過激派組織「イスラム国」が日本人の湯川遥菜さんと後藤健二さんを拘束し、日本政府などに要求を突き付けた事件が、日本社会を震撼させた。テレビも連日、イスラム国の人質事件のニュースを流しているが、現地の実情にくわしいジャーナリストがコメンテイターとして報道番組に出演することも多い。
そのうちの一人が、フリージャーナリストの安田純平さんだ。安田さんは、イラク・シリアを継続的に取材しており、後藤さんとも親交がある。また、かつてイラクで武装勢力に身柄を拘束され、解放された経験も持っている。今回の事件に対する日本政府の対応や、紛争地帯での取材の是非について、率直に語ってもらった。
●日本社会に望まれる「懐の深さ」
——人質問題について、これまでの政府対応をどう見ている?
イスラム国による2人の日本人の拘束を把握してから事件が表沙汰になるまで、現場レベルでは解決に向けて、一生懸命に取り組んでいたのだと思います。しかし、政府全体としては、最重要の問題だという認識が薄かったのではないでしょうか。
2004年にイラクで人質が殺害されたケースでも、政権運営にはそれほど大きな影響がありませんでした。民間人が人質になると、国民からは「自己責任だ」として、捕まった個人を非難する声があがります。そうした声の存在が、政府の姿勢に影響を与えているのではないかと思います。
昨年11月の段階で後藤さんたちが拘束されていることを知っていたのに、今年1月に首相が中東を訪問し、イスラム国を刺激するような内容の演説をしたことには、そうした政府の認識が表れていると思います。
——「自己責任論」については、どう思うか?
自己責任論といいますが、自己責任で現地に入ることが日本社会で許容されているわけではありません。
日本の自己責任論は結局、「自分では責任が取れないのだから行くな」「世間に迷惑をかけるからダメだ」という話です。自己責任という言葉は、「人質を救助しなくてもいい」と主張するために、便利に使われているだけでしょう。
後藤健二さんや湯川遥菜さんがどのように行動すべきだったか、技術的な問題については、いろいろな議論があるでしょう。しかし、だからといってそのことと政府がすべきこととは別問題で、「見殺しにして良い」という結論にはならないと思います。
一般の行動規範から外れた人間が、ときには新たな可能性を開くこともある。日本社会には、そのように考える、懐の深さがあってほしいと思います。
●現地に行かなければ手に入らない「情報」
——安田さんは2004年4月、イラクで取材中に武装勢力に拘束され、数日後に解放された。そのときの状況と、今回とは何が違うのか?
当時はイラクを米軍が包囲している状況でした。取材中に、地元にあった武装集団の検問に引っかかり、拘束されてしまいました。ただ、「取材だ」ということを説明したところ、3日後には解放されました。
後に取材したところ、地元のイスラム法学者から「ジャーナリストの取材だとわかり、スパイ容疑が晴れたので返した」と伝えられました。
私を拘束したのは、武装集団といっても「地元のコミュニティ」に近く、会話が通じる相手でした。見張り役も「農家のおじさん」といった感じで、近所からはたくさんの子どもが見物に来ました。
しかし、イスラム国は非常に実利的で、地域に根ざした勢力とは全く違う価値観で動いているという印象を受けます。
——なぜ、紛争地帯にジャーナリストが行かなければならないのか?
ジャーナリストが現地に行くのは、「紛争地で起きていることを知りたい」からです。「インターネットで検索すれば見たいモノが見られるから、現地に行く必要はない」という人もいます。しかし、インターネットでは手に入らない情報が、現場には必ずあります。
たとえば、シリア内戦を取材すれば、現地の人たちからは「昔の彼女が敵側にいる。どうしているだろうか」「サッカーのチームメイトが向こう側にいる」といった話が出てきます。そうした話を集めていくことで、なぜ彼らが対立しているのか。どういう思いで暮らしているのかといった、個人個人のディテールが見えてきます。戦闘員のいない住宅地へ無差別攻撃が行なわれているという一部始終を確認できることもあります。
——なぜ、わざわざ日本から行く必要があるのか?
ジャーナリストが1人いれば、それで十分だというわけではありません。1人で集められる情報には限りがありますし、ものの見方は多様です。多様な価値観を持つ人たちが、多様な視点で観察することによって、事態を立体的に検証することが初めて可能になります。その意味で、現地に入るのは、必ずしも職業ジャーナリストである必要がないと思います。必要なのは無事に帰るための技術だけです。
特にイラク戦争は日本が積極的に参加した戦争で、その政策が妥当だったかどうか我々国民が判断するためには、現地で何が行なわれたのかを知る必要があります。日本にとってどう関わりがあったのか、日本人向けに解き明かすには日本人記者が携わったほうがよい場面があるはずです。
イラク戦争などを経て、以前と比べると日本は、アメリカとセットだと見なされることが多くなり、ビジネス的な存在感も薄れてきてはいます。それでも、中東で日本はおおむね、中立的・第三者的な立場だと見なされています。
また、欧米に比べ、日本の社会はイスラム教やキリスト教との関わりが薄く、宗教的な対立から一歩引いたところから、ものを見ることができます。そうした視点でものを見たり、情報発信したりすることは重要だと思います。
●「無関心」こそが問題の温床
——遠い国で起きていることを、なぜ知る必要があるのか?
知る必要がないという「無関心」こそが、いま起きている問題を引き起こしたと言っても、過言ではありません。シリアの内戦やイラクの圧政に国際社会が「無関心」であるうちに、「見捨てられた人々」の間に一気に入り込み、勢力を伸ばしたのが今のイスラム国です。
また、周辺地域では数多くの日本人が仕事をしています。経済的にも日本とは切っても切れない関係にあるということです。日本は無関係だという立場を取るのは難しいでしょう。
——テロリストのことを知る必要があるのか?
「イスラム国」を擁護するつもりはありませんが、紛争解決のためには、その背景を知る必要があります。「イスラム国」の問題は、国際社会にあおられ、見捨てられたという認識を持つ人たちが、社会的な不満を暴発させたという側面もあります。
たとえば日本では、どんな凶悪犯・犯罪集団でも、ひとつひとつの事件について裁判を行い、証拠を積み重ね、反論を聞いたうえで有罪とならなければ罰することはできません。ところが相手を「テロリスト」だとみなしたとたん、証拠を示すことも反論の機会を与えることもなく拘束し、拷問し、殺害してきたのが「テロとの戦い」です。そうして多くの無実の人々が巻き込まれ、混乱の一途をたどったのがイラクです。
04年に私を拘束した連中は米軍には「テロリスト」と言われる人々ですが、直接話を聞いてみると、米軍に家族を殺され、自らも突然拘束されて拷問を受けたという事情がありました。以来、「テロリスト」という言葉を使うこと、そうした言葉で決め付けることの問題を意識するようにしています。
相手を理解しようとか、なぜそうなったのか原因が知りたいという考えではなくて、テロリストだから殺してもいい、拷問してもいいといった感情に流されがちです。しかし、どれほど凶悪な事件であろうと、法によって裁くという秩序と理性を崩してはいけないと思っています。