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「反対だけでは弁護士の使命を果たせない」人と政治を動かす“仏のガンジ”の人間力

「反対だけでは弁護士の使命を果たせない」人と政治を動かす“仏のガンジ”の人間力

「ガンジ先生」の愛称で親しまれる第54代日弁連会長。2024年3月末までの2年間の任期中は、歴代執行部の積み重ねも生かし、いくつもの施策を進めてきた。 ライフワークだという法律扶助では法テラスの一部運用改善に成功。再審法をめぐっては与野党の党首クラスが集まる超党派議連も立ち上がった。ときには総会のオンライン配信実現という柔軟さも。 なぜ物事が決まるのか。なぜ施策が進むのか。リーダーシップの源泉に迫った。 取材・文/山口栄二、園田昌也、写真/森カズシゲ (弁護士ドットコムタイムズVol.73<2024年12月発行>より)

●山野を駆け回った少年時代 「ご縁の大切さ」知る


中国山地を縦に貫き岡山県と鳥取県を結ぶJR因美線。その沿線にあった山間の町の農家に小林氏は生まれた。「あった」というのは、生まれ故郷の岡山県加茂町は平成の大合併で津山市に編入され、今は住所に名を残すだけだからだ。

小学校は分校で、家から山道を往復10km歩いて通った。自転車通学が認められていたものの中学校も往復14km。いずれも統廃合され、今はもうない。弁護士会館がある霞が関とはかけ離れた野山で育った経験が弁護士としての原点だという。

「私は弁護士業界では少数派の田舎もんだからですね。古い価値観なのかもしれませんけど、お金じゃなくて、やっぱり人と人とのご縁や義理とか人情を大事にする風土で育ちました。母からも近所の人や友だち、先輩、後輩、同僚をしっかり大事にするよう仕込まれましたね」

冬になるとよく雪が積もり、早朝から近隣住民たちと雪かきして通学路を切り開いたという。そんな厳しい環境でも小中学校は一日も休まず、皆勤した。

「頭が痛かったり体調が悪かったりしても、学校に行くと治るんです。友だちがいるから楽しかった。勉強も好きだったし、図書室に行けば本も読める。田舎だから当時はラジオしかなかったんですよ」

新聞も隣家では地元の山陽新聞をとっていたが、それも毎日届くわけではなかったという。家にあった雑誌は農協の『家の光』くらい。とにかく活字や知識に飢えていた。

学校の先生は身近にいるほぼ唯一とも言える大卒の大人で、食い入るように話を聞いた。教える側からすれば可愛くないはずがない。特に記憶に残っているのは、小学4年生のときの音楽の先生。東京の出身でよく自宅に招いてくれたといい、本や進路について話を聞けたことは人生にとって大きな経験だったと振り返る。

愛称の「ガンジ」が生まれたのもこのころだ。

「先生がね、あなたはこれから『ガンジ』と呼ぶことにしましょうと言うわけです。唐招提寺の鑑真和尚とか、インドのマハトマ・ガンジーとかがいて親しみやすいと。それからはもう、友だちがガンジとかガンちゃんとか呼ぶようになって、私も『通称・小林ガンジです』と言うようになりました」

ちなみに本名の「元治(もとじ)」は、1864~65年に使われた元号「元治(げんじ)」にちなんで母親が名付けたという。開国派と尊王攘夷派の対立が激化していた時期で、新選組による「池田屋事件」、京都で長州藩と薩摩藩・会津藩が激突した「禁門の変(蛤御門の変)」、英仏蘭米による「四国艦隊下関砲撃事件」が立て続けに発生。長州藩が攘夷の限界を悟り、その後の薩長同盟、明治維新へと続いていく。

そんな「新時代のターニングポイント」を名に負う小林氏もまた、幕末や明治維新の志士のごとく、地方から外の世界へ飛び出していくことになる。


●学生運動が変えた進路希望 農業科学者から法曹志望へ


小学校高学年のころにはもう、生まれ故郷は少々狭くなっていた。冒険の舞台は実家の近くにあった因美線の「物見トンネル」。岡山から鳥取へと抜ける全長3km余りで、当時としては全国有数の長さだった。

