安倍晋三元首相の国葬についての議論は収まる気配はない。岸田文雄首相が早々に閣議決定で通したのは、いわゆる「法律顧問」である内閣法制局のお墨付きを得たからだった。
どうやら過去の国葬でも、この内閣法制局が重要な役割を果たしているらしい。近現代の国葬について研究し、九州大で博士号も取得している上智福岡中高教諭の前田修輔氏にオンライン取材し、過去の事例と比較してみた。
史学雑誌に掲載された前田氏の論文「戦後日本の公葬ー国葬の変容を中心として」は、インターネット上で読むことができ、同誌の7月アクセスランキングトップを記録している。
●佐藤内閣、国会の議論を推奨した法務府の意見をスルー
日本で国葬が行われるのは戦後では1967年の吉田茂元首相以来だ。当時は現職の佐藤栄作首相が強く希望したといわれている。
この時根拠にされたのが、やはり内閣法制局の解釈だった。
①内閣法制局の部長が公式制度連絡調査会議で「単に国葬をやってやるというのなら 、政令でやることができる」と示した(1965年)
②法務府(法制局の前身)の法制意見長官は「国葬を行うについて憲法上法律の根拠を要しない」「国葬を行うことは、行政作用の一部であるから、憲法上内閣の所管に属する。従って理論上は内閣の責任において決定し得る」との認識を示した(1951年、貞明皇后の準国葬に際して)
安倍氏の国葬も、当時の意見をなんらか参照しているだろうと前田氏はみる。しかし、いずれも会議等での発言で未定稿といい、明確な通達などの形で残っているものではないという。
実は、②には続きがある。「実際上は国会の両院において決議が行われ、それを契機として内閣が執行するという経緯をとることが望ましい 」。議会を通すことを提言していたものの、当時、この点に言及されることはなかった。
●そもそも政治家の評価は曖昧で定まらない
前田氏は「戦前も、皇族以外の国葬は栄典的な意味あいを持つものでした。明確な根拠や基準が定めにくいんです」と話す。
そもそも戦前の国葬は20例あるが、そのうち国葬令のもとで行われたのは4例しかないという。
今回、政府は安倍元首相を国葬にする理由として、戦後最長の在任期間や外交の功績、選挙期間中に銃弾に倒れたことなどを挙げている。
これについても「当時最長の在任期間だった桂太郎は国葬になっていません。また、現職中に暗殺された原敬も対象外でした。やはり戦前の国葬令があっても、システマティックにはいかないんです」という。
結局、吉田元首相の際に閣議決定で押し切ったことは後に批判を呼んだ。そして1975年の佐藤栄作元首相が亡くなった時は、在任期間が最長でノーベル平和賞も受賞したにもかかわらず「国民葬」という判断になった。また1980年の選挙中に現職だった大平正芳首相は内閣・自民党合同葬となっている。
●もう2度と国葬はないと思っていた
前田氏は、学部生時代にゼミでたまたま取り上げた「国葬」について、あまりにも研究が少なかったことを機に「それなら自分が調べてみよう」と公文書や新聞報道など史料を集めて研究してきた。
まさか「国葬論」が復活するとは思ってもみなかったという。それは吉田氏の国葬・佐藤氏の国民葬を経て、大平氏以降は内閣・自民党合同葬が主流になっていった背景がある。
「戦争や動乱でも起きない限り、国葬は歴史上の出来事として終わったものと考えていました 。でも表明してしまった以上実施するのでしょうね。弔問外交の意味は一定程度あるとは思います。
とはいえ、弔問外交の面からコストパフォーマンスがいいのだという意見には賛同できません。むしろ、警備予算のことや野党や各団体からの反発などを考えると、コストパフォーマンスは相当悪い。今後、国葬を行うことはまた難しくなるのでは」
●結局は「内向きの論理」で決まっていく
今回も岸田政権は、内閣法制局による「2001年施行の内閣府設置法を根拠に、政府単独による国の儀式としてならば閣議決定で可能」との見解で押し切ろうとしている。前田氏はこの議論を見ていると、かつてと同じ論点を蒸し返しているだけで既視感すらあるという。
吉田国葬以降、公の葬儀にならなかった元首相は、以下のように分類できるという。
・死去時は与党ではなかった(羽田孜など)
・不祥事の真っ只中だった(田中角栄)
・目立った実績がない(東久邇稔彦など)
・故人の意向(竹下登)
この前例を見ると、公の葬儀となるのは必ずしも実績だけでなく「時の運」もあるのではないかと前田氏は指摘する。そして時の政権が、その系譜を肯定して政権の正当性を主張することにもつながっているとし、内向きの論理が重視されていると結論づけている。