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神奈川県弁護士会、「BC級戦犯横浜裁判」の調査を再開 全国の弁護士に協力求める

神奈川県弁護士会、「BC級戦犯横浜裁判」の調査を再開 全国の弁護士に協力求める

第二次世界大戦中に連合国軍の捕虜を虐待したなどとして、米第8軍が戦後、旧日本軍のBC級戦犯とされた人々を裁いた「BC級戦犯横浜裁判」(以下、横浜裁判)。 神奈川県弁護士会は2020年4月、16年ぶりに横浜裁判の記録や証拠などの資料を分析し、審理を検証する調査を再開した。 1945年12月から約4年間にわたり、横浜地方裁判所を接収して行われた横浜裁判では、331件の事件で、1039人が起訴。123人に絞首刑が言い渡され、51人に刑が執行された。 戦争指導者を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑を執行されたのが、7人であったことを考えると、横浜裁判がいかに苛烈であったかが分かる。 神奈川弁護士会の1回目の調査(1996年から2004年)の結果は、2004年「法廷の星条旗」(日本評論社)として出版された。調査は16年ぶりとなる。 残された事件について、見落とされている事実を掘り起こし、法律家の視点で検討していく予定という。 調査を手がける「BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会」委員長の間部俊明弁護士(75)に、調査再開の経緯や、狙いについて聞いた(インタビュー日:2020年12月22日)。

横浜裁判の担当弁護士の「後悔と熱意」で始まった調査


──先生が横浜裁判の調査に携わるようになったきっかけを教えてください。

私は1945年5月、終戦の年に生まれ、米軍の占領下にあった横浜で育ちました。私が小学生だった頃の横浜は、山下公園に米軍住宅が並び、横浜球場の隣に米軍施設や教会がありました。伊勢佐木町の百貨店や菓子屋が接収され、軍人が街を闊歩していました。

リアルタイムで横浜裁判を経験したわけではありませんが、そうした街で行われていた横浜裁判に関心を持つようになったのは、当然かもしれません。

日本弁護士連合会は1996年、日本国憲法施行50年を前に、各地の弁護士会に記念行事を開くよう通知しました。当時、横浜弁護士会(神奈川県弁護士会の前身)の副会長だった私が、横浜裁判を取りあげた記念行事を弁護士会に提案したのがきっかけとなります。

記念行事では、横浜裁判の弁護人であった桃井銈次弁護士(故人)にBC級戦犯横浜裁判の話をしてもらいました。記念行事の後、横浜裁判の調査研究を提案し、1998年3月、横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会が発足しました。

──1回目の調査では、裁判を担当した弁護人の協力が得られたのでしょうか。

1996年当時は、横浜裁判で弁護活動をした弁護士が、少なからず存命していましたが、「覚えていない」として話を聞くことができず、資料も弁護士の手元には残っていない状況でした。

調査が進展したのは1996年12月、記念行事で話してくれた桃井弁護士と出会ってからです。桃井弁護士も最初は相手にしてくれませんでしたが、熱心に話すと態度を変えて資料を見せてくれました。

桃井弁護士が見せてくれた資料の一つに、事件番号や起訴理由の概要、被告人の氏名、出身地、軍における地位や弁護人の氏名、判決内容、再審申立の結果、執行状況、法務省が昭和30年代に行った弁護人との面談日等を書いた一覧表がありました。

また、「西部軍の搭乗員斬首事件」に関する生の資料も多くありました。

1945年6月19日夜の福岡大空襲の翌日に裁判抜きで米軍俘虜を斬首した第1事件、長崎への原爆投下の翌日である同年8月10日、福岡市内油山で裁判抜きで米軍俘虜を斬首した第2事件、終戦の日である同年8月15日、「玉音放送」の後に俘虜を斬首した第3事件からなりますが、桃井弁護士は第1事件で処刑をした冬至堅太郎主計大尉の弁護を担当していました。

桃井弁護人は、巣鴨に何度も足を運び、冬至大尉は、法廷で述べたい事項について詳細な手紙を書いていたのですが、結果として、法廷で発言する機会を与えられることなく、絞首刑を言い渡されます。桃井弁護士は、そのことを後悔していました。

