裁判には、担当者の組み合わせ次第で結果が変わる「ガチャ」の要素がある。しかし、一度判決が確定すれば、やり直しのハードルはあまりにも高いー。
1960〜70年代に鹿児島県では冤罪が疑われる殺人事件が相次いだ。1月8日に第5次再審請求が申し立てられた大崎事件(1979年)が有名だが、最終的に逆転無罪となったものの、下級審では有罪判決だった事件も複数ある。
それぞれの結果を分けたものは何だったのか。鹿児島県の地元紙「南日本新聞」の記者として事件関係者を取材し、『予断 えん罪高隈事件』などの著書がある元鹿児島大学法文学部准教授(報道論)の宮下正昭さんの寄稿をお届けする。
●高隈事件と同じ最高裁小法廷
鹿児島県大崎町井俣の農家で男性の変死体が堆肥置き場から見つかった大崎事件。殺人・死体遺棄事件とされましたが、事故死の可能性もあるとして、裁判のやり直しを認める再審開始決定がこれまで3回も出ています。
しかし、上級審で覆されてきました。特に第3次再審請求では1審も2審も再審開始を決めたのに最高裁が退けます。
「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則に従えば、最高裁も当然、開始決定を支持して、疑問点は再審のなかで審理を、と意見を付けるべきだったのではないでしょうか。
この事件では、原審の確定判決時も最高裁は無慈悲でした。
捜査段階から一貫して無実を訴える原口アヤ子(当時の報道では中村アヤ子)さんに対し、最高裁第1小法廷は1981年、上告を退けて、1・2審の懲役10年が確定します。

ところがこの第1小法廷は翌1982年には、1・2審で懲役12年の有罪判決だった高隈事件(鹿屋夫婦殺害事件)を見直し、捜査のさまざまな問題点を提起して、高裁に差し戻す判決を下します。
結果、福岡高裁は船迫清被告人に逆転無罪を言い渡し、判決は確定します。同じ鹿児島県で起こった2つの事件に対する同じ判事たちの判断の差。違いはなんだったのでしょう。

●「最高裁判事」ではなく「調査官」が左右?
当時、最高裁第1小法廷の判事は、
・刑法・刑事訴訟法の大家でリベラルな団藤重光さん
・鹿児島市育ちで終生、鹿児島弁のイントネーションが抜けなかったリベラルで闊達な生え抜き裁判官の谷口正孝さん
・鹿児島県南薩出身で外交官だった藤崎万里さん
・最高裁勤務が長かったエリート裁判官の中村治朗さん
・弁護士出身で保守的とされた本山享さん
の5人でした。
裁判長は大崎事件のときは中村さんで、高隈事件は藤崎さんが担当します。裁判長の訴訟指揮が判決に影響したかどうか。いや、最高裁調査官の違いが影響したかもしれません。
最高裁調査官は一定の経験を積んだ裁判官がなり、上告事案を詳しく調べて判事たちに報告します。最高裁の判断は調査官次第と言われるくらい重要な役目を負っていますが、いわば黒子です。通常、表面に出ることはありません。
大崎事件を扱った最高裁調査官は田中清さん。長野地裁の複数の支部長を経て就任しています。調査官時代、法律雑誌に寄稿した判決紹介をみる限り、憲法や判例違反を審査する最高裁の役割を重視し、事実認定は下級審に任せるという立場の方だったように見受けられます。
大崎事件の共犯者3人は罪を認めて服役していました。主犯格のアヤ子さんだけが逮捕時からずっと否認。そのアヤ子さんの無罪を検討するには、口頭弁論を開いて、確定している共犯者3人の事実認定まで見直さないといけません。第1小法廷はそのような検討はしなかったのでしょう。2審判決からわずか3カ月後、上告を棄却します。
一方、高隈事件を担当した最高裁調査官は木谷明さんでした。裁判官として30件以上の無罪判決を出して確定させました。木谷さんの無罪判決に検察が控訴したしたのは1件だけと言われています。
最高裁に上がってきた事件でも事実認定を積極的に行う方で、高隈事件に対しても捜査の問題点を見過ごしませんでした。退官後は大崎事件の再審弁護団にも加わります(2024年11月死去)。
