第二次世界大戦中に日本の首都で起きた惨事。10万人以上が犠牲になった東京大空襲から、3月10日で71年になった。空襲を体験した人たちの高齢化が進み、体験を語り継ぐ人たちはどんどん少なくなっている。
東京都練馬区に住む清岡美知子さん(92)は当時、21歳で、浅草に住んでいた。隅田川にかかる言問橋(ことといばし)の西、浅草寺の裏手に、両親と姉の4人で暮らしていた。3月10日の空襲で父と姉を亡くした。
●気を失っている母を、死体からのぼる炎で温めた
その日は強い北西の風が吹いていた。清岡さんは、姉に「こんな日に空襲があったら大変だね」と言いながら床に入った。午前0時すぎ、空襲が始まった。清岡さんは配給されたばかりの絹のストッキングと乾パンをいれたリュックを持つと、家族とともに隅田川に逃げた。
言問橋に着くと、炎から逃れるため、川に降りる階段を下り、川に入った。逃げ惑う人々の中で家族とはちりぢりになった。やけどしないように、防空頭巾の上からかぶっていた鉄兜で水をくんで、頭からかけつづけた。
「火がおさまるまで、寒さに震えながら、夢中で頭から水をかぶり続け川の中にいました。その中で覚えているのは、人間が焼ける強烈な匂いです。イワシを焼いた匂いに似ていました。当分焼き魚を食べることができませんでした」
川の上にかかる言問橋では、向島から逃げてきた人と、浅草から逃げてきた人がぶつかり、身動きがとれないまま1000人以上の人が亡くなった。火は、夜明け近くまで燃え続けた。火がおさまり、清岡さんは川から這い上がると、死体が転がる河原を、暖をとるため火を探してさまよった。
「何かが燃えていて、そこで暖をとっている人達を見つけました。私もその火にあたりにいきました。近づくと、それは逃げ遅れた人の死体が燃えているのだとわかりました。私は、死人の火で温まったのです。
暖をとった後、一人ひとり倒れている人を確認しながら、家族を探しました。石段の近くで、気を失ってびしょ濡れで倒れている母を見つけ、死人の火のところまで連れて行き、温めました」
父と姉は、隅田公園に埋葬されていた。名前のわかる死者は、埋めた場所に名前が書いてあったのだ。母と一緒に穴を掘り返し、父と姉に間違いないことを確認すると、2人の髪を一房切って、また埋め直した。
空襲から4日後、身を寄せるために千葉県の船橋に住む親戚の家に向かう途中、清岡さんは再び言問橋を通った。橋にあった多くの死体は、すでに片付けられていた。
「言問橋の上には、金属片が大量に転がっていました。何かと思って一つ拾うと、それは焼け残った『がま口財布』の口金でした。昔は皆がま口の財布を首から下げて使っていたんです。遺体はなくても、『ここでどれだけ多くの人が、苦しんで死んだのか』と感じました」
●人間らしい感情がマヒしていた
一方、東京空襲犠牲者遺族会会長の星野弘さん(85)は当時14歳で、本所工業学校の2年生だった。向島区(現・墨田区)の家で母と姉1人と暮らしていた。空襲当日は、寮住まいで働いていた別の姉が戻ってきていた。父は前の年に病死していた。
「空襲警報が鳴って飛び起きて、雨戸を開けると、空は既に真っ赤でした。家の裏の原っぱから、母と姉2人と逃げました。北西の風が、ものすごい風が吹いていました。風が吹くたびに、炎が道路をなめるように広がりました。そのたびに、私たちは、避難して無人になった建物の中に入って火を避けました。そんな風にして進みながら、避難所に向かいました」
避難所はどこもいっぱいだったので、1時間以上かけて隅田川の河原にたどり着き、そこで母親を休ませた。落ち着くと、星野さんは、姉たちと母親を河原に残して、家の様子を確認するために戻り、火を免れた貴重品を持ち帰った。家は焼け落ちてしまったため、母たちを連れて、別の姉の夫の家に身を寄せた。その後はすぐ、親族の無事を確認するために東京中を歩きまわった。
「空襲の夜から、恐怖とか、悲しみといった感情がマヒしていたのでしょう。道端に無造作にころがる死体をみても、何も感じませんでした。そうした中、親族の安否確認を終えて義兄の家に戻る途中、多くの人が空襲で焼け死んだ小学校の前を通りかかりました。そこで、死者を弔っている人を見かけました。綺麗な布団を引いて、その上に遺体を乗せて、枕もとにお線香をたてて・・・。そして、一心に念仏を唱えていました。
なぜかわかりませんが、その光景を見た瞬間、とつぜんマヒしていた感情が戻ってきました。死者に対して、遺族に対して、可哀想だ、気の毒だという人間らしい思いが湧いてきたのです。気が付くと、私は、念仏を唱えている人の後ろで、泣きながら祈っていました。戦争は、人間らしい感情さえ奪いさってしまうのです」