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旅券返納の杉本祐一さんインタビュー(上)「アフガンで銃を突きつけられ連行された」
新潟で取材に応じた杉本祐一さん

旅券返納の杉本祐一さんインタビュー(上)「アフガンで銃を突きつけられ連行された」

シリアへの渡航を計画し、外務省にパスポート(旅券)の返納を命じられたとして、大きな注目を集めている新潟在住のフリーカメラマン杉本祐一さん(58)。外務省の対応に異議を表明し、「パスポートを失うことは、私の人生そのものが否定されるということ」と訴えている。

だが、なぜ、シリアに行こうとしたのか。これまでどんな人生を歩んできて、いま、どんな暮らしをしているのかは、詳しく語られていない。じっくり話を聞くため、杉本さんの住む新潟市に出向いた。杉本さんは2月13日の夜、新潟駅前の喫茶店でインタビューに答えてくれた。

●ロバート・キャパの「崩れる兵士」を見た

――なぜ、フォトジャーナリストになろうと思ったのですか。

小学校の高学年だった当時、ベトナム戦争の真っ最中だった。そのときは「海の向こうのベトナムという国で、戦争をやっているみたいだ」くらいの認識だった。だけど、中学に入るころになると「なぜ米軍は罪のないベトナムの人たちを殺すのだろう」と考えるようになった。

そんなことを考えていたとき、中学で『壁新聞大会』というイベントがあった。壁新聞を作って、その内容を競って、1位、2位を決めるというような内容だ。僕らのクラスは「ベトナム戦争反対」という内容の新聞記事を書いた。そしたら、2年、3年を抑えて、僕らの新聞が1位になった。

あとは、中学2年生のとき、世界史を習ったときに、ロバート・キャパが撮ったスペイン内戦の「崩れる兵士」の写真を見た。「こんな写真を撮る人がいるんだ」と思った。

ただ、中学を出た後は、職業訓練校の溶接科に2年行って、ジャーナリストとは関係ない建設会社に就職した。建設会社に勤めながら、定時制高校に通っていた。

そのあと、新潟の火力発電所の下請けの下請けの会社に入った。そこに6年くらいいたのかな。やめたのが20代後半くらい。そのあとは、仕事が続かなくて、2年、3年でやめて、転々としていた。

――写真を撮るようになったきっかけは?

越冬闘争(※編集部注:東京・山谷などで年末年始に行われる労働運動のこと)に参加したことがきっかけだ。1983年に初めて参加した。

(東京・山谷の)日本堤にある玉姫公園に日雇い労働者を集めて、食糧配給をしたり、公園にストーブなんかをガンガンかけて、路上生活者が寝泊りできるようにする。その手伝いに行った。

そのときも、新潟で仕事を転々としながら働いていたけど、正月休みを利用して、毎年参加するようになった。

そうした活動の中で、労働者を撮影するカメラマンたちに出会った。機動隊と労働者の衝突や、労働者、野宿者の様子を撮っていて、「こういうカメラマンもいるんだな」と思った。そのとき「おれもカメラマンになれるのかな」と考えた。それから、そのカメラマンたちと交流が始まって、一緒に酒を飲むうちに、趣味で写真を撮るようになっていった。

越冬闘争には結局、95年ごろまで参加していた。

●1994年、初めて紛争地帯の写真を撮った

――紛争地帯の写真を撮るようになったのは、いつから?

最初は1994年。そのころ、僕は(内戦状態だった)旧ユーゴスラビアに興味を持っていた。そこで、同じく旧ユーゴスラビアに興味を持っていた友人と「旧ユーゴに行ってみないか」という話になった。その友人が英語ペラペラだったから、「おまえ通訳しろよ、おれ写真担当するよ」ということで。それで、旧ユーゴスラビアに行って、はじめて紛争地帯の写真を撮ったんだ。

それで、もしかしたら、写真で世界がどうなっているのか皆に教える仕事に向いてるんじゃないか、とふと思った。

その後はずっと、1人で行っている。

95年には、モスクワに行った。ロシア経済がどん底の時期で、ゴミか何かを拾っているモスクワ市民の映像がテレビに流れていた。どんなことが起こっているのか、知りたかった。

クロアチアにも行った。ボスニアから逃れてきた難民がいて、キャンプ生活をしていた。それから、NGO、国境なき医師団のベルギー人部隊やオランダ人部隊を取材して、俺のやる仕事はこれだ、と思った。世界がどうなっているのか、紛争で困っている難民の人たちの様子や、現地のNGOがどんな活動をしてるのかを伝えようと思った。

それ以降、アフガニスタンも1人でいった。アフガニスタンでは、銃を突きつけられて連行されて、飯食え、タバコ吸え、と言われた。最後の飯か、最後の一服かなと勘違いしたんだけど、解放された。

――言葉はどうしていたのですか?

中学卒業程度の英語だ。

たとえば、エチオピアなんかでは、アジスアベバの安宿に泊まってたとき、たまたま僕の目の前を日本人学生が通っていった。「きみ日本人か?」って聞いたら、「はい、そうです」。「きみ、アムハラ語知ってるの?」って聞いたら、「はい」って。それで「おまえ、おれの通訳しろよ」と頼んだ。飢餓地帯になっていたエチオピアのゴーディには、その子と行った。

トルコ系とギリシャ系に分断されているキプロスにもいった。すると、日本人学生がぽつんと一人でいた。僕より英語がしゃべれるんだろうな、と思って、「通訳しない?」って聞いたら、「してもいいですよ」って。でも、僕より全然、英語知らなかった。

僕は一応、軍事用語や医学用語は彼より知ってたから、教えながら通訳をしてもらった。俺は文法は苦手だから、文法を彼に任せて、国連軍のオランダ軍とかイギリス軍に同行取材したりとかね。そんな感じでやりながら、今日に至っている。

杉本祐一さんインタビュー(下)に続く。杉本さんの日本での暮らしについて聞いた。

※杉本さんのインタビュー動画はこちら。https://www.youtube.com/watch?v=6olXOOhgd7c

(弁護士ドットコムニュース)

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