時期は少しずれますが、同じ鹿児島県大隅地方で起きた「垂水ホステス殺人事件」でも、最高裁第3小法廷が1979年、殺人について疑義を示し、高裁に差し戻しています。
この結果、強姦未遂と殺人罪に問われた少年2人について、殺人罪は取り消されて確定します。被害女性は崖から落とされたのではなく、自ら誤って転落した可能性を指摘したのでした。
この事件は1審でも殺人罪は認めませんでしたが、2審は殺人罪が成り立つと判断。被告の少年たちが上訴していました。
最高裁の調査官は渡部保夫さんで、いかに事実に迫る考察をしたか後に本にまとめています(『刑事裁判ものがたり』潮出版)。
●問われる弁護側の活動内容
裁判所が「疑わしきは被告人の利益」の大原則に則って、警察や検察に遠慮せず、事実を究明できるかどうか。
裁判官たちの覚悟が求められますが、その判断資料となる証拠を提示できるか、弁護側の活動内容も問われます。逮捕された4人のうち3人が「自白」した形だった大崎事件は残念ながら、初期の弁護活動がうまくいかなかったようです。
志布志警察署はまず、堆肥置き場で見つかった男性の長兄と次兄を殺人と死体遺棄の疑いで逮捕します。泥酔して前後不覚に陥っていた男性を絞殺し、堆肥置き場に埋めたとされました。
さらに次兄の長男を死体遺棄手伝いの疑いで、そして長兄の妻だったアヤ子さんを一連の犯行の主犯格として逮捕します。
長兄、次兄、次兄の長男はいずれも軽い知的障害がありました。アヤ子さんはしっかり者で元気な明るい女性でした。
そんな4人の弁護を担当したのはW法律事務所。夫と義弟らが逮捕された際、アヤ子さんが「有名な弁護士を」と周囲に相談した結果、薦められた事務所でした。
ただ男性たちが逮捕後間もなく容疑を認めた形となっていたため、私選は必要ないと双方が判断したようです。
しかし、まもなくアヤ子さん自身も逮捕されたことから私選で事務所の中堅弁護士が主任弁護人となり、W弁護士が補佐しました。男性たち3人には起訴後に事務所の若手弁護士が国選で就きました。
当時、W弁護士は鹿児島の弁護士会の長老的存在で、県の顧問弁護士をするなど地元の政財界に顔の効く「ドン」と呼ばれるほどの人物でした。ただ、見た目は飄々として、背広に草履という格好で歩く姿はなかなかの好々爺。とはいえ、事務所は市井の刑事裁判には縁遠い印象でした。
●あいまいな殺人動機
亡くなった男性はもともと酒乱気味で、集落の人々も迷惑を被っていたようです。
死体となって発見される3日前は朝から焼酎を飲み、自転車などでさまよっていましたが、夕方には道路端の深さ1メートルもある側溝に自転車ごと落ちていました。
ずぶ濡れ泥酔の男性を近所の人が助け出し、夜になって別の住民2人が軽トラックで男性の自宅まで運び入れました。この間、男性は「ウー、ウー」と言葉を発するだけだったとされます。
志布志署は当初、男性の長兄と次兄が酒乱の男性を憎んで殺害、死体遺棄に及んだとみました。
確かに男性は兄たちにとって迷惑な弟だったかもしれません。だからと言って、泥酔の弟を殺すという発想、行為まで発展するでしょうか。警察自身も動機としては弱いと思ったようです。
『南日本新聞』(1979年10月31日付)は、「(酒乱は)いつものことで、殺すほどのことはなかったはず」という捜査本部の見方を報じます。
そこで、長兄の妻・アヤ子さんを主犯格で逮捕します。アヤ子さんは男性に黙って男性の生命保険をかけており、「保険金狙い」の犯行としたのでした。
南日本新聞1979年10月31日付朝刊(マスキング、傍線、ぼかしは筆者・編集部)。
でも、その保険は集落で簡易郵便局を開いていた女性から、酒乱の男性はいつ何が起こるかわからない、長兄の嫁として保険に入った方がいいと熱心に勧誘されたためでした。
保険は障害時にもおり、死亡時は500万円、満期で100万円戻ってくる養老保険と言われるものでした。
