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<佐世保女児殺害>「答えが出なくてもいいかな」(被害者の父と兄が語る10年・下)
シンポジウムの合間に、報道陣の取材に答える御手洗怜美さんの父・恭二さん

<佐世保女児殺害>「答えが出なくてもいいかな」(被害者の父と兄が語る10年・下)

佐世保女児殺害事件で小学6年生の妹・御手洗怜美(みたらい・さとみ)さんを失った次兄は、高校入学と同時に、父の恭二さんとともに佐世保から福岡へと移った。だが、事件のことを忘れるのではなく、むしろ「あのとき、どうすればよかったのか」という思いに悩まされるようになる。自分の気持ちを誰に話せばいいのか――そんな苦悩を救ったのは、意外にも、教師やカウンセラーではなく、一人の新聞記者だった。

●父は「自分のためについてきてくれ」と息子に頼んだ

藤林:結局、事件直後から数カ月間、お兄さんは、自分の思いを語ることができる人に出会わないまま、月日が流れていった。中学3年生ですから、受験になるわけですよね。受験勉強は、手につきましたか?

兄:逆に、受験勉強に手をつけることで、できるだけ思い悩まないようにしていました。

父:進路については、当時、相当に激論をかわしました。僕は翌春、佐世保を離れて福岡に赴任することが、ほぼ決まっていました。息子を福岡に一緒に連れていくか、佐世保に進学するか。本人の希望は「佐世保に残りたい」。けれども、僕は「残したくない」と。

兄:親父さんが「福岡についてきてくれ」というのも理解できていたんですが、「佐世保の友達と離れるのが怖い」という気持ちもありました。でも当時、いちばん自分の頭にあった存在が親父だったことは、間違いない。「結局は親父についていかなければいけないんだろう」という諦めも、少なからず持っていました。

父:もうこの際だから言いますが、最後は泣き落としでした。「自分のためについて来てくれ」と。一人で残すことは、親として心配でした。あの当時、「佐世保にはもう戻りたくない」という気持ちが強かったですから、何かあったときに駆けつけるのもしんどいな、と。僕が一人で福岡でやっていけるのかという不安もありました。ですので、本人の情に訴えました。

藤林:気持ちにフタをしながら受験勉強をして、泣き落とされて福岡に行って。友達とも別れて、福岡の生活が始まった。入学後、フタをしていた気持ちは、どうなっていったんでしょうか?

兄:逃避のために使っていた受験勉強がなくなった。そのせいで、高校に入ってから、フタをしていたものが、あふれ出てきました。事件前、加害者とのトラブルについて、怜美から相談を受けていた。解決する方向を聞かれて、アドバイスしたんですよね。実行してくれたのか最後まで確認しませんでしたが、その後、相談してこなかったので「仲良くなったのかな」と思っていました。でも、事件が起きて、「自分がしたアドバイスは間違っていたのかな」という思いにとらわれてしまって・・・。

福岡に行ったら、父親のほうは、仕事を通じて普段の生活に少しずつ戻っていった。その姿を見て、「自分の心配(父親の自殺)は起こらないかもしれない」という安心感もあったんですよね。それで、高校に入ってから、自分のほうに少しずつ目が向くようになっていきました。

●「自分の中で答えを出せない方向に走ってしまった」

藤林:「お父さんが自殺するかもしれない」という不安は少なくなってきた分、自分のなかの自問自答が大きくなってきた、と。

兄:そこから、自分のことを考える割合がどんどん増えていって、最終的には100%切り替わりました。

悩みの中心は、さっき言った、妹の相談へのアドバイスと、その後の事件。「俺、あのとき、なんてアドバイスしていたら良かったんだ?」と自問自答を繰り返す日々が始まりました。自分のなかで答えを出せない方向に走ってしまった。自分をかなり責めましたね。

当時は、他のことにまったく手がつかなくなりました。頭痛が起きて、もう何もできないから、逃げ込むように保健室に行きました。授業に出ても、ほとんど上の空でしたし、そもそも教室自体に行けない状態がありました。