「私はガキ大将でしたから、『トンネルの向こうの国を見てみたい』と下級生5人を連れて行ったんです。1人で行くより、みんなのほうが楽しい。途中何度も機関車をやり過ごし、全身はすすで真っ黒になりました。それで景色を見て帰ってきたら、子どもたちが集団でいなくなったと大人たちが大騒ぎ。いやあ、怒られた怒られた」

今考えるとアメリカの映画『スタンド・バイ・ミー』のような小さい冒険物語だったと微笑む。

中学卒業後は津山高校に進学。現在こそ同じ津山市だが、通学には往復5時間もかかった。しばらくは実家通いをしていたものの、津山市内で下宿をすることに。

しかし、山を下りても周囲との密なコミュニケーション空間は変わらなかった。下宿先には高校の同級生が何人もいたからだ。元裁判官の貝阿彌誠弁護士もこの下宿先の関係者のひとり。

「私が東京弁護士会会長のとき、彼は東京地裁所長でした。東京の裁判所、弁護士会、検察庁の3つの組織のトップでつくる三長会というのがあって、しょっちゅう食事や意見交換をする時期もありました」

仲間たちと本を読み、日夜議論を重ねる「旧制高校の寮」のような日々。1968年に東大紛争がはじまるなど学生運動が盛り上がる中、自然と社会への関心も高まった。実家が農家だったため当初は農業科学者を志望していたが、「研究室の中で一生過ごすより世の中のことにかかわりたい」と文転し法律家を志すようになった。血がたぎって、実際の現場を見てみようと単独で東京へ行ったことも。そうすると途端に学校の勉強が物足りなくなった。

「高校は毎月のように試験があって成績上位者の名前が張り出されていました。最初のうちは頑張るわけですが、そんな管理体制に嫌気が差しちゃった。学校からみると問題生徒だったのかもしれません。ゲバ棒持って革命に走るんじゃないかと心配したのか、校長先生は大学進学後も定期的に手紙をくれました。これには慈父の励ましのような感動を覚えました。

ただ、自分の中では既存の価値観に反抗しながらも、親父やお袋、学校の先生に迷惑はかけちゃいかんという自制心はありましたね」

実際、中央大学に進学しても学生運動に参加することはなかった。日本全体では下火に向かいながらも、中大ではまだ駿河台キャンパス内をコンクリート片が飛び交うほど、学生運動は盛んだった。学校閉鎖も珍しくなく、授業の多くがレポート課題になっていた。

そのため一度も授業に出なかった年もあったそうだが、代わりに毎日、学内の司法試験受験団体「玉成会」へ通った。答案練習はもちろん、法律に限らず仲間と議論し合った。高校時代の下宿の大学版といった感じで「人間の涵養と同時に世間的な見識の涵養ができた期間だった」と振り返る。玉成会のつながりは、のちの日弁連での会務や会長選挙にもつながっていく。

玉成会以外では「五葉会」という禅のサークルにも所属。「私はちょっと血の気が多いから瞑想して心を鎮めるんです」。禅をきっかけに書もはじめた。事務所の応接室には自筆の漢詩や論語の言葉がいくつも掲げられている。

当時住んでいたのは「鶴山館」という1891年創立の岡山県学生寮だった。「ガンジ」の行く先には常に人の輪が生まれる。ここでもまた異なる大学の住人たちと濃厚な時間を過ごした。同館は津田真道(初代衆議院副議長)、菊池大麓(東京、京都の両帝国大学総長)、平沼騏一郎(検事総長、大審院長、枢密院議長、内閣総理大臣)といった面々が館長を務めており、小林氏は請われて2024年6月から館長・理事長に就任している。


●依頼者のため不正義と戦い続ける 恩師たちからの教え


司法試験に受かったのは26歳のとき。一時は地元に帰ることも考えたそうだが、母親が仕送りとして50万円をかき集め、背中を押してくれた。しかし、それもほどなく底を尽き、新聞配達などで糊口をしのいだ。最後は千代田区の番町小学校の夜警として働きながらの合格だった。