警察の調べに容疑を認めた格好の男性3人は裁判でも争いません。ところが、長兄と次兄は、罪を認めないアヤ子さんの公判に検察側証人として出廷すると、犯行についての証言にあいまいさが目立った上、警察の強引な取り調べの様子も語りました。
しかし、それ以上の進展はありませんでした。鹿児島地裁は1980年、アヤ子さんに懲役10年(求刑15年)、長兄に8年(10年)、次兄7年(10年)、次兄の長男に1年(1年6月)の実刑判決を言い渡します。
ただ「保険金狙い」については「証拠が不十分」として認定せず、いったんは警察が返上した動機、酒乱を憎んでの犯行としたのでした。
この判決言い渡しの公判に、W法律事務所の弁護士はだれも同席した記録がありません(鴨志田祐美著『大崎事件は問いかける』かもがわ出版)。依頼人の判決に弁護人が欠席する。にわかには信じられない話です。
●刑確定後、犯行否定
男性3人は控訴せず、服役します。しかし、服役中や出所後、「自分は犯人ではない」と関係者に漏らすようになります。
アヤ子さんの控訴審に証人として出廷した長兄(当時、アヤ子さんの夫)は、「刑事がそばで言わんか、言わんかと責められ言わされたのです」などと、アヤ子さんも自分も無実だと主張します。
次兄は出所後、再審の相談で亀田徳一郎弁護士と面談した際、「警察に私はしていないと言った。でも、しただろうが、早く言え!と言われた。弁護士にも3回、していないと言った」などと話しました。
その次兄の長男は南日本新聞社に来て、「最初から犯人扱いだった。私のことを信じてくれなかった」「警察で言ったことと裁判所で言うことが違うといけない。違ってもいいことを知らなかった」と私に語りました。
1審で3人の弁護を担当したW事務所の弁護士がもっと彼らの思いを聞き出すことに成功していたなら、否認事件として本格的な弁護活動に乗り出せたかもしれません。
さらに言えば、当時は起訴後にしか就けなかった国選弁護人としてではなく、3人の逮捕直後から私選弁護人として面会していたら、違った展開になった可能性もあります。
ただ当時は、アヤ子さん自身も事件は夫ら3人の犯行だと思い込んでいました。事件構図全体を見直すには所属事務所3人から成るW事務所全体で取り組んでも相当な労力と警察や検察と対決する覚悟が必要となったでしょう。
共犯者とされた3人の男性が罪を認めて刑に服したのに、主犯格とされたアヤ子さんだけが無実を訴え続ける困難さ。そんなアヤ子さんの控訴審、上告審を担当したのは別の事務所のT弁護士でした。
本人曰く自民党員で政治的には保守的だったかもしれませんが、弁護士らしい在野精神のある快活な人でした。否認事件にも熱心に取り組みました。
福岡高裁宮崎支部で開かれた控訴審では前述のようにアヤ子さんの夫(当時)を証人として出廷させ、「刑事に強く責められてアヤ子も関係したと言ったが、アヤ子は関係ない」という証言を得ます。
ただ、既に罪が確定し服役中の夫は「私もしていない」と言ったことからT弁護士は慌てます。その主張を信じれば、まさに事件の構図見直しを図らねばならない事態でしたが、その発想にはならなかったようです。
T弁護士は次兄の証人申請も行いますが、高裁宮崎支部は認めませんでした。もし、認められて次兄も「私もやっていない」と公判で証言したら、どうなっていたでしょう。ひょっとしたら事態は動いたでしょうか。
現実はそうならず、地裁判決から半年後、高裁宮崎支部はアヤ子さんの控訴をあっさり棄却します。
●高隈事件で奔走した弁護士たち
T弁護士は高隈事件(鹿屋夫婦殺害事件)も国選で担当します。
知り合いの夫婦2人を殺した罪に問われた船迫清被告人は無罪を主張しましたが、鹿児島地裁は1976年、懲役12年の有罪判決を下します。
計画性のない突発的な事件とされたとは言え、通常なら無期懲役でも仕方ない求刑が懲役15年という異例なものでした。
