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ほんとうに教科書から「部落差別の歴史」は消えたのか? 歴史研究者・上杉聰さんインタビュー
大阪市立大学元教授・じんけんSCHOLA共同代表の上杉聰さん(2019年6月12日/黒部麻子撮影)

ほんとうに教科書から「部落差別の歴史」は消えたのか? 歴史研究者・上杉聰さんインタビュー

被差別部落への差別を助長する発言をしたとして、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が、この夏予定されている参院選への出馬をとりやめた。その後、長谷川氏は、公式ブログで「教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」と記した。つまり部落差別の記述が教科書から消えたというのだ。この言説はほんとうに正しいのだろうか。現在、被差別部落の歴史は学校でどう教えられているのだろうか。(ライター・黒部麻子)

(編集部注:本稿で「部落」とは被差別部落のことを指しています。また、「穢多・非人」という呼称は、歴史上の用語として使用しています)

●長谷川氏の発言が問題視された

長谷川氏は今年2月24日、都内の講演で「江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下に穢多(えた)・非人(ひにん)、人間以下の存在がいる、と」「人間以下と設定された人たちも性欲などがあります。当然、乱暴なども働きます」「相手はプロなんだから、犯罪の」などと発言したとされる。

部落解放同盟中央本部は5月21日、長谷川氏を公認候補者としていた「日本維新の会」に対して、「部落は怖い」などのステレオタイプの差別意識を助長する行為だとして、抗議文を提出した。同党は検証委員会を開いて、長谷川氏の処分を検討していた。こうした状況を受けて、長谷川氏は出馬辞退に至った。

●長谷川氏「教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっている」

出馬辞退の報道があった6月10日、長谷川氏は公式コラム「本気論 本音論」を更新して、次のように記した。

「僕らの世代は、小学校などで(僕は道徳の授業でした)江戸時代に暗い差別の歴史があった、と習いました。4段階の身分制度(士農工商)。そして、その下に被差別階級があった、と」

「実は日本ではその歴史自体が、なかったのではないか、と。その認識は間違っていたのではないか、と」

「最新の歴史の教科書では、実はそんな歴史認識自体が間違っていた、というのが最新の学説となっており、子供たちの教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」

江戸時代の身分制度について、「士農工商の下に穢多・非人がいた」と教わった人は少なくないだろう。現在はそうした説明はされていないのだろうか。部落差別の歴史自体がなかったというのは、ほんとうだろうか。部落史研究者の上杉聰さんに聞いた。

●教科書から消えた「士農工商」

――現在の学校教育で、「士農工商」はどうあつかわれていますか?

かつては、上から「士農工商」、さらにその下に「穢多・非人」という身分を置いた(江戸時代につくった)、という説明がされていました。しかし、1990年代後半からこの記述は大きく変わり、教科書から消えていきました。現在の教科書では、江戸時代の主要な身分は「武士・百姓・町人」という3つの身分で説明されています。

「士農工商」が消えたのは、もともと日本の身分制とは無関係の古代中国の言葉だったからです。人々の職業を4つに大別し(「士」は武士のことではなく、知識人や官吏を指していました)、皇帝の下にいる「民全体」を表す言葉でした。「老若男女」と同じように、「みんな」という意味だったのです。

身分とは、職業のことではありません。江戸時代の日本では大工や鍛冶屋、造り酒屋、医者といった職業の人々も、村に住んでそこの人別帳に加えられていれば「百姓」身分、城下町などの町に住めば「町人」身分だったのです。

――それでは「穢多・非人」はどうなっているのでしょうか?

中学校の歴史教科書でもっともシェアの高い『新編新しい社会 歴史』(東京書籍/平成27年検定)を見てみましょう。そこには、「百姓、町人とは別に、えた身分、ひにん身分の人々がいました」(『新編新しい社会 歴史』P115)と書かれています。

このように「別に」、あるいは他社の教科書では「ほかに」という言葉で、部落差別を表現するようになりました。「下」ではないのです。そして、この教科書では続けて、次のように書いています。

「これらの身分の人々は、他の身分の人々から厳しく差別され、村の運営や祭りにも参加できませんでした。幕府や藩は、住む場所や職業を制限し、服装などの規制を行いました」(同前P115)

このように、部落差別の歴史はしっかり記述されています。

ただし、部落差別は、「排除」の差別だったということなのです。奴婢や下人、娼妓といった奴隷的な「所有」の差別とは性質が異なります。部落の人がその身を売買されたという話は聞いたことがありません。昨今のいじめ問題にたとえるなら、「排除=シカト(無視)」、「所有=パシリ(使い走り)」と、2種類のいじめをイメージするとわかりやすいかもしれません。

部落史研究の歴史はまだ、それほど長くありません。教科書の記述が変化してきた背景には、これまで職業と身分の区別や、奴隷制との区別が厳密におこなわれてこなかったという経緯があります。

――被差別部落は江戸幕府がつくったのでしょうか?

