春のきざしを感じる3月の深夜のことだ。都内の会社員Mさん(30代)は帰宅途中、近所のコンビニに寄って、お惣菜を購入した。手にビニール袋をさげて、ルンルン気分。だが、コンビニ前の青信号をわたっていたところ、右側から「ブーン」という音が近づいてきた。
とっさに振り向くと、猛スピードのタクシーがすぐそばにやってきていたのだ。避けようとする足はもつれ、Mさんが「もうダメか・・・」と思った瞬間、タクシーは急ブレーキをかけて、横断歩道手前で止まった。Mさんは腰を抜かし、お惣菜の袋も落としてしまった。
タクシーから見て赤信号だったが、運転手はどうやら見落としてしまっていたようだ。Mさんは無傷だったが、「心臓が飛び出しそうなくらいこわかった」。なんとか立ち上がって、「ポプテピピック」よろしく、運転手に向かって悪態をついた。
帰宅すると、お惣菜がぐちゃぐちゃになっていた。そこから、恐怖や怒りがあふれてきた。タクシーの運転手に対して、底知れぬうらみがこみ上げてくる。Mさんはケガをしなかったが、こんな場合、運転手の責任を問えないのだろうか。交通事故にくわしい清水卓弁護士に聞いた。
●「非接触事故」でも損害賠償を請求できる可能性
「Mさんのケースのように、車両と接触していない事故のことを『非接触事故』といいます。
歩行者と車両との非接触事故については、最高裁の判例が解決指針になります(最高裁昭和47年5月30日判決)。
<接触がないときであっても、車両の運行が被害者の予測を裏切るような常軌を逸したものであって、歩行者がこれによって危難を避けるべき方法を見失い転倒して受傷するなど、衝突にも比すべき事態によって傷害が生じた場合には、その運行と歩行者の受傷との間に相当因果関係を認めるのが相当である>
噛み砕いていうと、たとえ車両と接触していなくても、損害賠償が認められるケースがあるということです。
Mさんが青信号で横断歩道を横断中であった一方、タクシーは赤信号に気づかずに猛スピードで走行していたということからすると、タクシーの走行はMさんの予測を裏切る常軌を逸したものといえます。
Mさんが腰を抜かして、お惣菜の袋を落としてしまったこととの間に相当因果関係は認められるでしょうから、ダメになったお惣菜代の賠償は認められる可能性があります」
●「怖い思い」しただけでの慰謝料は難しい
「ただし、交通事故の判例実務では、慰謝料については、ケガをしたことを前提として認められている傾向があります。そのため、Mさんのように、怖い思いをしたことのみで慰謝料が認められるかといえば、難しいところがあるでしょう。
もちろん、Mさんが転倒によりケガをして、入通院していれば、治療費や入通院慰謝料などの賠償が認められる可能性があります。
また、恐怖で持病の発作が起きた場合も、持病の発作との間に相当因果関係が認められるようでしたら、その発作による入通院の治療費や入通院慰謝料などが認められる可能性があります。
しかし、相当因果関係が否定されたり、持病が損害の拡大に寄与したことを理由に減額がなされたりする可能性もあるでしょう。
なお、Mさんのケースでは、タクシーに全面的に過失が認められる可能性がありますが、非接触事故の場合、過失割合が問題になることもあります」
●刑事責任は?
刑事責任についてはどうなのか。
「ケガが発生していないMさんのケースでは、自動車運転過失致傷罪は成立しません。
なお、猛スピードの走行が速度超過違反などに該当すれば、タクシー運転手は道路交通法違反の責任を問われる可能性があります」