「理論と実践の役員研修」でガバナンス改革担う BUSINESS LAWYERS AWARD 2025 市川佐知子弁護士
「BUSINESS LAWYERS AWARD 2025」全受賞者インタビュー。ガバナンス改革部門の市川佐知子弁護士(田辺総合法律事務所)に聞く。 【受賞理由】 社内・社外を問わず取締役の資質向上を通じ、日本経済の発展に貢献することを目指すBDTIに設立当初より参画。バラエティに富んだ役員研修プログラムの設計者・講師として中心的役割を担い、多くの企業人をトレーニングした。企業の競争力強化とサステナビリティの実現に向け、実効的な研修を提供し続ける功績は大きく評価に値する。 【プロフィール】 いちかわ・さちこ 東京大学法学部卒。銀行勤務を経て1997年に弁護士登録。公益社団法人会社役員育成機構(BDTI)理事として役員研修を担う。東京エレクトロンなど社外取締役の経験多数。NY州弁護士や米国公認会計士(USCPA)、サステナビリティ会計(FSA Credential)の資格も有する。
転機はライブドア事件
もともと多く扱っていたのは労働法務。転機となったのは、2006年のライブドア事件だった。粉飾決算が問題となったこの事件は、堀江貴文社長らに有罪判決が下るなど、社会と経済に衝撃を与えた。一方、法律面でも金融商品取引法21条の2が適用された初の重大事件という点で注目を集めた。
同条は有価証券報告書などに虚偽記載があったときの発行体の損害賠償責任を定めたもので、2004年に追加されたばかり。この規定を根拠に投資家たちが訴訟を提起し、その一部で市川佐知子氏がライブドア側の代理人を務めた。
「金融機関が当事者だとコンフリクトその他の制約が多い。そこで米国留学から帰ってきたばかりの私が担当することになりました」
それまでも虚偽記載事件での訴訟はあったが、損害額や因果関係の立証が難しく、数は少なかった。しかし、21条の2で企業や役員個人が訴えられるリスクが跳ね上がった。
「虚偽記載事件が起きると、訴訟対応で社内の機能が止まってしまう。会社を株主のものだと考えれば、虚偽記載事件は株主が株主を訴えるという構図でもあり、どちらに転んでも株主利益が損なわれ、取締役の責任の重さを考えさせられました」
コーポレートガバナンス(CG)の不在がもたらす多大なコストを痛感したのは、事件後にライブドアの社外取締役に就任したニコラス・ベネシュ氏も同様だった。意気投合した2人は、当時ほとんど意識されていなかったCGを学べる場として、2009年に公益社団法人会社役員育成機構(BDTI)を設立した。
ベネシュ氏の提唱もあり、2015年には金融庁と東証による企業統治の原則を定めたCGコードも適用され、CGへの意識が高まっていく。
実践型研修で役員力を鍛える
BDTIでは、設立以来4500人超の取締役らを指導。市川氏はその多くで研修の設計と講師を務めている。
たとえば、実際の事件をモチーフに模擬取締役会をおこなうロールプレイ研修。アクティビストや敵対的TOBなどにいきなり対応するのは難しく、「シミュレーションであっても、1回経験しておくと心構えが違う」という構想のもとに生まれた。この研修では、参加者が演じる取締役ごとに経歴や考え方などの細かな設定があり、“際どい”やり取りが発生することもある。
「取締役会は多数決です。いくら自分がCGを理解していても、周囲と価値観を共有できないとCGの実現はできない。少数派のときに発言する心細さや、それを踏まえどう立ち振る舞うかなどは座学ではわかりません」
このほか、一般従業員らも対象にしたeラーニングコースも整備。こちらは累計1万7000人以上が受講している。
市川氏自身も東京エレクトロンやオリンパスなど大企業の社外取で、理論と実践の反復を通して研修の質を磨いてきた。近年は特に受講者のレベルアップを感じる機会が増えたといい、「企業ごとにカスタマイズした研修では、毎年参加者が違うのに年々レベルアップしている会社があります」と手応えを語る。
「CGの形骸化」に抗う
ただ、社会の意識向上に反して、CGの形骸化を指摘する声もあり、「CGは企業の“稼ぐ力”の強化を目指していたのに、コードのコンプライアンスが目的のようになっています」と危機感を口にする。
CGコードは、政府の成長戦略として導入されたもので「攻めのガバナンス」が主眼だった。しかし、日本企業のROE(自己資本利益率)やPBR(株価純資産倍率)は改善したとはいえ、海外と比較すれば未だに低い。市川氏は「取締役会の弱さ」に原因があるとみる。
たとえば、日本企業は、長期戦略とは別に管理のしやすい3〜5年の中期経営計画を立案・公表することが多いが、未達成でも経営者は簡単に変わらない。「企業価値を上げられる経営者を選ぶのもCGです」
状況を打破するため自己研鑽を怠らない。財務・会計への理解が重要だと感じれば米国公認会計士(USCPA)に、長期戦略が必要ならばとサステナビリティ会計の資格(FSA Credential)も取得した。法律の専門家から企業経営の専門家へ—。労働法務で培った人事評価のノウハウも役に立っているという。これらをBDTIの研修に落とし込み、「日本企業のROE向上につなげたい」と語る。
弁護士になる前は銀行員だった。新卒で入行した1989年の年末、日経平均は当時の史上最高値を更新。そして年明けから急落した。“失われた30年”のはじまりにいた市川氏はいま、そこから立ち直ろうとする日本企業を支えている。