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<佐世保女児殺害>「子供の将来を守りたかった」(被害者の父と兄が語る10年・上)
「犯罪被害と子ども達」と題したシンポジウムで語る御手洗怜美さんの父・恭二さん(左)と司会の藤林武史さん

<佐世保女児殺害>「子供の将来を守りたかった」(被害者の父と兄が語る10年・上)

2004年6月1日。長崎県佐世保市内の小学校で、当時6年生だった御手洗怜美(みたらい・さとみ)さんが同級生の女子児童にカッターナイフで首などを切られ、死亡するという痛ましい事件が起きた。

日本中に大きな衝撃を与えた事件から今日でちょうど10年。怜美さんの父で、当時は毎日新聞佐世保支局長だった御手洗恭二さん(55)と、中学3年生だった次兄(24)が、5月下旬に福岡市内で開かれたシンポジウムに登壇し、事件について語った。

現在大学生の次兄が、公の場で語るのはこれが初めてだ。怜美さんから相談を受けていたという次兄は「なんてアドバイスしていたら良かったんだ」と自問自答していたことを告白。「他のことにまったく手がつかなくなった」と、事件後の苦悩の日々を振り返った。

このシンポジウムは、「犯罪被害と子ども達」をテーマに、犯罪被害者の遺族らでつくる「九州・沖縄犯罪被害者連絡会(みどりの風)」が企画した。精神科医の藤林武史さんの司会のもと、父と兄が語った「犯罪被害者の遺族としての10年」を上・中・下の三部構成で紹介する。(取材・構成/松岡瑛理)

●「自分の経験を人に話したい」と息子から打ち明けられた

藤林(精神科医):今日は、御手洗さんのお兄さんが子ども時代に事件をどのように感じたのか、その後どのように生きてこられたのかを中心に、お話をうかがっていこうと思います。まずは、お父さんである、御手洗恭二さんから口火を切っていただこうと思うんですけど。今回、このシンポジウムに出演しようと思われたきっかけは何だったのか。また、ちょうど10年前(2004年)、この事件をどのように経験されたのか。お話聞かせていただけますか。

父:ご紹介いただいた御手洗です。よろしくお願いします。今回の講演を受けようと思うまでには「作り話じゃないの?」と言われてしまうような経緯がありました。

今年2月の初めに、私は息子と二人で、事件のあった佐世保に出向きました。そこで、加害女児の元付添人の弁護士と面談をしたんです。直接、話を交わしたのは事件のとき以来で、もう9年ぶりくらいになります。加害女児の少年審判が終了してから、いまも、私と相手の間をつないでいただいていたことに、お礼を言いたかった。現在の私たちの思いも聞いてほしくて、面談をしました。

その日、私は、息子から「実は自分の経験を人に話したい」「犯罪被害者の支援の手伝いもできないか」と打ち明けられていました。ちょっと仰天したんですけど、それを受けて、弁護士との面談でも、そういう話をした。

その後、帰りの列車のなかでメールをチェックしたら、まさに(聞き手の)藤林さんから、今回のシンポジウムの依頼メールが来ていました。あー、このタイミングで、こういうメールが来るのかな、と。偶然にしてもあんまりだろう、というくらいでしたので、断るという選択肢はないだろうと、覚悟を決めました。

息子にメールのことを話して、「こういうメールが来てるんだけど、お前、話すか?」と聞くと、「やりたい」という返事がすぐに来ましたので、「二人でやります」ということになりました。

そのときは深く考えてなかったんですが、この場に座り、なんと無謀なことを言ってしまったのかという反省にいま、さいなまれています。でも、こういう場を与えられた以上は、何か少しでもお役に立てる話ができたらいいと思っています。

●「子どもを守るために、自分がすべてを引き受ける」

父:当時、事件との向き合い方というのは、実は、僕のなかで二種類ありました。いまでこそ冷静に言えますが、当時は無我夢中でしたので、後付けの部分もありますが・・・。

まず、短期的に、事件が発生してから少年審判が始まるまでの向き合い方です。ご存知のように、当時は、メディアの事件報道もあふれるようにありました。そのなかで頭の中に浮かんだのは、「子どもを守る。家族を守る」。この一点です。家族をメディアから守るために、自分がすべてを引き受ける。そういう覚悟を、あのときにした記憶があります。

もう一つは、ある程度、事件のことが落ち着いてから、いまに続くまでの長期的な向き合い方です。落ち着いてからは、子どもたち――今日来ている彼(次男)と長男の二人の息子がいるんですけど――彼らの生活を、将来を、人生を守りたい。そう考えてきました。事件前と同じような生活が送れないことはわかっていましたが、可能な限り、彼らが前を向いた次の一歩を踏み出せるようにしたいと考えて、事件への対応をしていました。 

これは親しい友人にも言ったことはないんですが、正直、一番恐れていたのは、子どもたちが相手(加害女児)に復讐の感情を抱くことです。どうしても、そうならないようにしたい。そのために自分はどう行動すればいいのか、どう発言すればいいのか、ということを、ずっと頭の片隅に置いていました。それについては、自分なりの慎重さで対応してきたと思います。自分の考え方や行動パターン、発言内容なども、それを貫いてきたつもりでした。

