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2歳置き去り死、出欠連絡せず…保育園による「謝罪」の意味とは? 道義的責任と法的責任の境界線を考える
写真はイメージ(M&K / PIXTA)

2歳置き去り死、出欠連絡せず…保育園による「謝罪」の意味とは? 道義的責任と法的責任の境界線を考える

岡山県津山市で2歳の子どもが車内に置き去りにされ、熱中症で死亡した事件。保育園に送り届けるのを忘れたとされる祖母が逮捕された。では、登園してこない子どもの出欠確認をしていなかった保育園の「責任」をどのように考えればよいのか——。

弁護士が「保育園には出欠確認の法的な責任はないが、道義的責任はある」との考えを記事で示したところ、「保育園に道義的責任まで認めてよいのか」といった反応がみられた。

【前回記事はこちら(2歳置き去り死「保護者に出欠確認しなかった保育園」に向かった批判の矛先、「救えていたかもしれない?」園の責任を考える)】

道義的責任を果たそうとするとき、その「落とし所」はどうあるべきだろうか。吉永公平弁護士が改めて、法的責任と道義的責任の違いについて解説する。

ともすると、一つの失態に見える出来事に対して、苛烈な責任追及が始まる時代だ。批判的な声にどこまで「応答」するべきか。そのヒントも見つけたい。

●道義的責任をどのように説明する?

——前回の記事への反応には、園児の出欠確認に関して、保育園の法的責任は認めないものの、道義的責任を認めた吉永弁護士の考えを受けて、「保育園の『責任』を認めるべきではない」との意見が少なからずありました。どのように受け止めていますか。

保育園による出欠確認・連絡について、(1)保育園にその義務はないが、できれば出欠確認・連絡をしたほうがいいという意見のほか、(2)保育園はできれば出欠確認・連絡をしたほうがいいとまでは思わないという意見、さらには、(3)出欠確認・連絡はしないほうがいいといった意見も現にあります。

後者の2つの意見は保育園に道義的責任さえないという考えです。国は自治体への事務連絡で保育園に出欠確認・連絡を求めていますが、それを否定的に評価するものとなります。そのような考え方も含め、保育園はどうあるべきかを社会全体で議論する必要があるでしょう。

私は前回の記事では、保育園には法的義務はないことを前提に、保護者の責任が大きいとはいえ園児の命に関わること、保護者以外には保育園しか園児が登園していない情報を入手し難いことから、国の事務連絡は道義的責任に関するものであると限定的に捉えた上で是認しました。

前回の記事では、法的責任と道義的責任の違いについて、損害賠償義務の有無以外には説明していませんでした。記事の主眼は、保育園には法的責任がない(損害賠償義務を負わない)ことにありましたが、たしかに道義的責任も「責任」の一種です。

そこで、今回は「責任」の種類と、「責任」があることの意味について、もう少し説明します。

●法的責任・道義的責任がない状態=「無関心」でも構わない場合

話を単純化すると、保育園の「責任」には、「違法(悪い)」な行為をした場合に損害賠償義務を負うといった意味での法的責任と、「適法(悪くない)」な行為であったため損害賠償義務を負わないが、「心情的に申し訳ない」といった意味での道義的責任があります。

保育所保育指針に記載された「保育所の社会的責任」は、法的責任と道義的責任が混在している印象を受けます。

道義的責任の「心情的に申し訳ない」とは、「そこまでする義務はないものの、できればやってあげたい。しかし今回はやってあげられなくて申し訳ない」というものです。

このような道義的責任と似て非なるものが、単なるサービスです。サービスは「やってあげているのだからノークレームでお願いします」と言い換えられるようなものかもしれません。

世の中の全員ではないとはいえ、一定数の方から求められているものについては、道義的責任に結び付くものが少なくないと思います。

この点は「コンプライアンス」という言葉とも通じます。

コンプライアンスは「法令遵守」(違法なことをしない)という狭い意味で用いられることがあります。しかし、近時は「社会的な要請に応える」(違法でなければ何でもいいとはいえない)という意味で用いられることが増えてきました。

社会的な要請に応えるためには、法的責任のみならず道義的責任にも注意を払う必要があります。

法的責任も道義的責任も負わない場合は、一切の「責任」なしとなります。

これは「無関心」でも構わない場合であるということはできそうです。「私にそんな話題を振らないでください」と言えるような立場の場合とも言い換えられましょうか。

●これって本当?「責任を認めたことになるから、安易に謝罪するな」という言説

——報道では、子どもの通っていた保育園が事故直後に保護者説明会を開き、電話確認していなかったことなどについて謝罪したとしています。このような場面での「謝罪」はどのような意味をもつのでしょうか。

何らかの「責任」がある場合には、「責任」の取り方の一つとして謝罪をすることがあります。法的責任を負う場合の謝罪の意味は、「私・私たちが悪くてすみません」となります。

私はこのような謝罪を「非を認める謝罪」と呼んでいます。一方、道義的責任のみを負う場合の謝罪の意味は、「私・私たちは悪くないのですが、ご期待に添えずにすみません」となります。

私はこのような謝罪を「感情に配慮した謝罪」と呼んでいます。法的責任も道義的責任も負わない場合は、謝罪ではなく「お見舞い申し上げます」「お悔み申し上げます」という配慮の言葉か無言(無反応)となります。

よく「責任を認めたことになるから、安易に謝罪するな」と言われますが、この場合の「責任」は法的責任のことを指すことが一般的です。「安易に道義的責任を認めるな」という意見もあり得ますが、過度に「感情に配慮した謝罪」を控えることにより、相手方との関係を悪化させることのほうが双方にとってよくない場合もあろうかと思います。

また、「責任」の他の取り方として、「応答」があります。「責任」は英語でresponsibilityですが、responseは応答・反応という意味です。

厳密には、謝罪も「応答」の一種といえます。法的責任も道義的責任も負わない場合に許容される「無関心」からは、この「応答」は出てきにくくなります。

実際に生じた出来事に対して、「どうしてそうなったのか(過去)、これからどうしたほうがいいか(未来)」を考え、相手方を含めた関係者と話し合うことも「応答」の一種です。道義的責任を負う場合、損害賠償のみならず、このような「応答」をする義務もないのですが、「応答」を促すきっかけにはなります。

違法かどうか(損害賠償義務を負うかどうか)という法的責任を離れた場合、道義的責任に関しては「応答」という観点から捉えるのも有益です。

保育園の責任に関して、前回記事で私のとった立場は、「心情的には申し訳ない」として、「感情に配慮した謝罪」をはじめとする「応答」のきっかけとして、保育園の道義的責任を認めるというスタンスでした。

保育園の現場が大変なのは重々承知しているので、出欠確認についても100点は目指さなくていいのですが、道義的責任としてできる範囲での対応をし、50点を目指せればというものです。

みなさんにも、「責任」の種類を問わずに「『責任』の有無」という0か100かの議論をするのではなく、道義的責任の意味を踏まえてお考えいただければと思います。

プロフィール

吉永 公平
吉永 公平(よしなが こうへい)弁護士
名古屋大学法学部卒業、名古屋大学法科大学院修了後、2012年弁護士登録。法律事務所にて勤務した後、2014年春日井市入庁。現在、総務部参事。職員からの法律相談や職員研修、庁内報の発行、学校の生徒への法教育等を主な業務としている。著作に『ズバッと解決! 保育者のリアルなお悩み200』(ぎょうせい)。中京大学総合政策学部(地方自治法)・名古屋学院大学法学部(情報法)非常勤講師や、他の自治体や劇場・病院での研修講師も務める。保育園に通う子どもを持つ父親でもある。

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