「江戸時代のはじめにつくられた」という説明も、ほとんどされなくなりました。教科書の記述も、かつては「(幕府や藩が)えた・ひにん身分を置いた」という表現でしたが、上述のように「いた」という表現に変わり、江戸時代以前にもこうした人々がいたことが表されるようになりました。そして、中世に「河原者」や「ひにん」が差別されていたことを記載する教科書が増えています。

また、河原者/善阿弥などの庭造りや、幕末に岡山で起きた「渋染一揆」について、ほとんどの教科書が積極的に取り上げています。そのほか、『解体新書』を著して、オランダ医学を日本に紹介した杉田玄白の説明とともに、当時の解剖は被差別身分の人々が担ったことも教科書に書かれるようになりました。

このように、教科書の記述は大きく変わりましたが、長谷川氏が言うように「差別の歴史の記述自体がなくなった」というのは大きな誤りです。研究の成果を受け、部落の歴史や差別の実態がより正確に描かれるようになったということなのです。

●「残酷」「穢れ」意識と差別

――部落はいつからあったのでしょうか?

穢多や非人という言葉が登場する最古の史料は、鎌倉時代中期、1280年ごろの『塵袋(ちりぶくろ)』という、大変古い書物です。私自身は、穢多と同じ意味で使われた「河原者」や「屠者」という呼び方が見られる平安時代中期ごろにまでさかのぼると考えていますが、いずれにしても現在はこうした中世起源説が主流です(歴史学で中世とは平安時代中期から)。ただし、中世においては法整備まではされず、権力者による慣行的なものとして差別が行われました。

それが制度化されるのが江戸時代です。宗門人別改帳に身分が記載され、部落の人たちの衣服や立ち居ふるまいまで規制するようになっていきます。また、部落の側だけでなく百姓や町人に対しても、差別しなければ罰せられる、つまり法的に差別が強制されるようになっていくのです。

そして幕末には「7分の1命判決」という、穢多身分の人の命は平民の7分の1に過ぎないとする判決が出されるまでに至っています(この判決は原本が幕府史料の中に見つからないため、史実かどうか疑われていましたが、近年、同様の差別的判決がほかにも多数見つかり、再評価されています)。これは差別の極限の姿といって良いでしょう。

――そうした人々はなぜ差別されたのでしょうか?

一つには、外来の仏教によって、動物を処理することを「残酷」とみなし、仏の戒(いましめ)を破る「悪行」(あくぎょう)とする観念が広がったことが背景にあります。また、日本には、伝統的に「穢(けが)れ」という概念が神道の中にあります。これは、物理的な「汚(よご)れ」を社会領域にまで拡げた概念です。古くから、死や病、犯罪など、人間社会の秩序に変化をもたらすものを「穢れ」と呼び、忌避してきました。

こうした宗教的な背景のなか、古代の律令制が崩れ、中世の荘園制度が始まると、貴族や寺社、武士などがそれぞれの荘園を独立して支配することになります。すると荘園同士のあいだに必ず隙間が生じます。河原や荒れ地などに住み、どこにも属さない人たちが生まれてきたのです。それらの土地は無税地でもありましたので、荘園支配の体制から外れた「異質な人たち」と見なされました。また、米作をせず動物を殺して食べることから、宗教的に「残酷」や「穢れ」のレッテルが貼り付けられるようになりました。

そうした人々が楽しく元気に暮らしていたら、荘園の秩序は外から壊されてしまいます。そこで、彼らに対し、人や動物の死体の処理、清掃、警察といった仕事をすることを、無税地に住む代償として、懲罰的な意味を込めて義務づけました。こうした穢れを取り払う仕事は「キヨメ」と呼ばれ、部落の始まりとなりました。「穢多」や「非人」の言葉はそこから(分業で)分かれて生まれてきました。

しかし、「キヨメ」の人々が担った仕事は、社会にとって必要不可欠な仕事です。ですから、排除されたといっても、一般社会から完全に切り離され、独立していたというわけではありません。ある程度支配には組み込みながら、しかし仲間には加えない。こうした矛盾した行為が部落差別なのです。

――どのような差別を受けたのですか?

