということで、障害者に対するいじめが許されないという社会意識は、相当遅れていたといえます。

――小山田さんのインタビュー記事は1994年・1995年のことです。

たしかに小山田氏が、いじめをおこなっていた時期、そのことを臆面もなく公に語っていた時期は、社会が今ほど障害者の人権を意識していなかった時代であったとはいえます。人間として許せないことですが、障害のある子にいじめをおこなった過去のある方は少なくなかったのではないかと思います。

また、当時は、子ども全般が、しつけの名のもとに親や教員から暴力を受けることもまだまだあり、それが虐待といわれなかった時代ですから(児童虐待防止法が2000年に成立)、小山田氏の当時の行動が自らの非人間性によるばかりではなく、自らもその被害の客体であった時代でもあるわけです。

ただし、いじめた当時からは10年以上経過して、30歳近くなった1995年にそれを平然と語るというのは、人権意識が育っていないのではないかという問題はあったように思います。

●小山田氏は「謝罪」を実現するべき

――20年、30年のときを経て、いじめの加害をどう捉えていくべきでしょうか?

いじめ当時の行動も、1995年の発言も問題がありますが、現在の小山田氏がこの過去をどう考えているかはとても重要です。

障害者の人権がいわゆる健常者の人権と同様に保護されるものであることについて、国内外の意識はすでに定着しています。また、いじめが人の心身を大きく侵害するものであること、その精神的被害がいじめられたとき以降も深く重く影響を与えるものであることも明らかにされています(例:いじめによる自殺・PTSD)。

今回、オリンピックの音楽担当に抜擢されていたところ、過去の情報によって、結局この重責を辞されましたが、小山田氏は、これでこの問題に幕引きをすべきではありません。そして、炎上騒ぎした社会も、目をそらすべきではありません。

過去の障害者へのいじめ事実と、1995年になってからも、そのことの意味に気づかれなかった証拠が残されています。今、この問題がどのように認識され、どのような行動を取られるかを注視したいです。

――小山田さんは「被害を与えた方を探して謝罪したい」という発言をしています。

まず、これを実現させましょう。今回、知的障害者やその親でつくる「手をつなぐ親の会」が声を上げました。この会が中心となって、小山田氏とじっくり対談し、知的障害のある方とも会っていただき、その方たちを理解したうえで、現実の謝罪を実現させるべきです。

そのことが意義を持つためには、小山田氏と何カ月かかけて語り合い、勉強をしていただき、問題を心に落としたうえで、謝罪の対面をしていただく必要があります。

仮に、被害者が見つけられなかった場合には、障害者団体で「障害ある人へのいじめ」について、シンポジウムなどを催してもいいと思います。小山田さんは、障害のある方へのいじめについては、その心の意義を伝える発信者になっていただきたい。それが、あれだけの記事を残すことになった償いだと思います。

――障害者に対するいじめ特有の問題はあるか?

障害のある方は「いじめても嫌がらない、わからない(と思われている)、訴えない、訴えられても誰も取り合わない」と社会が見ている構造があります。それが安易な加害を許すことにもなってしまいます。いじめに脆弱だといえます。

でも、先ほども述べましたが、嫌がらない、訴えないは、聞く側が聞く力を持っていないにすぎません。

誰でも同じように、嫌なことは嫌と感じています。そして、その体験は、自己に対する価値観を低下させます。「そういった嫌なことをされてもしかたない人間であること、それに耐えなければいけない人間であること」を心と体に染み込ませていってしまいます。

この体験は、自己の人権が侵されることが起こっても「NO」をいう力を失わせます。いわゆる健常の方であれば、自己の過去の嫌な体験を人に語り、書物を読み、法的に闘って克服し、何が正しかったかを自己の中で理解し直し、嫌だったいじめ体験を与えたいじめは間違ったものであり、加害者の違法・不当を明らかにして納得することができます(もちろんそれでも心の傷は残りますが)。

しかし、知的障害がある方は、このような回復をする力と機会に恵まれず、自己肯定感だけを貶められたまま生きていくことになります。より大きな被害を与えているといえるのです。

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