ここから先は、息子の話が中心になると思います。そこで出てくる私の姿というのは、知らない人が聞いたら、かなり「ダメ親父」じゃないかと思われるかもしれません。それは甘んじて受けて、「それはない」と思うときだけ答えようと思います。「公開親子ゲンカ」にならないように、ほどほどの節度を持って臨んでいきたいと思います。

●SMAPや宇多田ヒカルが好きな女の子だった

藤林:いまのお父さんの話を聞いて、一方で、娘さんを小学生のときに亡くされたことへの強い悲しみや怒りを持ちつつ、もう一方で、残された子どもや家族を守るという非常に強い思いを持ち続けながらの10年だったのかな、と感じています。

では、子どもの立場で、お兄さんはどのように(事件を)体験してきたのか。少し時間をさかのぼって、事件が発生した当時から、少しずつ時間の経過とともに、振り返っていければと思います。

そもそも、被害に遭った娘さん、妹さんは、どんな方だったのか。どんなふうに家族で過ごしていらっしゃったのか。その辺から、お話を聞かせていただこうかな、と。

父:本当なら、思い出話をするのが一番いいと思うんですが・・・。質問が来ることは事前に聞いていて、息子と相談したんですが、正直、話すべきエピソードがパッと思い浮かばなかったんですよね。

たとえば、彼女が好きなアーティストやファッションなど、連想ゲームではないですが、そういうのを少しずつ思い出しながら、あげていきます。みなさんも10年前のことを思い出していただければ、「ああ、こんなのあったね」というのが、出てくるかと思います。

娘が好きなアーティストは、SMAP、宇多田ヒカル、175R(イナゴライダー)。好きなファッションは、ヒョウ柄が好きだったんですよ。「お前、大阪のおばちゃんか」みたいな(笑)。12歳ですけどね。そして、スカート姿を思い出せない。要するに、ずっとズボン、Gパンでした。

学校のほうだと、嫌いな科目は、すぐに(息子と)一致しました。体育です。足が遅かったし、すぐ転んだ。好きな科目は、国語かな。

兄:国語については、当時、中3だった自分の漢字の書き間違いを指摘してくるほどでした。中3が小6に指摘されるほど、漢字は得意でした。

●「妹とは、かなり仲が良かった」

父:娘が優秀だったのか、兄が優秀でなかったのかは、よくわかりませんが、そういう指摘を受けたということは、昨日初めて聞きました。それぞれ1部屋ずつ持っていたんですが、そういうことをやっていたんだなあ、とわかりました。

好きな男の子がいたかどうかは、わかりませんが、何人かの友だちとバレンタインチョコを作ったりしていました。そして、昨日初めて聞いたんですが、失敗作を全部、兄にあげていた、と。

好きなマンガは、ワンピースやナルトで、ほとんど兄の趣味です。少女漫画も自分で何冊か買っていたと思います。兄が持っていた漫画や本は、勝手に読んでいたみたいです。好きな本は、ハリー・ポッター。好きなTV番組は、SMAP×SMAP。

好きな食べ物はじゃがいもで、肉じゃがとか、カレーとか。あと、焼肉が好きでした。こういうキーワードを並べたら、どういう子なのか、少しイメージしていただけるかな、と。正直、上が兄2人なので、けっこうがらっぱち(粗野)に育ってしまったかなという気はします。

藤林:ヒョウ柄のファッションが好きという以外は、普通の子という感じですね。お兄さんからなにか、追加することはありますか。

兄:そうですね。妹とは、かなり仲が良かったと思います。トラブル関係の話も含めて、相談も受けていたので、仲はいいほうかな、と。

藤林:お父さんは新聞記者で、忙しいですよね。お父さんが家にいる時間は短いので、お父さんに相談するというよりは、お兄さんに相談することが多かったんですか。

兄:そうですね。本来ならば、自分に相談するよりも、母親のほうに行くような話が、仕方なく自分のほうに来たという感じが強いかな、と思います。

藤林:ちなみに、お母さんというか、奥さんは・・・

父:妻は、事件の3年前に、乳がんの再発で亡くなりました。それから先は、私が食事を作り、子どもを送り出す生活でした。妻が亡くなったときは佐世保にいませんでしたが、職場と住宅が一体となっているところを探し、希望して佐世保支局に行きました。

●加害者の女児と「ゲームで遊んだこともある」

藤林:親子3人暮らしでしたか。お父さんと怜美さんとお兄さん。

父:そうですね。長男は大学生になって、離れていましたので、3人暮らしでした。ただ、当時は、支局員の記者が2人とアルバイトの女性が1人いましたので、その3人も含めて、6人暮らしみたいな感じだったかな、と思います。

藤林:事件が発生する前、加害者の女の子との交流はありましたか。どのように経験していらっしゃったんでしょう。

兄:加害者の女の子に関しては、家に遊びに来ていたのは知っていました。実際に、その子とゲームで遊んだりもしました。たとえば、怜美の運動会があったとき、ビデオ撮影に行ったら、その場で自分にイタズラしてきたりとか。そういうふうに、割とからんでくる子でした。

藤林:お兄さんにとって、妹さんの同級生は、なじみのある子だったわけですね。

兄:そうですね。クラスの人数が少ないですから、けっこう顔も覚えていました。そういう意味で、なじみが深いといえば、なじみが深かったです。

(「中」に続く。事件当日、家族が抱いた思いとは・・・)

(弁護士ドットコムニュース)

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