穢多や非人といった人々は「怖い」「穢れている」とみなされ、遠ざけられていました。そのため、住む場所も、町や村から隔離されました。人里離れたところ、あるいはお堀や垣などによって隔てられていたのです。また、百姓や町人の家の中へも入れません。入る場合は、外で草履を脱いで裸足で入ります。それも許されるのは土間までで、それ以上へは上がってはいけない。神社仏閣へ参ることも禁じられました。日常的には、人々と一緒にお茶を飲んだり、食事をすると「穢れがうつる」と考えられていたため、そうしたことも徹底的に避けられてきました。

私はかつて、被差別部落のお宅を訪ねる前に、部落の知人から、こんなアドバイスを受けました。「必ず腰をかけてお茶を飲んで帰ってこいよ」と。「差別する人は、一緒に腰かけたりお茶を飲むと、自分も穢れると思ってそれをしないんだ」というんです。これが部落差別です。

人を「残酷で怖い」とか「穢れている」と見なす差別意識は、個人に対してだけでなく、その家族、さらにはその血筋にまで及びます。現在も結婚差別などのかたちで差別が残っていますが、こうした意識からきているのです。

――部落の人たちは貧しかったのでしょうか?

大半の人たちは貧しかったのですが、中には「穢多頭(えたがしら)・弾左衛門」のように、刀を差して髷(まげ)を結い、小大名に匹敵する力を誇った人もいました。こうしたことからも、「最底辺」や「最下層」といった言葉では説明できないことがわかります。ただし、このような弾左衛門でさえ、百姓や町人と付き合うことはできませんでした。排除される存在であったことに変わりません。

●正しく「日本の社会」を知るために

――明治になり、「解放令」が出されたことで部落差別はなくなりましたか?

1871(明治4)年の布告は、よく「解放令」と呼ばれますが、この呼称は後からつけられたもので、当時そんな名前はありませんでした。布告の中に「解放」という言葉も出てきません。その成立過程を研究していくと、国にとって「地租改正の邪魔になるから身分を廃止した」という程度の動機に過ぎなかったことがわかります。

この布告により身分制度と名称は廃止されましたが、差別解消のための措置がそこに含まれませんでした。このため多くの論文では、「解放令」ではなく「賤民制廃止令」、あるいは簡略に「賤民廃止令」と呼ばれています。

また、江戸時代には特定の仕事をさせられる代わりに税は免除するという、ある種の特権的側面もありましたが、身分制度の廃止とともにそれらを失いました(公家や武士には多額の補償がありました)。その経済的打撃は、大変大きなものでした。こうしたことから、明治以降、部落の人たちが「下」という言葉で表されることが増えていくのです。

――今、被差別部落の歴史を学ぶことの意味を教えてください。

部落差別はおよそ1000年もの間、日本社会の中で続けられてきた、非常に根深い問題です。長谷川氏の発言のように、部落の人たちを「怖い人たち」「犯罪者」とみなす偏見も、歴史上、古くから繰り返されてきた典型的な差別発言です。これから政治家になろうという人が、歴史的根拠のないストーリーとこうした差別を結びつけて語ったことは、とても危険で悪質な例だと思います。

私は、戦後の開拓農家の生まれです。開拓農家は、村では新参者でした。そのことを理由に、小学校時代にずっといじめを受けてきました。教室で物がなくなったら真っ先に疑われる。「くさい、くさい」と囃し立てられる。「あいつらは同族結婚してるんじゃ」などと陰口をたたかれる。とてもつらい体験でした。その後、成長して部落差別を知ったとき、そうした体験と重なりました。それが私の研究生活の原点です。

日本の社会には、内と外を分けて、異質なものを排除することで内部の集団性を保とうとする傾向があります。それは、部落を生み出した一般社会の側に蓄積した悪い習慣・差別的な体質だと思っています。その体質が残れば、たとえ部落がなくなっても、その矛先は私のような開拓農家へ、またそれがいなくなっても在日外国人などへと向けられます。

いつまで経っても閉鎖的で排外的な社会です。そうした欠点を内側から克服し、開かれた平等な人間関係をつくることを意識的に進めることが大切です。部落差別の歴史を知ることは、日本の社会を知ることだと思っています。

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