医師の子どもという宿命 弁護士としての使命を負う
医療過誤事件には、「立証が難しい」「報酬が割に合わない」といった課題が根強くある。その医療過誤事件に約40年間、伊藤氏は携わってきた。
「医療過誤事件は推理小説のようなおもしろさがあるんですけど、それだけではなくて、患者の死因を明らかにして、再発防止を徹底する一助となることが弁護士としての社会的使命なんですよね」
医師である両親のもとに生まれ、いわゆる「60年安保闘争」が叫ばれていた時代に高校を卒業した。
「医師の子どもは世間知らずだから」と語る伊藤氏は、広い社会を見てみたいという思いで法曹界に飛び込んだ。「両親が医師ということもあって、1年目から医療過誤の事件を紹介していただいたんです。でもやってみたら、向こうは医師でこっちは患者ですから、知識に信じられないほど差がある。必死に勉強しましたね」
あるべき命を守るため 医療界に問い続ける
2005年、ある女性が出産後に発熱し、肝障害の疑いが見られた。調べてみると、EBウイルスによる血球貪食症候群。その女性はまもなく亡くなってしまった。
「このEBウイルスによる血球貪食症候群は、初期の段階ではほとんどよくなるんだそうです。ところが、一審の裁判官はよく知らないもんだから、何をしたってどうせ重症化しただろうと判断されてしまった」
なぜ、この女性は亡くなってしまったのか。事実を正確に把握しなければ、論理を構築することができない。
「ご主人が一生懸命調べて、私もそれをサポートしました。そうしてわかったのが、熱が出たときに抗生剤を投与されていたんですね。ここが大事だったんです」
抗生剤は菌と対応関係にあり、すべての菌に効く抗生剤は存在しない。そのため、アメリカなどでは菌を同定してから抗生物質を投与することが義務付けられている。
「日本は菌を特定しないで、広域抗生物質だから効くだろうという乱暴なやり方でどんどん投与しちゃう悪習慣があるんです。誤った抗生物質を投与すると、抗生物質に強い『耐性菌』ができてしまうんですね。このケースも耐性菌ができていました。耐性菌ができたことを知らずに、どんどん違う抗生物質を投与していた。それで重症化して、敗血症になったわけです。それが死因だと。高裁の裁判官はそれを理解し、認定してくれたんですね」
菌を同定せずに抗生剤を投与し、耐性菌となって敗血症が引き起こされてしまった事件は少なくない。それでも、日本の医療現場ではいまだに改善が進んでいないのが事実だ。
「日本は、アメリカのように菌を同定して抗生物質を投与するということが徹底されていないんです。菌を検査機関に出すと、2〜3日かかってしまう。だから、広域の抗生物質を投与した方が時間的ロスが少ないという理屈なんですね。でも、誤った抗生物質を与えると余計悪くなってしまうんですよ」
2006年、最高裁で菌を同定せずに抗生物質を投与したことを有責とする判決が出た。遅々としたあゆみではあるが、医療界は少しずつ動き出している。
「本来であれば、厚生労働省(以下、厚労省)が改善に向けて一生懸命がんばらないといけません。でも厚労省がやらないから、弁護士が一生懸命がんばらなくてはならない。そうでないと、死ななくていい人が死んでしまうんです」
ADRによる解決の推進 死因の究明が急務
1994年、市民のための迅速かつ公正な手続きによる紛争の法的解決を目的に、東京弁護士会に「あっせん・仲裁センター」(2005年に「紛争解決センター」に変更)が設立された。毎年130〜150件の案件をADR(裁判外紛争解決手続き)によって解決している。伊藤氏は、その立ち上げに参画した。
「特に医療過誤事件は裁判での立証が大変なので、死因を立証できない案件について話し合いで解決したいということでスタートしました。死因究明の仕組みがない中でのADRには、死因をごまかされてしまうというデメリットがあります。ところが、医療事故そのものは潜在的にたくさんあるわけです。死因は立証できないけど、医療側に説明をしてもらうことで遺族が納得して終わるケースもありますから、遺族の胸にうんと鬱積した苦しみを少しでも和らげようということで始めたんですね」
2014年6月には医療法が改正され、2015年10月に医療事故調査制度が発足した。医療事故が発生した場合、院内調査の上で、その調査報告を日本医療安全調査機構が収集・分析し、真相を究明、再発防止につなげるという制度だ。
「予期しない死亡は、2013年のアメリカでの報告と照らしあわせると、日本では毎年約10万人、月に1万件出ていてもおかしくないのに、まだ月に20〜30件くらいしか出てきていません。制度ができても、まだまだ調査につながっていないんですよね」
日本で医療事故の死因究明が進まない理由、それは日本人の「あいまいな意識」だと伊藤氏は語る。
「日本人のあいまいさには救い難いものがあります。予期しなかった事故が認識されずに、あいまいなまま処理してしまう。これは学校教育を含めすべてにかかわる根本的な問題です。だからその改善にどのくらい時間がかかるのかは、私にはわかりません」
それでも、目の前には医療事故で苦しむ依頼者が列をつくって待っている。
「一つひとつの事件に向き合い、この地道な弁護士活動が医療界の自浄作用につながっていけば、私が医師の子どもとして生まれた役割が果たせると思います」
Profile|弁護士 伊藤紘一氏
1943年千葉県生まれ。早稲田大学第一法学部卒業後、1973年に弁護士登録。のちに東京弁護士会常議員業務対策委員あっせん仲裁協議会議長、広告調査委員会委員長を歴任。現在は国土交通省建築紛争審査会委員、土地家屋調査士会境界確定センター委員、紛争解決センター仲裁人を務める。