藤林:ほとんど授業は出ずに、保健室で過ごす日々が続いていた、と。

兄:そうですね。ただ、そんな自分を親父に知られたくないという気持ちが、やっぱりあったんですよね。家を出るまでは元気な姿で、学校に着いたとたん、もう動けなくなってしまうということの繰り返しだった。自分の口から親父に説明はできなかったです。

親父さんが事前に、高校の先生方に「こういう事件があった子です」と説明していたらしいんですよ。それが一応、耳に入っていたんですよね。だから、保健室に行くようになって、「授業に出ていないと、学校から早い段階で知らされるだろうな」という気持ちもありました。でも、結局は「出席日数が足りなくなった」という通知の形でしか、連絡がいきませんでした。

藤林:出席日数が足りなくなって、もう留年になるかもしれないというところまでなって、ようやくお父さんに通知がいった。通知をもらったとき、お父さんは、どうでしたか。

父:これは、自分に対してですが、「また、やっちゃった」と思いました。「また」というのは、1年前の娘の事件のときも、加害者とのトラブルを知らなかった。それに続いて、息子がこんなに苦しんでいたことを見落としていたというのが、最初の感想でした。本当に、見事にだまされていました。気丈に学校に通い、部活をして、当然、授業には出ていると、思っていましたから。

いま思えば、「こうあってほしい」という希望を自分のなかに植え付けていたのでしょう。「俺はちゃんと仕事をやるから、お前はちゃんと学校行けよ」という願いが実現していると思いたかったんだろう、と。だから「ああ、また失敗した」と思いました。

●初めて自分の気持ちが話せた相手は「新聞記者」

父:そこからは、(息子の通う)医者探しです。会社に相談して、僕自身も仕事を休みました。また、家に男2人という状態がしばらく続きましたけど、今回は「カウンセリングを受ける」と言ってくれたので、話ができるところが見つかるまで探そう、と思いました。そこから、そちらに力を注ぎました。

兄:自分の気持ちを親父に知ってもらえたことは、すごく嬉しかった。やっと肩の荷が降りたかな、という感じですね。正直、親父さんが、自分のことに目を向ける余裕ができたのが嬉しくて。やっと、そこで「親父は死なない」と確信が持てました。

父:どれだけ信用されてないのかって、思います(笑)。ただ、気持ちを僕に伝えてくれたことは、安心しました。まだ10代ですから、いくらでもやり直しができますので。最悪の事態にならなかったことだけが、救いでした。

藤林:少し話を進めますが、実際にカウンセリングを受けられて、何か役立ちましたか?

兄:結果的には、役に立ちませんでした。頭のなかでめぐっていることを言語化できなかった。カウンセリングに行くと、「話してください」というのが、基本なんですよね。俺はたしかに、話したいことがある。でも、話したいことを言葉にできない。それを伝えたくても、その言葉がない。

結局、そこで話したのは、事件があって、そのことで悩んで堂々めぐりをしている状態で、まったく動けないという事実。外枠、アウトラインだけを話す。俺の目からは、それで、カウンセラーの先生方が満足しているように見えるんですね。

話したことについて、「実際、ここの部分はどうなの?」と突っ込んでくれる人がいなかったんです。もちろん、突っ込みにくいというのは、わかります。配慮とか、いろいろあるんだと思います。ただ、そこを話すためのレールを敷いてもらわない限り、自分も言葉として、外にアウトプットできないんですね。

藤林:体験にともなう複雑な気持ちというのは、いまは語ることができても、15~16歳の少年には言葉がすらすら出てこない。それが出てくるような支援やカウンセリングのありかたを考えたほうがいい、と。

兄:考えたほうがいいんじゃないか、と思います。ただ、カウンセリングを受けてみて、「自分の気持ちを話してもいいんだな」と思いました。「自分の気持ちを話そう」と努力をすれば、それを聞いてくれる人がいるんだ、と。それが認識できたのは、かなり大きかったです。「話せる人に出会えるまで続けていこう」という気持ちが少なからず、できました。「待つ余裕」が少しできたという点で、カウンセリングを受けたことの意味は大きいです。

藤林:そして、それを話せるようになったのは、だいたいいつぐらいなんですか?