裁判所も意外だったようで、3人のうちの1人の裁判官は後に「それはもう。2人殺してますからね」と私に語ってくれました。
判決は有罪としたものの、重要な証拠の一部がすり替わった可能性を指摘します。犯行に至る経緯も現場状況などから起訴事実を大幅に変更し、裁判所独自の判断を示しました。いずれも検察、弁護側ともに主張していないものでした。
T弁護士は福岡高裁宮崎支部で始まった控訴審でも私選として弁護しますが、宮崎刑務所の拘置区にいる船迫さんからの度重なる面会依頼への対応が難しくなり、辞任します。弁護料は固辞しました。
代わって宮崎の佐々木正泰弁護士が国選で担当します。土呂久、松尾両鉱害訴訟の原告弁護団長も務めるなど人権派の弁護士でした。当時、79歳と高齢ながら船迫さんと毎週面会し、耳を傾けたようです。
しかし、裁判所は佐々木弁護士の証人申請、証拠開示請求などをことごとく却下したうえで、1980年、控訴棄却の判決を下します。しかも1審判決が疑問を投げかけた問題はほぼ無視し、犯行までの経緯も起訴事実に戻して認定しました。
「宮崎の高裁は最低だ」と佐々木弁護士は身内に語っていたそうです。
誤解を恐れずに言うなら、福岡高裁宮崎支部は当時、鹿児島の人権派・社会派弁護士からは「刑事も行政訴訟もまず勝てない」ともっぱら言われていました。
支部勤務となった裁判官は飛ばされてしまった感があり、任期中、目立たぬよう事なかれ主義に徹して次の異動を待つからだという訳です。
●際立った高隈事件上告審
船迫さんは早速上告します。手書きの上告趣意書は160枚にも上りました。
国選に選任された東京の金井清吉弁護士は、佐々木弁護士から譲り受けた捜査・裁判資料に目を通すと驚きます。「犯行状況と自白が全く違う」。シロの心証を得た金井弁護士は自腹で宮崎まで行き、船迫さんに面会します。船迫さんは感謝で泣き出したといいます。
帰京後、金井弁護士は記録上明らかな事実と自白の矛盾を一つ一つ丁寧に項目立てして上告趣意書をまとめ上げました。
担当となる最高裁第1小法廷の木谷明調査官に面会して、ダメ元で船迫さんの保釈を願い出ます。木谷調査官はあっさり認めました。
船迫さんは別件逮捕時からこのとき既に懲役12年の刑の大半、11年余り未決勾留されていました。この点も考慮されたようですが、「殺人犯の保釈」は注目されました。保釈保証金100万円は金井弁護士が立て替えました。
最高裁はもう1人国選弁護人として加藤文也弁護士を追加選任し、口頭弁論を開き、検察、弁護双方の主張を聴き取ります。
結果、1982年に「原判決は重大な事実誤認をした疑いが顕著」として破棄、福岡高裁に差し戻します。第1小法廷の裁判官5人全員一致の判決でした。
最高裁が二審判決を破棄し、高裁に差し戻したことを伝える南日本新聞(1982年1月29日付:ぼかしは編集部)
その後、最高裁は金井弁護士が立て替えていた保釈保証金を返し、保証書だけに切り替えたうえ、金井弁護士に100万円、加藤弁護士に50万円の特別報奨金を払い、その努力をねぎらいました。
5人の裁判官の1人だった団藤重光さんは後に「金井さんのような弁護士が頑張ってくれるといいですねえ」と私に話してくれました。
福岡高裁の差し戻し控訴審の弁護団は東京からさらに1人、地元福岡から2人、若手の幸田雅弘弁護士と八尋光秀弁護士が加わって、最高裁が提示したさまざまな問題を追及しました。1986年、逆転無罪判決が言い渡され、確定します。
高隈事件の逆転無罪を伝える南日本新聞(1986年4月29日付:ぼかしは編集部)
一方、大崎事件で無実を訴え続けながら懲役10年の刑を受けたアヤ子さんは「反省文」も書かないことからまるまる10年服役して1990年に出所します。
アヤ子さんの再審を求める必死の訴えに日本国民救援会鹿児島支部が支援に乗り出します。高隈事件差し戻し控訴審を経験した幸田弁護士と八尋弁護士も福岡から加わります。
そして、ようよう事件全体の構図見直しを図り、1995年、鹿児島地裁に再審請求できました。