歌手の愛内里菜さんと専属契約を結んでいた芸能事務所が、芸名の使用差し止めを求めていた裁判で、東京地裁は12月8日、事務所の請求を棄却した。
判決は、契約条項のうち、契約終了後も無期限で会社側の承諾を必要とする部分について「公序良俗に反するもので無効」と指摘した。事務所側は控訴する方針だ。
「パブリシティ権」(氏名・肖像がもつ顧客吸引力を独占的に利用することができる権利)は譲渡できるのかについて判断を示した今回の判決。エンターテインメント法務に詳しい高木啓成弁護士は「基準を明確に示して、今回の契約を無効と判断したのは画期的」と評価する。詳しく話を聞いた。
●パブリシティ権とは?
たとえば、企業のCMに人気アイドルやスポーツ選手を起用するのは、その人の氏名や肖像(容貌)にお客さんを呼び寄せる影響力があるからですよね。このような影響力のことを「顧客吸引力」といいます。
パブリシティ権とは、自分の氏名・肖像がもつ顧客吸引力を独占的に利用することができる権利です。
具体的には、愛内里菜さんは、「愛内里菜」という芸名のパブリシティ権を保有するので、たとえば「愛内里菜」という芸名や愛内さんの顔写真をプリントしたTシャツを無断で製造販売している業者がいた場合、愛内さんは、パブリシティ権に基づき、差止や損害賠償請求をすることができます。
パブリシティ権は、法律の条文で明確に規定された権利ではなく、判例で認められた権利です。最高裁判所は、パブリシティ権を「人格権に由来する権利」として認めています。
●契約書にはパブリシティ権を事務所に譲渡すると書いてあるが…
このようにパブリシティ権は人格権に由来する権利であるため、人格権を他者に譲渡することができないのと同様、パブリシティ権も他者に譲渡することはできないという学説も有力です。
とはいえ、パブリシティ権は財産的に活用される権利です。ビジネスとして活用するためには、権利を譲渡することも想定されます。
実務的には、「パブリシティ権は事務所に帰属する」と記載されている芸能事務所の専属契約書の雛形も存在し、パブリシティ権は譲渡可能だということが当然の前提のように認識されていました。
今回の事件でも、愛内さんと事務所との専属契約書上、「愛内里菜」という芸名のパブリシティ権は事務所に帰属するとされていました。
今回の判決のひとつめの注目点は、「現段階で、一律に、パブリシティ権が譲渡等により第三者に帰属することを否定することは困難」だとして、パブリシティ権の芸能人から事務所への譲渡が有効となり得ることを明言した点です。
●契約を無効と判断したのは画期的
今回の判例はもうひとつ注目すべき点があり、それは、芸能人から事務所へのパブリシティ権の譲渡性を否定しないとしても、「合理的な範囲を超えて、被告(愛内さん)の利益を制約するもの」であれば公序良俗違反として無効だと判断した点です。
具体的には、(1)原告(事務所側)の利益を保護する必要性の程度、(2)被告(愛内さん側)の不利益の程度、(3)代償措置の有無という3つの基準で判断するとしています。
そのうえで、以下のように認定し、専属契約書上の「パブリシティ権が事務所に帰属する」という合意は無効であると判断しました。
(1)事務所が愛内さんの売り出しのために負担した投下資本の回収は、基本的には契約期間内に行うべきこと
(2)「愛内里菜」の芸名が事務所に帰属することにより、愛内さんは事務所との専属契約終了後に「愛内里菜」の芸名を使うことができず、実質的に、愛内さんは事務所を離れて芸能活動をすることが制約されてしまい、自由な移籍や独立を萎縮させてしまうこと
(3)「愛内里菜」の芸名が事務所側に帰属することについて、事務所から愛内さんへの対価や代償措置が無いこと
2018年以降、公正取引委員会は、芸能人を含むフリーランスとの契約の適正化を進めており、契約期間満了後の芸能活動を制約したり、出演先や移籍先に不当な圧力を加えることは独占禁止法上問題があるという見解を公表しています。
今回の判決はこのような公正取引委員会の動きに沿ったものですが、一般的に裁判所は契約書で合意した事項を無効と判断することに極めて慎重ですので、今回、基準を明確に示して、今回の契約を無効と判断したのは画期的だといえます。
●持続可能な契約への流れ
今回の判決は、企業側があらゆる権利を取得するという従来の契約実務に対するアンチテーゼのようにも感じます。
たとえば企業がフリーランスに提示する業務委託契約書は、ほとんどの場合、「その業務に関して生じるありとあらゆる権利は企業側に帰属する」という金太郎飴のような条項が入っています。
もちろん、このような条項が必要な取引も多くあります。
しかし、その取引ごとの事情や相手方の意向を考慮せず、「いつもこの契約書にサインをお願いしています」という体でこのような契約書雛形を提示すれば、相手方の反感を買いますし、契約書雛形との整合性を確認するような仕事であれば、いずれAIに簡単に置き換わっていきます。
また、やや専門的になりますが、ライセンスの当然対抗(著作権法63条の2)が創設されながら著作権譲渡の登録手続が利用されていない現状では、著作権を譲り受けるよりも、取引内容に沿って必要な範囲に限って利用許諾を受けるほうが企業側にとって有利ともいえます。
これからの時代は、「あらゆる権利を譲渡せよ」というあらかじめ用意した契約書雛形にサインを求めるのではなく、相手方と協議して、個々の取引に応じたきめ細やかな権利処理を行うことが必要とされる時代になっていくのではないでしょうか。