駆け出し時代には、貸金業法の問題に熱を入れた。当時はサラ金から高金利の借金をして、返済に苦しみ自殺したり、夜逃げをしたりといった被害が多発する「サラ金地獄」が社会問題化していた。

小林氏もイソ弁時代、サラ金に苦しんだガソリンスタンドの経営者から相談を受けたことがある。不当利得で返還請求できると判断し、計算ソフトもない時代に手作業で計算するなど1カ月余りをかけて反訴請求した。

「そしたら取り返せたんですよ。数十万円程度だったと思いますけど。依頼者の方はとても喜んでね。涙を流して『神様に見える』って」

そこでサラ金被害をなくしていこうという活動をはじめた。救済の壁になったのが議員立法で成立していた「貸金業規制法」だった。

当時、最高裁からは(1)利息制限法を超える利息については元本に充当する、(2)元本に充当し終わった後に支払った金利分は不当利得として返還請求できる――という2つの判例が出ていた。

しかし、この貸金業規制法の43条では、利息制限法を超える金利を「任意に」支払った場合には返還請求できないと規定された。「規制法」とは名ばかりで、実質的には最高裁判例を無力化するものだったのだ。

「これでサラ金被害が拡大する可能性があった。そこで43条の『任意に』支払った場合という文言を『利息制限法を超える違法な金利であることを認識した上で、これを払えばもう返還請求できなくなるということまで認識をして支払ったこと』が要件だと限定的に解釈すべきだという理論を構築しました」

民法学者の故・森泉章弁護士(青山学院大名誉教授)らと執筆した解説書『貸金業規制法』は全国の裁判官室に置かれたといい、「最終的には43条が事実上死文化する状況になりました」。森泉氏とは20歳以上離れていたが、このときの縁で大学退官後は亡くなるまで、独立した小林氏の事務所に在籍した。

「影響を受けた弁護士には、企業再建で知られる清水直先生もいます。清水先生は依頼者のことを思う熱い先生でした。大学の先輩で弁護修習の恩師だったのですが、不正義とは妥協せずに戦い続けることで光明が見出せるのだという弁護士としての魂を学びました」

●「これが自分の天命」 法律扶助との出会い


お金のない人が司法サービスを受けられるよう援助する「法律扶助」制度とかかわるようになったのは、会務がきっかけだったという。

「中大時代に学んだ玉成会の関係者が多いということで、東京弁護士会に登録して春秋会に入ったんです。法友会という政策団体の一会派ですが、そこで法律扶助改革がテーマになった。チームのリーダーとして法律扶助制度の要綱案をつくったのがとっかかりでした」

日本が法律扶助で遅れていると国会でも問題視され、1994年には法務省に「法律扶助制度研究会」が設置された。法友会での経験から小林氏も日弁連代表として参加することになり、幹事も務めた。

「日本の法律扶助には法律もなければ、予算もほとんどついてなかった。いつ切られるかもわからないし、金額は本当に少なかったですね」

国内では日弁連が約300万円を拠出して、1952年1月24日に「財団法人法律扶助協会」を設立したことが法律扶助のはじまりとされる。ところがすぐに資金不足となり、1958年度からは国庫補助が開始された。だが、金額は微々たるものだった。

1998年に研究会がとりまとめた報告書を受け、2000年に民事法律扶助法が成立。これにより予算は前年度の約9億円から約21億円に増えた。

しかし、小林氏はなぜここまで打ち込めたのだろうか。

「大学時代に松本清張の『霧の旗』を読みました。兄の冤罪を晴らそうと九州から上京してきた妹が大物弁護士に依頼して断られるのですが、そこで出てくるセリフが『お金がない者は助けてくれないんですね』。権利、権利といっても、お金がなければ法律相談も裁判もできない。絵に描いた餅なんですよ。

それに私が生まれ育った田舎は法律の恩恵をまったく受けておらず、法律とは別のルールでトラブルが解決されてしまうこともある。法の下の平等という意味では全国あまねく支援が行き届かないといけない」