裁判では、米兵の捕虜33人を殺害したとして、西部軍司令官以下参謀長、法務部長など32人が起訴され、9人に絞首刑が言い渡されました。

冬至大尉は、再審で減刑されたので、その点は良かったのです。ただ、桃井弁護士は、「西部軍事件の裁判とは何であったのか、よく分からなかった」としていました。

委員会の調査が始まると、桃井弁護士は、委員として毎回の会議に出席するだけでなく、自ら国会図書館に出かけてマイクロフィルムをプリントし、英文資料を翻訳するなどしていました。桃井弁護士の思いと、「横浜裁判を後世に伝えたい」という私たちの気持ちが噛み合い、調査が進み始めました。

実は、桃井弁護士は、横浜弁護士会が、会史をつくる際、横浜裁判を取り上げようと、法務省に依頼して資料を入手していました。私に見せてくれた一覧表は、その時法務省から入手した資料でした。

また、西部軍事件の資料については、法務省が昭和30年代に弁護人と面談し、手元にあったBC級戦犯横浜裁判の資料を回収していました。

担当検事が、弁護人を地元の検察庁に呼び出し、担当裁判の感想などを聞きながら、資料の提出をさせていたのですが、桃井弁護士は、他の事件の資料は提出したものの、西部軍事件の資料は出さなかったのです。

1回目の調査では、第1号事件など10の事件を調査しました。

1号事件では、米軍が元俘虜から聞き取った宣誓供述書を虐待の証拠として提出しようとしたとき、アメリカ人弁護人が、法廷で「すでに戦争が終わり、供述者が法廷に出頭することの危険がなくなったのもかかわらず、絞首刑判決のあり得る事件の証拠として宣誓供述書を採用するとしたら米国連邦憲法の修正第6条に違反する」と指摘したのです。

「このようなことを許したらゲシュタボと同じではないか。われわれはそうしたやり方をやめさせるために戦争をしてきたのではないか。ゲシュタボの状態に戻るのはごめんだ」とも主張しました。

軍事委員会は、この弁護人の異議を却下したのですが、調査の結果として、白熱の弁論を紹介できたことは良かったと思っています。

──今回、16年ぶりに調査を再開したきっかけを教えてください。

神奈川県弁護士会は、2030年に、前身である横浜代言人組合の1880年の設立から150年を迎えます。横浜裁判では、44人の先輩弁護士が弁護を引き受けましたが、第1期の調査では、先輩弁護士の取扱った事件のほとんどを調査することができませんでした。

まだ、手つかずの横浜裁判におけるBC級戦犯事件が317件も残されていて、その中には、神奈川県が現場の事件や絞首刑を言い渡された重大事件が数多く含まれています。

今後10年かけて、調査をすることは、神奈川県弁護士会の歴史的責務ではないかと考え、執行部に再調査を提案しました。常議員会でBC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会の再設置が決まり、2020年4月、同委員会が立ち上がりました。

──今回、再び弁護士会に調査を提案したことには、何かのエピソードがありますか。

「夫が絞首刑になった経緯を調べてほしい」との依頼を断った苦い思い出があります。

すでに述べましたが、2004年7月、第1期の調査委員会は、「法廷の星条旗」(日本評論社刊)を出版しました。出版から2年後、本を読んだ熊本県の女性から、「自分の夫が、横浜裁判で絞首刑になった経緯を調べてもらえないか」と手紙が送られてきました。

すでに委員会が解散したこともあり、丁重に断わりました。しかし、その出来事が、私にとっては苦い思い出となり、この事件を含めていつか調査を再開したいと思い続けていました。

──女性の夫の事件は、どんな事件だったのですか。

「111号事件」といわれるものです。女性の夫で、福岡県の捕虜収容所の監視員だった男性が、米国人捕虜7人に暴行等を加え、2人を死亡させたというものです。裁判で、男性に絞首刑が言い渡され、1948年に執行されました。

女性によると、夫は戦争でけがを負い、事件当時、人を殺めるような体力はなかったそうです。女性は裁判で「2人も殺せるはずがない」と証言するため、熊本から列車を乗り継いで、横浜の裁判所に駆けつけました。

しかし、予定された裁判の期日が早まり、裁判所に到着したのは、絞首刑判決が言い渡された翌日だったというのです。ひどい話です。

弁護人は、妻の証人尋問を申請しなかったのだろうか、申請していたとしたら、妻を尋問しないままの結審に法廷で抗議しなかったのだろうか、軍事委員会は、どのような証拠調べをしたのだろうか、再審申立はしなかったのだろうか。