兄:話せるようになったのは、大学2年生のときです。毎日新聞の川名壮志さん(事件のルポルタージュを書籍で著した記者)に話を聞いてもらいました。それが初めてですね。結局、16歳から大学2年生になるまでは、そういう人は現れなかった。

藤林:そこで話せるようになったきっかけは、カウンセラーではなくて、記者だった。そのインタビューを受けてみようと、よく思いましたね。

兄:知っている人(事件当時、父親の部下)でしたし、「自分の話を聞きたい」と言ってくれましたからね。俺の話を聞きたいという人を、ずっと待っていたわけですから。

●「言葉にすることで、楽になる部分がある」

藤林:話を聞いてくれる人が登場したのが、大学2年生のときで、それはカウンセラーではなく、記者だった、と。ちょっと、絶句しますが・・・。犯罪被害者やその遺族の大人には支援が行くけれども、子どもの兄弟に対して、「あなたの話を聞きたい」という人がいないまま、何年もたったんですね。実際に取材を受けて、言葉にすることで、何か変化がありましたか?

兄:取材を受けているときも、自分が順序立てて話せていないというのは、わかっていました。けれども最終的に、川名さんが聞いたことを全部、文字に起こしてくれたんですね。そこで初めて、自分の思いを理解できたんです。話しているときは必死になっていたけれど、これを言いたかったんだな、と。

取材のときは順番立てて、自分の話に対して、疑問に思ったことを聞いてくれる。その疑問に対して自分は答える。答えたことをきちんとボイスレコーダーで録音してもらって、それを文字に起こしてもらう。文字になったものを見て、自分が考えていたことが初めて理解できた。自分の考えがスッと出ていた。

藤林:ああ、出ていくんですね、文字にすることで。言葉が、文字になって・・・

兄:文章として、アウトプットできた。それを読んでみて、やっと「自分はこんな奴だったんだな」とわかりました。いままでそんなことをしてくれる人は、いませんでした。妹にどういうアドバイスをするべきだったのかという悩みの答えは、結局、出ませんでした。でも、「答えが出なくてもいいのかな」と思った。考えやすくなるきっかけができたという意味では、すごく助かりました。

藤林:まとめに入ります。事件前からずっと息子さんの話を聞いていて、お父さんとして思うことがあれば、お願いします。

父:今日、息子と話してみて、「こんなに話す子だったんだ」というのが、一番の驚きです。たぶん、僕と1年間いっしょにいて話すぐらいのことを、この1時間ちょっとで話しています。

藤林:実際に同じような経験をした子どもさんや大人になった方、それから、そういう方に何か支援をしようと思っている大人に対して、お兄さんから、何かメッセージを述べていただけますか。

兄:まず、犯罪被害にあった遺族として、残ってる子に対して言えるのは「言葉にすることは大事」ということです。言葉にすることで楽になる部分は、少なからずあります。そして、支援を行う人達には「聞きましょう」と伝えたい。もう少し突っ込んでもいいかどうか、アプローチすることが大事です。

藤林:精神科医やカウンセラーも「言葉にするのが大事だ」と言います。だけど、実際に体験した、お兄さんのメッセージは、とても説得力がある。われわれ専門性を持った者も、周囲の大人も、「ここまで聞いてもいいのか」と確認しながら、聞いていくということですね。

兄:問いかけが大事ですね。「周りから見守りましょう」だけでは、治りません。仕事としてきちんと入り込めるプロならば、信頼関係を作ったうえで、きちんと気持ちのなかに入るべきだと思います。

藤林:今日は、初めて公の場で語られたと思いますが、すごく勇気のいることなんです。勇気をもってみんなの前で語ってもらったことを、われわれはぜひ心から受け止めて、これからのために生かせたらと思います。

(弁護士ドットコムニュース)

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