小林氏の誕生日は1952年1月3日。生まれ年にはじまった法律扶助の改革に携わることになり、「自分の天命だ」と力も入ったという。こうして法律扶助がライフワークになっていく。

2001年に司法制度改革審議会の意見書が発表されると、さらに刑事や過疎対策、犯罪被害者支援、情報提供なども含めた総合的な法律援助制度が必要とされた。小林氏は日弁連側の担当者として法テラス(日本司法支援センター)の設計にも関与。省庁と弁護士会の間を調整し、2006年10月から業務がはじまった。その後も、法テラスのスタッフ弁護士を10年間養成し、全国各地に送り出し、支援し続けた。


●最愛の息子たちに先立たれ…自分の役割を自問


そんな小林氏を15年ほど前に悲劇が襲った。

「子どもは3人いたんですけど、25歳の長男と20歳の次男を相次いで亡くしました」

全身から力が抜け、悲しみに打ちひしがれる日々が続いた。自分が子どもを支えているつもりが、実は子どもに支えられていたことを痛感する。そんなとき、地元岡山県の真言宗の住職から手紙が送られてきたという。そこには一首の歌が書かれていた。

この世をば あだにはかなき 世と知れと 教えて帰る 子は知識なり

「早くに亡くなった子は親に対し、この世の中ははかないから、この現世でしっかりと生きなさいという激励をしにきたと言うんです。だから悲しんでるだけじゃダメですよ。世のため人のためになるようなことをしなさいよ、と言われているんだと。

この話を聞いて、ハッと思いましたね。悲しんでいるばかりでなく、自分は弁護士として依頼者のためはもちろん、弁護士や社会のためにも役に立つ仕事をしなきゃいかんと。それが私の役目かなと。より強く思うようになりました」

その後、東京弁護士会会長、日弁連の会長を歴任。「息子たちの導きもあった」としみじみ語る。

●「我々には予算編成権も法案提出権もない」 目的実現のためのしたたかな戦略


2024年3月末で日弁連会長の任期を終えた。

「何かの政策を実現するには短すぎるが、大過なく過ごすには長すぎる」と2年間を振り返る。それでも多くの筋道をつけた。特に強く意識したのは、財務省や政治家との関係の強化だったという。それは30代で東京青年会議所(JCI東京)の理事長を経験したときの教訓から生まれた。

「我々は法曹三者の狭い中だけでやっていてはダメ。弁護士には予算の編成権も、法案の提出権もない。だから国会議員、そして予算をつける財務省。ここの理解を得ることが大事なんです」

実は小林氏は、2011年の東日本大震災への対応をきっかけに財務省との独自のパイプを築き、十数年前から勉強会をはじめていた。日弁連と財務省が交互にテーマを設定し、財務省の気鋭の若手たちも次々に参加したという。

「これもご縁ですよね。だからずっと主計官、主計局長、事務次官といった人たちと付き合いがあります。我々は『財務省の抗弁』って呼んでますけど、法務省と話をしていると『やっぱり財務省が了解してくれないから』ってよく言うんですよ。だけど勉強会のおかげで財務省と直接話せるようになった」

会長就任後に取り組んだ法テラスの運用改善でも法務省、法テラスとの勉強会を進めつつ、財務省も巻き込んでいった。

「法律扶助のことを英語でリーガルエイドというんですけど、諸外国はみんな給付しています。ところが日本での実態はリーガルローンなんですね。償還制(貸付)から原則給付制にしないといけない」

しかし、一気に原則給付に持っていくのは難しい。そこで少しずつ給付制に近づけていくことを目指した。その結果、2024年度から義務教育対象年齢の子どもを養育するひとり親の離婚事件等について、資力がない場合は実質的に給付制へと運用が変わった。

制度設計の仕事に長くかかわってきた関係で、懇意の政治家も多い。付き合いの長い国会議員になると党の重鎮や大臣クラスも珍しくなくなってきた。

「私はいつも言うんです。人権擁護と社会正義、これが弁護士の使命です。そのためには法律をつくり、予算を取らなければならない。権力と対峙しないといけない局面もありますが、連携すべきときには連携することも重要です。反対するだけでは、市民のための司法サービスをつくれない。もちろん与党一辺倒ではなく、全政党と懇談会をやっています」