夫は、「世紀の遺書」(講談社)という本に収録された遺言の中で、妻に感謝の言葉を述べるとともに、「まだ若いのだから再婚して幸せになってほしい」と書いていました。

しかし、妻は、看護師として働きながら、夫がどのような裁判で絞首刑となったのかを知りたいと奔走してきました。地元新聞社主催の「私の戦後史」に応募して1等賞まで得たと聞きました。そんな方が、たまたま、「法廷の星条旗」を知り、横浜弁護士会に電話してきたのでした。

もう、この方は亡くなっているかと思いますが、調査をしなければならないと思っています。

「事件は日本中で起きたもの」全国の弁護士に協力を求める


──今回の調査は、どのような方針、方法で進めますか。

1回目で調査した10件を除く事件を調査対象としていますが、時間や人手には限りがあります。絞首刑が言い渡された人数だけでも123人に上るため、まずは「111号事件」のような重大事件から調査したいと考えています。

法務省が弁護人の手元から収集した資料は、現在国立公文書館に移管されていて、情報公開請求すれば開示されます。また、復員局職員による裁判の傍聴記録は外務省の外交史料館から取り寄せることができます。

しかし、これらの資料は、被告人の氏名など個人を特定する情報は黒塗りで開示されます。本来であれば、国が真実を解き明かし、国民に知らせる責任があるはずです。戦後75年が経過した今、歴史史料の公開に踏み切ってほしいと思います。

横浜裁判の調査は、弁護士が本業の傍らでやるような作業とは言えません。また、裁判がたまたま横浜で行われていたことから、我々が調査していますが、事件は日本中で起きていました。事件現場を地域内に抱える弁護士会では、それぞれの事件の調査に立ち上がるように期待したいです。

また次の世代に伝えるという意味で、若い弁護士に協力してもらえたらありがたいと思います。

──横浜裁判の真相を解明することにより、どのようなことを社会に問いかけたいですか。

日本国憲法の前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し──」と書かれています。

「戦争の惨禍」とは何か、を私たちは教えられてきませんでしたが、戦犯裁判を調査していくと、この言葉にたどり着きます。被害と加害の連続。実にやりきれない思いになります。

アメリカによる市街地への無差別爆撃で多数の市民が死亡しました。無防守都市への無差別爆撃は、国際法違反の違法な戦闘行為です。

東京大空襲時、渋谷にあった陸軍衛戍刑務所では、俘虜を避難させず、多くの俘虜が焼死しました。避難させなかった刑務所長や職員5人が起訴され、全員に絞首刑の判決が言い渡されています。

福岡大空襲の翌日に西部軍第1事件が起き、長崎の原爆の翌日に第2事件が起き、責任者に、こちらも絞首刑の判決が言い渡されました。

名古屋空襲では、名古屋市民のランドマークであった名古屋城が焼失し、東海軍事件が起き、岡田資中将が絞首刑の判決を言い渡され、執行されました。

その他にも、被害と加害が連続して起きた事件があるのではないか。私たちは、横浜で行われた軍事裁判の調査を通じて、戦争末期の日本で起きた「戦争の惨禍」を知る必要があるように思います。

政府の行為によって「再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し」、主権が国民にあることを宣言した憲法前文の言葉の底にある歴史の重さを共有できるようにしたいと思います。

もうひとつあります。「上官命令への抗弁は許さない」という裁判規程が今日持つ意味を考えてはどうでしょうか。

「被告人の上司または政府の命令による行為は抗弁とはならない」との規程は、上官の命令があったとしても、個人の自律的判断で違法行為を拒絶できたはずという考えに立っています。

「日本の軍隊の実状からすれば、このようなことを期待することは無理だ」「この規程は、戦勝国の論理だ」との批判もあるかもしれませんが、組織の中にある個人のあり方を考えさせる言葉でもあるような気がします。

昨今のわが国では、上司や政府への「忖度」とか「空気を読む」ことが優先する社会になってしまったかのように感じます。

「被告人の上司または政府の命令による行為は抗弁とはならない」という規程のもとで、横浜裁判において、戦犯とされた人々がどのように主張し、どう裁かれたのか。横浜裁判の調査研究は、今日的な意味を持っていると思います。






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