26人の乗船者の内の6人が行方不明のまま、北海道・知床半島は捜索活動を中断せざるを得ない厳しい冬を迎えようとしている。
この事故では、5月までに遺体が発見された14人は実名で公表されたものの、その後は「遺族の強い意向」として匿名発表が続く。記者クラブからの要請を受けた海上保安庁側は「公表に応じてほしい」と家族を説得。これが、家族側の負担になっているという。
「知床観光船事件被害者弁護団」(29名。以下、弁護団)は11月8日、海上保安庁の石井昌平長官と飯塚秋成第一管区海上保安本部長宛てに「被害者の実名等の公表に関する意見書」を提出した。被害者支援に長年携わっている弁護団代表の山田廣弁護士に聞いた。(ジャーナリスト・本田信一郎)
●公表を後悔し、自責の念を感じる家族も
4月23日の事故発生から半年を迎えた10月、幾人かの遺族はメディアの取材に答えていたが、乗船者の氏名は全て公表されているのではない。海上保安庁は9月までに、死亡が確認された乗員2人と遺族の了承が得られた14人の氏名を公表したが、「家族の強い意向で差し控える」として乗客4人と行方不明の6人は匿名のままである。
これに対して海上保安庁記者クラブ(17社)などの報道機関は、9月20日に海保宛てに行方不明者を含む全員の氏名公表を求める申し入れ書を提出している。
この申し入れ書を受け、9月26日に斉藤哲夫国土交通大臣が閣議後の記者会見で「ご家族に実名公表することの公共性の高さを丁寧に説明していきたい」と述べて以降、海保の説得が続けられているのだ。
ところがその説得は、故人が生きた証を残すためにも公表した方が良いなどと、肉親の情に訴えかけるものがあるという。
海の警察といわれる海保だが、多数の犠牲者が出る海難事故はまれなため、被害者と接する機会が警察官ほど多くない。必ずしも被害者に届くとは思えないドラマのような憐みの言葉を向けることは、海保の内圧と外圧に押された末の単純な焦りから生まれているとも言える。
「むしろその説得によって心の中で別れを告げるプロセスを妨害されたように思うご家族や、『公表しないのは悪いことなのか』と悩み、自身を責めるご家族もいます。また、既にSNSなどでの心無い言葉で傷つけられています。なんとしてもそのような2次被害を防止しなければならない。そのための意見書です。内容と提出についてご家族からの異議はありませんでした」
弁護団代表で「北海道弁護士会連合会犯罪被害者支援委員会」設立当初から委員長を務める山田弁護士は語る。
山田氏によれば、氏名公表を巡っての家族の考え方は一様ではないという。
「国や運航会社社長、そして、社会に訴えるために公表する家族。当初は海保の申し入れを受けて公表に応じたものの、過剰な報道と親類縁者にまで及ぶ取材攻勢を受けて後悔している家族。そして、最初から拒否している家族もいます。意見書の趣旨はそれぞれのご家族の意向を尊重して、ご家族が望まない時期や方法での公表が強いられないようにしてほしいというものです」
「犯罪被害者等基本法」3条にはすべて犯罪被害者等は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するとある。
「その権利を尊重してもらいたいのです。斉藤大臣の発言があったので海保の立場も分かるし、報道は国民の知る権利に資する重要なものです。確かに公共性も高い。それに、ご家族によっては公表することが今後の立ち直りの一助になる場合もあるかもしれません」と、弁護団は必ずしもひとまとめに公表反対を唱えたのではないし、なんらかの規制を主張したのでもない。
ただ、「なぜ家族は公表を拒むのかを真剣に考えてほしい」のだという。
弁護団代表の山田廣弁護士(札幌市、筆者撮影)
●「公共の利益はあるが、2次被害を防げない」
被害者の実名公表は度々、公共性とプライバシーの議論を呼ぶ。氏名公表について都道府県警察は、犯罪被害者等のための施策として「個別具体的な案件ごとに適切な発表となるよう配慮する」として被害者の家族に公表を打診するケースは増えた。しかしその対応は事件態様や所轄(担当者)によってバラツキがあり、ほとんどは承諾を得るどころか、家族への連絡よりも先に記者発表が行われるという順序の逆転が日常のままである。
しかし、考えるべきことは多い。
まず、被害者も実名報道でなければ事実関係などで齟齬が生じる恐れがあるというのは、今回のような事故や通り魔事件(巻き込み型事件)でもそうなのだろうか。
山田氏は「観光客が沈没の原因や運航会社の運営に関与していたとは到底考えられない以上は、公共性よりも被害者の権利が優先されて然るべき」という。さらに、SNSなどではすぐに個人のプライバシーが晒されるばかりか、既に「どうせ死んでいる、無駄な捜索はやめろ」などという誹謗中傷があるという。
これらの言葉は、自責の念を抱いている家族をさらに追い込む。このような第三者の激しい反応への自衛は困難であり、2次被害のリスクは高まっている。
「現時点では報道やネットがさらに被害を誘発して、ご家族に深刻な傷を負わせることになりかねない。海保には2次被害を防ぐ手立てがないし、救済することもできないのだから説得はやめてもらいたいのです」と山田氏は力説する。
事故原因と責任の所在がいまだ明確でなく、運航会社社長からの継続した説明や対応がないことも影響している。家族は情報を得られず、周囲の憶測や思惑ばかりが先行する危険性がある。ちなみに、耳を疑うがウトロでは早くも慰霊碑を建てる話が出ている。また、保険会社からの示談交渉への家族の対応も異なる。
山田氏は「ともかく原因究明が急がれます。事故調査委員会の報告書を待たなければなりません。検察が動くのもそれからですが、数年はかかるでしょう」と、家族らに伴走する長い道のりを見据える。
そして、「家族の中には、運航会社の社長はもちろんですが、『ずさんな検査と管理、監督の問題を糾すことで、後の安全運航体制確立に繋げたい』という意向を示している方もいます」と続けた。
山田氏によると、これまでの事故調査委員会の報告事例を見ると報告書の作成に2年、民事の請求権の時効は3年、そして、検察が起訴する場合まで4年はかかる可能性があるという。国の責任を問う賠償訴訟となれば尚更、家族の疲弊は増すだろう。
被害者家族の悲しみが薄れることはないが、責任の所在が明確になり、被害者の正義を充足させる罰が下ることが一つの区切りになるかもしれない。心の区切りは個々人で異なるだろう。わずかでも自主性を回復できれば、内包していたたくさんの言いたい事や思いを発露したいと心境が変化する可能性もある。
少なくともそれまでは、周囲は「家族の意向を最大限尊重すべき」であり、事象ではなく心の区切りを見極めようとすることを優先すべきであろう。
すでに公表を後悔している家族がいる現状に、「深刻な2次被害の防止、それは弁護団の役目なのです」と山田氏は繰り返した。