たとえば、任期中に立ち上げ、自ら本部長に就任した「再審法改正実現本部」の取り組み。議員らに直接働きかけて、2024年3月に超党派議連「冤罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」(会長:柴山昌彦氏)を立ち上げることになった。

設立時の参加議員は134人だったが、10月8日時点で350人にまで拡大。最高顧問には麻生太郎、顧問には山口那津男、泉健太、玉木雄一郎、馬場信幸、田村智子の各氏と、与野党の党首クラスが並ぶ異例の議連だ。

袴田巌さんの再審無罪判決が確定したこともあり、再審法の改正を求める声も高まっている。

●報酬、安全性、不祥事対策…業界の持続可能性に苦心


在任中はこのほか、弁護士業界をいかに持続可能な業界にしていくかに苦心した。たとえば、法律扶助では弁護士報酬が通常よりも低く、担い手となる弁護士不足が懸念されている。2023年3月の臨時総会では、日弁連として給付制の採用や弁護士報酬の適正化などを求めていく方針を確認。同年12月の臨時総会では、国選弁護について不足分を日弁連が援助する仕組みなどを整えた。「法テラスの改善・改革は不断にやり続けなければなりません」と強調する。

また業務妨害対策にも注力。弁護士が逆恨みをされ、心身に被害を受けることもある。過去には命を落とした弁護士も。その最たる事例がオウム真理教による「坂本堤弁護士一家殺害事件」だ。小林氏は2023年、現役会長としては約30年ぶりに一家の遺体が埋められていた新潟、富山、長野の3県を回る慰霊の旅に参加した。

「やっぱり現場に行ってみないとわからない。たとえば、坂本弁護士は山の頂上に埋められていたんですが、周りは草がうっそうと茂っている。そこを地元の森林組合の人たちが、きれいに刈って道をつくり、墓守をしてくれていました。本当にありがたいことです。我々は業務妨害で命を落とした人のことを忘れてはいけない。悲しむだけで風化させてはいけません」

近年では業務妨害的な懲戒請求も増えており、2017年には右派ブログを発端とした大量懲戒請求も起きた。懲戒請求への対応は単位会マターのため、日弁連としての決定はできないが、理事会決議で実費を請求することもあり得るという方向性を出した上で、各単位会で議論してもらうよう取りまとめた。

他方で、本当に責められるべき弁護士不祥事も社会問題化しつつあり、「問題を抱えたら相談し合える弁護士会をつくり、問題行為が起こらないよう不断に目を光らせておく必要がある」と、弁護士自治の崩壊も懸念する。

小林氏は高校時代、将来の進路として政治家が脳裏をよぎったこともあったという。しかし、母親からは「政治家なんか絶対になっちゃいけないよ」と釘を刺されていたそうだ。今ではめったに聞かなくなったが、かつて「井戸塀」という言葉がリアルに響いた時代があった。政治家になったらお金がかかるばかりで私財を使い果たして、最後には井戸と塀しか残らないという意味だ。私財を投げ出す覚悟がなければ政治家になるべきではないという戒めのように今では思う。

小林氏は今後も日弁連会長経験者として各界のパイプとなり、民事法律扶助制度の改善や再審法改正などの活動を通して、信頼される司法サービス、持続可能な弁護士業界にすべく力を尽くす考えだという。母の予感は大きくは外れていなかったのかもしれない。

小林元治弁護士

1952年岡山県生まれ。津山高校、中央大法学部を卒業後、81年に東京弁護士会で弁護士登録(33期)。法務省法律扶助制度研究会幹事(97年)を皮切りに、法律扶助制度の拡充や法テラス(日本司法支援センター)の立ち上げに従事する。東京弁護士会会長(2016年度)などを経て、日本弁護士連合会会長(22、23年度)。主著に『貸金業規制法』(勁草書房)など。

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